2016年8月7日日曜日

指導教授K  19

指導教授Kの退職の時、私はすでに助手の任期が過ぎていたし、いつまでも大学院に関わっていてもしょうがないので、(世界には他にいくらも訪れるべき場所、時間をともに過ごすべき人たちがいる…)学籍も抜いて、満期退学の措置を取っておいた。まだ博士課程の継続をする方途はあったし、そのほうが経済的にも資格上も便利ではあったが、なんといわれても、大学という場所と深く関わるのが本当に嫌で、興味もなかった。人間として魅力的な者たちがひとりもいない大学という場に踏み入ると、どうしようもなく、深くゲンナリしてしまうところがあるのだ。しかも、私が3年間務めた大学の研究棟は、重苦しい異様な暗さと寂しさが到るところに染みついていて、この大学に教員として残れなかった研究者たちの怨念の汚泥の中にいるような雰囲気があった。
Kの退職記念の最終講義の土曜日、私には勤め先の進学塾の仕事があって、聞きに行きづらい事情があった。それでも、勤め先に無理を言って多少の時間調整をし、最終講義だけは聞きに行けるようにした。それでも、それが終わったらすぐに大学を出て駅に向かわないと、仕事に間に合わなくなる。
Kは、最終講義として、主に、彼が生涯の対象としてきたスタンダールと、私も専門にしているシャトーブリアンについて語った。Kの話をさんざん聞いてきた私には新味は全くなかったが、うまく筋を付け、緩急と奥行きを盛り込んだ、悪くない講演になっていた。
しかし、ひとつ、とても驚かされるエピソードがあった。多くの聴衆の中で、たぶん、ただひとり、私だけが驚かされたに違いないひとつのエピソード。
シャトーブリアンの小説『アタラ』の版のひとつに関わる問題である。
私が修士課程にいた時、『アタラ』研究も私のテーマのひとつだったので、いろいろな版を比較しながら読み込みをしていたが、ガリマール社の1971年のフォリオ版の『アタラ』の本文テキスト(p.133)に間違いがあるのに気づいた。それはエピローグの中にあり、語り手が北アメリカで出会ったインディアンの女が、「私は、シャクタスが養子にしたヨーロッパ人ルネの娘です」と語っている箇所である。小説の中での経緯から見て、ここは、ルネの孫娘でなければ話が喰いちがってしまう。
シャトーブリアン自身が書き間違えたのだろうかと思い、他の版も調べてみると、文学古典のテキストとして一般的に権威ある版と見なされているプレイヤッド版でも、同じように「私は、シャクタスが養子にしたヨーロッパ人ルネの娘です」(p.97)となっていた。プレイヤッド版でもこのようならば、これはシャトーブリアン自身の書き損じの可能性が強まる。こう考えたものの、一応、他の版も調べてみることにした。
すると、驚くべきことに、1969年のプレイヤッド版以降に、厳正な校訂者として定評のあるJ.M.ゴーチェがジュネーヴのドロッツ書店から1973年に出版した校訂版『アタラ』では、「私は、シャクタスが養子にしたヨーロッパ人ルネの娘の娘です」(p.145)とある。プレイヤッド版以前の1962年にF.ルテシエがガルニエ書店から出版した定評ある校訂版でも、「私は、シャクタスが養子にしたヨーロッパ人ルネの娘の娘です」(p.160)となっていた。さらに、1950年にジョゼ・コルティ書店からアルマン・ヴェイユが出した念の入った研究の付加された批判校訂版でも、「私は、シャクタスが養子にしたヨーロッパ人ルネの娘の娘です」(p.128)となっており、この本に付録として付された1801年オリジナル版の復刻の該当箇所にも同じ表現が見い出される。
だいぶ後になって、パリの古書店で偶然手に入れたフォントゥモワン書店の『アタラ』オリジナル復刻版は1906年出版のものだが、ここでも「私は、シャクタスが養子にしたヨーロッパ人ルネの娘の娘です」(p.200)となっている。そして、なにより決定的なことに、やはりパリの古書店で入手した、シャトーブリアン生前の彼自身の手になる1826年発行のラヴォカ書店版全集第16巻においても、「私は、シャクタスが養子にしたヨーロッパ人ルネの娘の娘です」(p.132)となっている。
他のいくつかの版も含め、現在の私の手元には『アタラ』のほぼすべての主要な版が揃っているが、それらを総覧してみるかぎり、シャトーブリアン自身は、「私は、シャクタスが養子にしたヨーロッパ人ルネの娘の娘です」と記述したものと断定してかまわないだろう。プレイヤッド版とフォリオ版のみが誤ちを犯しているのである。
修士課程の時期には、私はラヴォカ版全集やフォントゥモワン書店のオリジナル復刻版はまだ持っていなかったが、アルマン・ヴェイユ批判校訂版やJ.M.ゴーチェ校訂版はすでに手に入れていた。これらだけでもすでに決定的な証拠になりうるものなので、プレイヤッド版とフォリオ版の誤ちは断定できる状態にあった。プレイヤッド版はシャトーブリアン研究の権威モーリス・ルガールによる版、フォリオ版はフランス・ロマン主義の権威ピエール・モローによる版であり、彼らの校訂による版にこうした誤りが見出されるとなると、かなり重大な問題となる。そればかりか、1969年のガリマール社のプレイヤッド版における間違いを、まったく同じ個所に限って、1971年のフォリオ版が犯しているということから、ピエール・モローの仕事の杜撰さが露呈するかたちとなっている。
