指導教授Kの退職の時、私はすでに助手の任期が過ぎていたし、いつまでも大学院に関わっていてもしょうがないので、(世界には他にいくらも訪れるべき場所、時間をともに過ごすべき人たちがいる…)学籍も抜いて、満期退学の措置を取っておいた。まだ博士課程の継続をする方途はあったし、そのほうが経済的にも資格上も便利ではあったが、なんといわれても、大学という場所と深く関わるのが本当に嫌で、興味もなかった。人間として魅力的な者たちがひとりもいない大学という場に踏み入ると、どうしようもなく、深くゲンナリしてしまうところがあるのだ。しかも、私が3年間務めた大学の研究棟は、重苦しい異様な暗さと寂しさが到るところに染みついていて、この大学に教員として残れなかった研究者たちの怨念の汚泥の中にいるような雰囲気があった。
Kの退職記念の最終講義の土曜日、私には勤め先の進学塾の仕事があって、聞きに行きづらい事情があった。それでも、勤め先に無理を言って多少の時間調整をし、最終講義だけは聞きに行けるようにした。それでも、それが終わったらすぐに大学を出て駅に向かわないと、仕事に間に合わなくなる。
Kは、最終講義として、主に、彼が生涯の対象としてきたスタンダールと、私も専門にしているシャトーブリアンについて語った。Kの話をさんざん聞いてきた私には新味は全くなかったが、うまく筋を付け、緩急と奥行きを盛り込んだ、悪くない講演になっていた。
しかし、ひとつ、とても驚かされるエピソードがあった。多くの聴衆の中で、たぶん、ただひとり、私だけが驚かされたに違いないひとつのエピソード。
シャトーブリアンの小説『アタラ』の版のひとつに関わる問題である。
私が修士課程にいた時、『アタラ』研究も私のテーマのひとつだったので、いろいろな版を比較しながら読み込みをしていたが、ガリマール社の1971年のフォリオ版の『アタラ』の本文テキスト(p.133)に間違いがあるのに気づいた。それはエピローグの中にあり、語り手が北アメリカで出会ったインディアンの女が、「私は、シャクタスが養子にしたヨーロッパ人ルネの娘です」と語っている箇所である。小説の中での経緯から見て、ここは、ルネの孫娘でなければ話が喰いちがってしまう。
シャトーブリアン自身が書き間違えたのだろうかと思い、他の版も調べてみると、文学古典のテキストとして一般的に権威ある版と見なされているプレイヤッド版でも、同じように「私は、シャクタスが養子にしたヨーロッパ人ルネの娘です」(p.97)となっていた。プレイヤッド版でもこのようならば、これはシャトーブリアン自身の書き損じの可能性が強まる。こう考えたものの、一応、他の版も調べてみることにした。
すると、驚くべきことに、1969年のプレイヤッド版以降に、厳正な校訂者として定評のあるJ.M.ゴーチェがジュネーヴのドロッツ書店から1973年に出版した校訂版『アタラ』では、「私は、シャクタスが養子にしたヨーロッパ人ルネの娘の娘です」(p.145) とある。プレイヤッド版以前の1962年にF.ルテシエがガルニエ書店から出版した定評ある校訂版でも、「私は、シャクタスが養子にしたヨーロッパ人ルネの娘の娘です」(p.160) となっていた。さらに、1950年にジョゼ・コルティ書店からアルマン・ヴェイユが出した念の入った研究の付加された批判校訂版でも、「私は、シャクタスが養子にしたヨーロッパ人ルネの娘の娘です」(p.128 )となっており、この本に付録として付された1801年オリジナル版の復刻の該当箇所にも同じ表現が見い出される。
だいぶ後になって、パリの古書店で偶然手に入れたフォントゥモワン書店の『アタラ』オリジナル復刻版は1906年出版のものだが、ここでも「私は、シャクタスが養子にしたヨーロッパ人ルネの娘の娘です」(p.200 )となっている。そして、なにより決定的なことに、やはりパリの古書店で入手した、シャトーブリアン生前の彼自身の手になる1826年発行のラヴォカ書店版全集第16巻においても、「私は、シャクタスが養子にしたヨーロッパ人ルネの娘の娘です」(p.132 )となっている。
