2016年8月7日日曜日

指導教授K  10

Kの研究室の不快さを、…などと言うと、不快でしかなかったかのような印象を与えかねないが、もちろん、不快さだけがあったわけではない。いろいろな側面があったうちで、不快と思われた部分の話というだけのことである。
研究室の不快な部分を最もつよく表わすのは、家に何度か掛かってきた先輩の院生Aからの電話だった。
先輩といっても年齢は私と同じで、大学から大学院にストレートで進んで、大学の中だけを生きてきた人物だが、それに対して、私は大学を出てから、自由も好き勝手も通らない様々な職場を経験していて、その期間に蓄えた金で大学院に入ってきている。いくつかの仕事を、いろいろと手管を張り巡らして継続させてもいる。
大学の外を生きてきた人間が、大学から一度も外に出たことのない人物に対して抱く軽侮の念には、普通、きわめて大きなものがある。大学で積まれた学識は、よほど秀でたものでないかぎり、文系の場合はオタクの雑学に過ぎないともいえる。それは使いようによっては他人の役にも立つし、オタクの雑学と呼んだからといってその知識自体を軽蔑しているわけではないが、その人物自身は、やはり、ただのオタクとしか呼びようはない。もちろん、世界史的な知の流れの中に自分の興味や知識を位置づけて、その意義をいつでも滔々と述べることができるような、サルトルやルカーチなみの教養主義的弁舌家であれば、それはそれなりの人間的価値を持つと思えるが、そういう人物は絶えて無くなってしまったのが現代である。
その先輩の院生Aは訥弁だし、訳読の際にも優秀なわけでもないし、才気はないし、会話を交わすにもはっきりしない上、いっしょにいてもつまらないところがあって、大学の枠内でのみやっていられる人物、と私には見えていた。もちろん、彼がどのようであっても、それはこちらの問題ではないのでかまわない。ただ、彼が近づいてくると、とにかくつまらなさの霧をいっしょに引き摺ってくるものだから、私は彼を他の誰かに押しつけて、それとなく場所を変えるようにしていた。
私には、対人関係で、人物の面白さ、発言の才気煥発さ、不思議と滲み出るような魅力の存在だけを重視するところがある。そういう、いっしょにいると必ずなにかを学べるような人たちのことは素直に認め、時間を費やしてでも会おうとする。ところが、それがない人たちには目も向けない。我ながら冷た過ぎると思うところもあるが、私にとって、人は本や映画のようなもので、いろいろな読解のできるテキストであり得る人が好きなのだ。
では、おまえ自身はどうなのか、人のことをそのように扱えるほど大した人物であるとでも自認しているのか、と問い返されれば、もちろん、とんでもない、と答える他はない。私は自分のつまらなさ、魅力のなさ、底の浅さなどを知り抜いている。だからこそ、自分にないものを他人に求め続けるのかもしれない、自分にないものを人から学び続けたい、と答えるだろう。口というのは便利なもので、なんとでも言えるのである。

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