この人の本名は開造といったが、これは父が開拓事業をやっていたところから来た名前らしい。彼は翻訳や創作をする際、ペンネームを用いた。開を啓に、造を作に置き換えて、啓作とした。簡にして遊び心もある筆名というべきだろう。
この人とKBの母方の祖父鈴木要三郎は、ロシア語の専門家だった。旧東京外国語学校露語科出身で、二葉亭四迷こと長谷川辰之助の二年先輩であり、二葉亭四迷とはかなり交流があった。海軍に入って主計士官となり、日露戦争の旅順港閉塞作戦で活躍した広瀬中佐にロシア語を教えたのも、日本に初めてトルストイの『アンナ・カレーニナ』を翻訳紹介したのもこの人だった。
もっとも、この翻訳は『アンナ・カレンナ』と題され、柴田流星訳とされている。柴田流星は東京外国語学校の学生で、要三郎が口述するのを筆記した人物だった。海軍省経理局に勤務していた要三郎が、毎日出勤前にこの学生に口述筆記させたものという。
海軍退官後、要三郎は創設時の日活に入り、専務を務めることになる。昭和14年に亡くなっているから、それ以前の日活制作の伝説的な山中貞雄監督、大河内傳次郎主演の日活映画『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』(1935年)や、 日中戦争を描き、ヴェネツィア国際映画祭でイタリア民衆文化大臣賞、「キネマ旬報」が1938年日本映画ベスト・ワンに選んだ田坂具隆監督『五人の斥候兵』(1938年)、また、文部省推薦映画第1号で、「キネマ旬報」ベストテン第2位の、やはり田坂具隆監督の『路傍の石』(1938年)などには、自社の作品として接したはずだろう。
ロシア語に秀でた祖父、フランス語に秀でた孫兄弟という関係をこうして瞥見すると、似た関わりを持った父子のことが浮かぶ。米川正夫と米川良夫で、良夫氏とは、私は何度か親しく話す機会があった。
ドストエフスキーの翻訳者として有名な米川正夫は、もちろんロシア語・ロシア文学の専門家であり、米川良夫氏はフランス語・フランス文学とイタリア語・イタリア文学の専門家、とりわけ、カルヴィーノ、パヴェーゼ、モラヴィア、パゾリーニなどの翻訳で知られる。
愚にもつかない、というより、いかにも芸のない質問ながら、あれだけロシア文学で著名な父上をお持ちなのに、どうしてロシア語を選ばなかったのか、と聞いた際、良夫氏は、
「なんとなく、ロシア語じゃないのにしようと思ったんですね」
とおっしゃった。
ドストエフスキー全集の翻訳者として聳える父を持ってしまった子が、ロシア語をそれとなく迂回していこうとするのなど、あたり前とも言えるのに、愚かな質問をしたものだと今も思う。そればかりか、ひとりの兄はロシア文学者、ロシア近代史家、もうひとりの兄もロシア文学者でポーランド文学者となれば、末っ子に生まれた良夫氏が他の言語に向かうのも、わかり過ぎるところがある。大学時代に学生運動に熱を入れ過ぎたため、フランスに遊学させられ、2年間をパリに暮らすうち、イタリア文学に目覚めたそうだが、私が話した頃の良夫氏は温厚そのものだった。大学で使う教科書に、イタリアのスポーツカー、ブガッティの歴史を扱ったものを今度選ぶつもりだと語っていらした時の嬉々とした表情に、堅苦しい教養主義的な姿勢をはじめから脱ぎ捨てているイタリア文学者ならではの趣が感じられた。
ちなみに、良夫は「よしお」ではなく、「りょうふ」と読む。これは、ロシア語名のレフで、リョーフとも読むことから来ており、これを命名されたことになる。たとえば、レフ・トルストイは、リョーフ・トルストイとも読むわけだ。
良夫氏は、ロシア語を避けて、フランス語やイタリア語に向かったものの、ロシア語で「リョーフ」と名づけられたがために、じつは、一生、ロシア語を背負い続けたのだとも言える。
米川良夫氏とお話することが多かった頃、やはり温厚で話しやすい人として、博覧強記のドイツ文学者、種村季弘氏のことが一緒に浮かんでくるが、話が逸れすぎていくので、このあたりでKに戻ろうと思う。
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