その頃、私はフランス人女性Hと暮らしており、 大学院ではそれに関する話は全くしなかったにも関わらず、 このことはどこからともなく洩れ、 院生たちに広まるようになった。私としては、 こんなことは洩れてもどうでもよいが、 Hは実生活について極度の秘密主義者だったので、 こうした漏洩を嫌った。秘密主義というより、Hは、 いろいろな噂やそれにもとづく背後の動きで物事が進んでいく日本 社会の気味の悪さや恐ろしさに敏感だった。 彼女は自国フランスの社会を信じているわけでもなかったが、 日本社会については遙かに強い不信感を抱いていた。これは、 表面的に親日家を装うフランス人たちでも同じことで、 日本社会への疑いという点では共通している場合が多い。
先輩の院生Aが電話してきたのは私が家にいない時で、 Hが電話に出た。Aは私の名を言って、○○ さんのお宅ですかとHに確かめ、彼女が「そうです。いま、 彼は居ませんけれども…」と言うと、 私になにか用があるわけではなくて、 私と同居しているHは誰なのか、と尋ねたという。
プライベートなことに濫りに入り込まれるのを極端に嫌うHは、 そんなことがあなたになんの関係があるのか、あなたは誰か、 どうしてそんなことを知りたがるのか、などと問い詰めたらしい。 Aは、指導教授Kに頼まれて、 私とHの関わりぐあいを知るべく電話してきたのだと言った。
電話はこの後も数度あり、私はいつも不在だったが、 Hはそのたびに憤慨していた。Aのことはもちろん、Kのことも、 最も嫌な日本人のやり口と見なし、警察に言う、 とまで息巻くようになった。
大学院で私がKと会っている時に、 他の院生のいない時にでも私に直接聞いてくれれば、 特に隠しもせずに話したかもしれないのに、 Aを介してのこういう妙な調べ方には私も不快感を抱くようになり 、Hと暮らしている件については、この後、 Kには全く開示しない気持ちになった。
Kがこんなことを調べたがった理由は、 ついにはっきり聞いてみることもなかったので、 よくわからないが、 彼が親しかった他大学の教授ASの差し金もあったかもしれない。 当時の日本では主要なフランス語辞典のひとつの編纂者でもあった 教授ASの大学でHは教えていて、私も7、8年前の大学生時代、 そこに在学していたことがあった。かつて学生だった私と、 そこで教員をしているHとの関わりを調べようとしたのではないか 、と私は推測する。
私はすでにその大学を離れていて、 なんの関係も持っていなかったので、 こんなことを調べられる筋合いもないのだが、その大学では昔、 O助教授事件というのがあって、 助教授と女子大学院生の不倫を原因とする一家心中事件があった。 それ以来、 その大学ではこうした問題に敏感になるようなところがあった。
私のいた学科でも、私が習った助教授Mと、 私のクラスの女子学生との交際が問題となったことがあった。 大学の授業の後で、 ふたりがどこどこのホテルに入って行ったという話がまことしやか に取り沙汰され、噂された。ヴァレリー専門で、 フランスの政治や社会にも関心の深いフランス帰りの助教授Mは独 身者だったから、いざとなればすぐに結婚してしまえば、 日本の社会の慣習としては問題はすぐに収束する程度の話だったの で、そもそも、 教員と学生の恋愛や結婚など珍しくもなかった70年代、 80年代の日本では大ごとでもないはずだったが、 こういうことをさも大ごとであるかのように騒ぎ立てる教授たちと いうものもあった。
このフランス帰りの助教授Mについては、 ルネサンス文学専門の教授Yが、 私たち学生に直接聞いてきたことがあった。 女子学生のNさんとつき合っている噂があって、 よくホテルなんかにも入り浸っているらしいのだが、 そういう場面を見たことはないか、 ふたりで他のどこかへ行くところを見たことはないか、 なにか知らないか、などと尋ねてきた。
私たちは助教授MとNさんのことについて全くなにも知らなかった ので、逆に、「へえ、そんなことがあるんですか」と驚き、 教授Yはむしろ逆に、 私たちに要らぬ噂を拡散してしまったような事態となった。 いったい、問題を穏便に収束させたいのだか、 それともさらに焚きつけたいのだか、 と教授Yの行動を私たちは訝ったものだが、 この時の教授Yの行動については、 だいぶ後になって腑に落ちたことがある。
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