私はこのことを、Kの授業後の、院生による例の小発表の時間に、『アタラ』についての研究発表のかたわら、ちょっと寄り道するかたちで、各版のコピーを示しながら説明した。Kは非常に驚き、「これは今までわからなかったけれど、プレイヤッド版でも間違いがあるんだねぇ。これはよく気づいたねぇ」と院生たちの前で言った。小さなことながらも、シャトーブリアン研究という小世界においては重大なことであり、権威ある版本の、Kも知らなかった誤ちを自分が発見できたことに、私は誇らしい気持ちだった。
Kの最終講義において私が驚かされたのは、このプレイヤッド版の誤ちを、彼自身の発見として語ったことである。
Kは、かつての自分の院生のひとりが、この権威ある版の誤ちを見つけた、とは語らなかった。自分自身が、あれこれの版を照らし合わせながら読書する過程で発見した、と語ったのである。
「プレイヤッド版といえば、間違いなどありえないと普通思われている権威ある叢書ですが、詳細に読み込むと、こういう間違いが見つかることもあるということです。私が言いたいのは、とにかく、原典を細かく、しっかり読み続けるのが大事だということです。私自身のこんな発見は些細なものですけれども、このぐらい読み込まないといけないということです」
 ここのところの正確なKの言いまわしを覚えているわけではないが、Kはほぼこのように言った。そればかりでなく、なんとご丁寧にも、このプレイヤッド版の誤ちをそのまま踏襲した版を出版してしまったロマン主義文学研究の権威ピエール・モローの恥ずべき行為にも言及し、権威をそのまま鵜呑みにするとどういうことになるかと、蘊蓄まで垂れたのである。
 最後の最後において、それもKの記念すべき最終講義で、単なる院生のひとりであった私の発見した事柄を、あたかも、自分が長い学究の読書生活の中で勝ち取った、学者ならではの小さな、しかし、正確な理性の働きを印づける、慎ましやかで誇らしい成果として、Kはそれなりに輝かしいエピソードとして語ったのである。
 他人の研究成果を盗むようなこういう行為を、私は、私たち院生は、Kからたびたび、厳として慎むように、と言われ続けてきた。それをKが、自らの最終講義で堂々とやったのである。
私は、声は立てないものの、自然と口を開き、笑い顔になってしまった。
なんという喜劇。
なんという見もの。
なんという運命のいたずら。
見事なものではないか。
しかも、私以外、この大教室で、誰ひとりこれに気づかない。気づきようもない。私が修士の時に行った発表で、私の発見を聴いていた者たちの幾人かもこの大教室には来ていたが、シャトーブリアンが専門でない彼らの場合、こんなことは覚えてもいないだろう。たったひとり、私だけが知っている。Kがなにをしたかを、私だけがこの場で知っている。
 仕事があるから、たぶん最終講義を聴きに行くことはできないだろう、とKに言っておいたので、Kは私が聞くことはないものと思って、大丈夫だと思って、このエピソードを入れたのだろうか。
 それとも、プレイヤッド版とフォリオ版『アタラ』の間違いを発見し、指摘したのは私だったことなどすっかり忘れて、自分が発見したのだと思い込んでしまっていたのだろうか。
 私は、いっそのこと、質疑応答の時に手を挙げて、
「先生、『アタラ』のプレイヤッド版の誤ちを見つけたのは僕でしたし、それを先生の前で発表したら、ずいぶん驚かれて、よく見つけたものだ、とおっしゃったじゃないですか」
とでも言ってやろうかと思ったが、最終講義などによくあるような体制翼賛的な雰囲気の中では、こちらこそが変なクレーマーのように映るだけだろうと考え、やめた。だいたい、時間がなかったこともあって、質疑応答の時間はほとんど取られず、お定まりの花束贈呈で終わった。
 最終講義を終えたKは仏文資料室に下がり、そこにはかつての教え子たちが詰めかけて、ごった返した。しばらくしてから、打ち上げのパーティーが催されることになっていた。私は仕事にすぐに向かわねばならなかったので、仏文資料室に赴いて、座っていたKに挨拶し、これから仕事に行かないといけないので、と理由を述べて、辞去した。忙しいと言っていたのに、今日は来てくれてありがとう、と言うKは、さっきの話にあった『アタラ』の版のエピソードのことなど、もう頭にもないようだった。どうやら、本当に自分が発見したとでも信じ込んでいるようだった。
 後になって、この日、私がパーティーに出ずに去ったことを、
「最終講義のパーティーだというのに、さっさと帰ってしまって。まぁ、しょうがないけれども…」
とKは私に言った。
「助手も終わっていましたし、新たな仕事があるわけでもなかったので、いやでも進学塾の仕事をせざるを得ませんでしたから…」
と私は答えたが、
「でもねえ…」
 と、さらにKは言った。
 あなたからは仕事が回ってこないからですよ。
 心の中で、そう言い添えていた。


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