2016年8月7日日曜日

指導教授K  24

  たしか、私が博士課程の二年あたりの頃、Kの研究室の雰囲気がずいぶん変わった時があった。修士課程に入ってくる学生のレベルが一挙に低下したような時期があったのだった。
 この大学院に入ってくるだけあって、皆、フランス語はよくできる。しかし、それまで常識的と見えていた考え方というか、振舞い方というか、そうしたものを身に付けていない院生たちが一挙に増えたのだった
たとえば、他の研究室の院生で、私が少し親しく話すようになった女性などは、小説技法の実験室であるヌーヴォー・ロマンの作家ロブ=グリエの『消しゴム』の研究をしていたが、どうしてロブ=グリエのその作品に焦点を定めることにしたのかと聞くと、たまたま大学の講義で話に出て来たので興味を惹かれ、翻訳を読んでみたら面白かったから、と言った。彼女は日本の小説はまるで読んでおらず、『坊ちゃん』や『こころ』ぐらいは学校で読まされたが、漱石の他のものも、鴎外も、芥川も、三島も川端も大江も知らなければ、第三の新人たちの作品も内向の世代たちのものも読んでいない。フランスの小説にしても、バルザックもスタンダールもフローベールもプルーストも読んでおらず、たまたまロブ=グリエのその作品に遭遇して、ただそれだけにしがみついたというぐあいだった。こういう人が、フランス語ができたばかりにフランス文学の修士課程に入ってきてしまう。そうして、研究対象としては扱うのが容易でないヌーヴォー・ロマンを、なんの躊躇もなく選択してしまう。こんな人たちが一挙に増えた奇妙な時期なのだった。
 私たちの研究室で、特に突出してKを困らせた男子院生がいて、彼は自分の研究発表の際に、「この作品のここのところは悲しいと思う」とか「この人物のこの心理は酷い」といった、小学生の読書感想文のような感情的表現を多用した。しかも、フランスの19世紀文学についての論を進める際に、それを支える論拠として、ボブ・ディランの歌詞やビートルズの歌詞を引いてきたり、現代の日本のポップスを引いてきたりした。これらの歌の中にも同様の感情や思想が表現されていて、これらの歌においてはさらにはっきりとAはBだと歌われている、だから、19世紀のこの文章で言っていることもBという意味と考えてよいはずだ、などと主張する。Kならずとも、これには皆唖然とした。古典文学研究をするのに、現代のポップスなどを論拠にして、そこから遡って19世紀文学を解釈してはいけない、と言っても、なかなか通じない。Kはなんとも言いようがなくなってしまい、この院生に対しては黙ってしまうことが多くなった。
 晩秋だったと思うが、Kの授業とはべつの用事で大学に来て、夕方、まだ暗くならないうちに帰ろうとし、キャンパス内を正門へ歩いていた時、後ろから名を呼ばれて立ち止ると、Kが足早にやってきた。薄いコートを着ていて、白髪の目立つようになった髪が少し風に揺れる顔は、いつもより、いくらか枯れたように見えた。
「××君のこと、どう思う?」とKは切り出し、例の修士課程の院生の考え方や、あたりかまわず論拠になりそうなものを拾ってきて奇妙な論証をする癖や、小説内の心理を粗い感情論で主観的に照らせれば良しとするやり方などについて、ほとほと困っていると語った。ある意味、ポストモダン批評の最悪の安易な模倣例で、私も、Kと同様、あれはおかし過ぎると思う、と答えた。××君に、ひとつ、あれじゃダメだと教えてやってほしいんだが、と頼まれた。
 それ以来、Kの授業後の発表の時間には、その院生のやり方や考え方について、それではダメだとか、どこがダメかというと…とか、私はいろいろと批判を加えることにした。彼を苛立たせるような言い方はしなかったので、刺々しい雰囲気になることはなかったが、いつも私が多くの批判を加えるので、なんだか、私が積極的にこの院生を批判しているようなかたちになった。
 Kのために代弁してやっているに過ぎないんだけどな…
 時どき、まるで、私がこの院生を目の敵にでもしているかのように見えるのを自分でも感じながら、内心はこう思っていた。私にとっては、この院生のやり方も発表もどうでもよく、ダメならダメで放っておけばいいと思っていたのだった。
 さらに言えば、この院生のメチャクチャな論法が、少しでも多くの時間、Kの研究室の中にまき散らされて、Kの世界が撹乱され、Kが苛立たされれば面白いのに、とも、じつは私は思っていた。にもかかわらず、自分はKのためにこの院生のやり方を批判し、矯正しようとしている。いったい、何をやっているんだ、自分は。
 こんなことを思いながら、Kさながらに狭量な古めかしい文学研究の一派にでもなったかのように、いささかオールドファッションドに過ぎるかもしれない研究様式の鋳型にこの院生を嵌めるべく、私は彼の論法を細かく批判し続けた。

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