2016年8月7日日曜日

指導教授K  14

研究か創作か、このことに関しては、博士課程のはじめに、指導教授Kから選択を迫られたことがある。
その頃、私は短歌の世界にいちばん深く関わっていて、結社のしがらみにずいぶん面倒な思いをしていた。Kが私に迫ったのは、フランス文学研究をするためには短歌を捨ててもらいたいが、そうするつもりがあるか、という問いだった。
私としては、じつは、中学生の頃から小説創作のことしか眼中にはなく、そのためのバルザック研究やドストエフスキー研究、さらにはポーや三島由紀夫や芥川龍之介研究に高校生時代から深入りしたのだし、さらには小説理論や小説分析理論にも手を広げていたのだった。
大学時代の読書のしかたは、大学の授業に向かう前に、たとえば朝5時ごろに起きて、30分ほどスタンダールを読み、次の30分をカフカに宛て、さらに次の30分をサルトルに宛て、電車の中ではバルザックやドストエフスキーを読むといった、時間刻みの受験勉強的な文学読破を続けていた。もちろん、その頃日本への紹介の盛んだった南米文学も、歌舞伎脚本集も、『同時代ゲーム』以降がらりと様相の変わった大江健三郎や、まだ生きていて旺盛に創作していた安倍公房や、やはりまだ生きていた小林秀雄、石川淳などの現代日本文学も読まねばならない対象だった。文学理論の紹介も盛んで、ミハイル・バフチンやロシア・フォルマリズム、ドゥルーズのカフカ論やプルースト論などには異様な魅力によって興奮させられたし、日本では柄谷行人や蓮実重彦の活躍が華々しかった。雑誌は朝日出版社の『エピステーメ』が刺激的だったし、工作舎の『遊』も見逃せなかった。中央公論社の文芸誌『海』は毎月必読すべきものだったし、女性雑誌の『マリ・クレール』も高度に文化的なポストモダンの雑誌だった。伊丹十三編集の軽い精神分析雑誌『モノンクル』なども面白いし、村上春樹の変わった小説に新人賞を与えた『群像』も見逃せず、もちろん『朝日ジャーナル』や『現代の眼』なども健在で、毎月買い込む雑誌量はかなり多くなりがちだった。
そんな私が短歌に関わるようになったのは、ひとつ書くのに時間のひどく掛かる小説とは別に、もっと手短に言語表現が楽しめる媒体を求めたかったためだろうと思う。寺山修司を、私なりに発見したのも大きかった。寺山の短歌創作法は、青春ドラマふうの明るい設定と、戦後の寒村の暗く寂しい風景、失われた日本の土俗の亡霊じみた雰囲気、現代日本のあっけらかんとした浮薄な空しさと軽さの伴う若者像などをより混ぜて、カミュふうの生の“真昼”の一瞬の光芒と喪失感、夢と限界性とをつねに同時に描き込むコントラストの妙から成っているが、そんな寺山の方法の吸収に一時期努め、自分でも似たようなものを作ってみるうちに、短歌らしいものができるようになっていった。もっとも、いま振り返れば、小説研究に没頭していたはずの大学時代、『古今和歌集』を耽読しながら東京をさ迷っていたりしたのも覚えているので、短歌に向かっていく兆しははじめからあったのだといえるかもしれない。
短歌だけではない。詩との関わりも、すでに確実に始まっていたのではないか。詩と自分とを結びつけようという気などまったくなかったが、ただ面白いからという理由で、現代詩のあれこれをずいぶん読んでいたし、戦後詩はおおかた読んでしまっていたし、吉原幸子の全詩集を買って読んだり、出たばかりの吉増剛造の『熱風』なども買って、本当に、ただ面白いから、という理由だけでくり返し読んでいた。
少しフランス語が読めるようになってからは、ボードレールとランボーの原書がいつも手元にあった。黄色いクラシック・ガルニエ版のランボー集はたびたび抱えて外出し、東京のあちこちで開いて、暗唱するほどに読み込んだ。あのような作風のランボーだから、理解を深めたなどと馬鹿なことは言えないものの、小林秀雄のランボー体験に近づこうとしながら、若い足掻きをしていたものと思う。さいわい、ランボーについては、大学に研究者であり訳者の平井啓之教授がいて親しんでいたし、マラルメの専門家松室三郎教授もいて、マラルメ講義に出続けていた。松室教授の授業のレポートには、マラルメの詩ではなく、ランボーの詩を扱うことをいつも許してもらって、わかったような分析と陶酔との混じった青臭い傲岸なレポートをいくつか提出したりした。
ロートレアモンは、まだまだフランス語では読めなかったので、あれこれの翻訳で読んでいたが、ロマン主義の最後の華のひとつとも言えるあの極度に濃縮された文体には相当影響された。ロートレアモン研究から創作に入ったル・クレジオの中期までの天衣無縫の作法に難なく着いて行けたのは、発想の点でも文体でも、ロートレアモンに馴染んでいたからかもしれない。
詩のことでいえば、高校時代の萩原朔太郎や中原中也への傾倒や、中学時代の教師から受けた詩歌のスパルタ教育も忘れ難いが、話が逸れ過ぎて、Kへと戻って来れなくなる可能性があるので、ここでは止めておく。Kのことについて語り出しながら、私を構成する様々な糸について手繰っていくうち、Kという人を、忘れはしないまでも、薄く思い続けていくばかりなのだろうか、という気がしている。
Kという人の場合は…というのではなく、Kでさえも、と言ったほうがいい。私が出会ってきた人々は、ふり返れば、誰もみな、淡く、薄い人々であるという気がするし、いま見知っている人たちも、誰ひとりの例外もなく、本当に、在るか無きかのはざまに揺れているような、希薄な影たちだと感じる。

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