他のいくつかの版も含め、現在の私の手元には『アタラ』のほぼすべての主要な版が揃っているが、それらを総覧してみるかぎり、シャトーブリアン自身は、「私は、シャクタスが養子にしたヨーロッパ人ルネの娘の娘です」と記述したものと断定してかまわないだろう。プレイヤッド版とフォリオ版のみが誤ちを犯しているのである。
修士課程の時期には、私はラヴォカ版全集やフォントゥモワン書店のオリジナル復刻版はまだ持っていなかったが、アルマン・ヴェイユ批判校訂版やJ.M. ゴーチェ校訂版はすでに手に入れていた。これらだけでもすでに決定的な証拠になりうるものなので、プレイヤッド版とフォリオ版の誤ちは断定できる状態にあった。プレイヤッド版はシャトーブリアン研究の権威モーリス・ルガールによる版、フォリオ版はフランス・ロマン主義の権威ピエール・モローによる版であり、彼らの校訂による版にこうした誤りが見出されるとなると、かなり重大な問題となる。そればかりか、1969年のガリマール社のプレイヤッド版における間違いを、まったく同じ個所に限って、1971年のフォリオ版が犯しているということから、ピエール・モローの仕事の杜撰さが露呈するかたちとなっている。
私はこのことを、Kの授業後の、院生による例の小発表の時間に、『アタラ』についての研究発表のかたわら、ちょっと寄り道するかたちで、各版のコピーを示しながら説明した。Kは非常に驚き、「これは今までわからなかったけれど、プレイヤッド版でも間違いがあるんだねぇ。これはよく気づいたねぇ」と院生たちの前で言った。小さなことながらも、シャトーブリアン研究という小世界においては重大なことであり、権威ある版本の、Kも知らなかった誤ちを自分が発見できたことに、私は誇らしい気持ちだった。
Kの最終講義において私が驚かされたのは、このプレイヤッド版の誤ちを、彼自身の発見として語ったことである。
Kは、かつての自分の院生のひとりが、この権威ある版の誤ちを見つけた、とは語らなかった。自分自身が、あれこれの版を照らし合わせながら読書する過程で発見した、と語ったのである。
「プレイヤッド版といえば、ここのところの正確なKの言いまわしを覚えているわけではないが
最後の最後において、それもKの記念すべき最終講義で、
他人の研究成果を盗むようなこういう行為を、私は、
私は、声は立てないものの、自然と口を開き、笑い顔になってしまった。
なんという喜劇。
なんという見もの。
なんという運命のいたずら。
見事なものではないか。
しかも、私以外、この大教室で、誰ひとりこれに気づかない。気づきようもない。私が修士の時に行った発表で、私の発見を聴いていた者たちの幾人かもこの大教室には来ていたが、シャトーブリアンが専門でない彼らの場合、こんなことは覚えてもいないだろう。たったひとり、私だけが知っている。Kがなにをしたかを、私だけがこの場で知っている。
仕事があるから、それとも、プレイヤッド版とフォリオ版『アタラ』
私は、いっそのこと、質疑応答の時に手を挙げて、
「先生、『アタラ』
とでも言ってやろうかと思ったが、最終講義などによくあるような体制翼賛的な雰囲気の中では、こちらこそが変なクレーマーのように映るだけだろうと考え、やめた。だいたい、時間がなかったこともあって、質疑応答の時間はほとんど取られず、お定まりの花束贈呈で終わった。
最終講義を終えたKは仏文資料室に下がり、後になって、この日、私がパーティーに出ずに去ったことを、
「最終講義のパーティーだというのに、さっさと帰ってしまって。
とKは私に言った。
「助手も終わっていましたし、
と私は答えたが、
「でもねえ…」と、さらにKは言った。
あなたからは仕事が回ってこないからですよ。
心の中で、そう言い添えていた。
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