2016年8月7日日曜日

指導教授K  6

  Kは、教師としては熱心で、毎週、時間いっぱいに全力で授業をやり切ろうという姿勢が揺らぐことはなかった。その点、彼の主義は一貫していたし、そこに辛口のダンディズムがあった、とは断言してよい。
大学の文科には、雑談で時間を潰そうとする教師は多いし、授業中に浮薄な文学論や人生論に走る教師も多い。それはそれで文学部らしくもある、と見なす伝統も文学部にはある。
明らかに、Kはそれを嫌っていた。教師に徹することが、Kの本質をなしていた。
これは素晴らしいことに見えるが、他方、防御でもある。自分が他の名物教授と違うことを真っ当に認識し、しばしば授業をいい加減にしがちになる名物教授と違い、きっちりと授業を行うことで、学生たちからの評価に対し、逃げ場を確保しようとしたとも言える。あの先生は有名でもないし、天才的でもないし、これといった魅力もないが、きちっとした性格で授業はちゃんとやってくれる、と評されるよう予防線を張っておくこと。それ自体はよいことであり、素晴らしくもあり、学生たちには幸いでもあるが、しかし、自分より声望の高い人々に伍して生き残っていくために、こうした真面目さは、往々にして劣った者が採ることになる狡猾な手段でもあるし、自己愛を生きのばせる方法でもある。
私がKの大学院の授業に参加し出した頃は、授業は午後1時10分から始まり、2時40分まできっちり行われる。19世紀フランス文学作品の原本か、それを論じる論文を訳読していくもので、毎回進む量はかなりのものだったため、予習して調べておくべき原文もかなりの量に達した。
この訳読の時間が終わると、Kの研究室や仏文研究室に移動して、院生の研究発表の時間となる。毎週、誰かひとりが、自分の研究分野についてテーマを絞って研究発表するもので、テーマに基づいて理屈を拵え、様々な引用を揃えて資料を作成し、それを出席者全員用にコピーして準備してくる。研究分野となる作家や問題は、研究室の全員がたいていはある程度知っている事柄ながら、詳しいことはさすがに専門に研究している者しか知らないので、長くなることも多い引用文をわかりやすく訳読するため、調べておかなければならないし、場合によっては下訳を作っておかなければならない。
Kの授業で読む文献訳読の準備に加え、これにはかなり時間がかかったが、ふた月に一度ほど順番の回ってくるこの研究発表は、格好の勉強の機会だった。前に発表したところからあまり研究の進んでいないような醜態は晒したくないし、不正確すぎる文献の読み方をしている様も晒したくないので、院生はおのずと自分のテーマの勉強に熱が入る。発表の前夜などは徹夜に近くなることが多く、忙しさを託ちがちだったが、ろくな授業もしない教師が少なくない大学という場で、こういう厳しい機会が得られたことは嬉しかった。すでに7年ほど前から自活していて、仕事をしながら大学院の学費も生活費も捻出していた私は、嫌でも勉強を強いられるこの環境の、いわば、コストパフォーマンスのよさとでもいうべきものを内心喜んでいた。払っただけのものをKはしっかり与えてくれる、それ以上のものを与えてくれる、と思った。
発表の時間は、だいたい午後3時過ぎ頃から始まって、二三時間続いた。前の訳読授業時間が終わったすぐ後に始めないのは、Kの研究室か仏文資料室への移動時間と、コーヒー作りやおやつ買いの時間をとるからである。
誰かが大学わきのドーナツ屋などへおやつを買いに行っている間に、フィルターで全員分のコーヒーを淹れる。コーヒーを飲みながら、ドーナツをひとつ食べ終わる程度の時間、談笑する。そうして、「さあ、始めようか…」というKの言葉で、その日の発表担当者が話し始めるのだが、それはどうしても3時過ぎになるのだった。
Kは、院生たちに訳読させる授業では、自分でもすべて調べて来てあるので、辞書を使うことはなかったし、そもそも辞書を持ってくることもなかった。あらかじめ配ってあるプリントに十分に書き込みをしてきておけばいいのだし、だいたい、教室で教師として辞書を使うのを格好よく思わなかったのだろう。しかし、発表の場合には、院生が持ってきた原文を読みながら、時どき机の引き出しを開けて辞書を取り出し、調べていることがあった。古い辞書で、おそらく、白水社の昔の仏和辞典のひとつではないかと思われた。学生時代から愛用してきたものだったのではないか。
教師として、こんなふうにKが辞書を引くのは、べつに恥ずかしいことではない。院生が持ってくるのは18世紀や19世紀の古典の原文だから、いくらその時代を研究している教師といっても、どの単語もすんなり分かるわけがない。ひとつの単語に幾つも語義があるものもあるし、いくら意味や用法を覚えても、なぜか忘れがちになる単語も少なくない。初級の教科書の例文を呼んでいるのとはわけが違うのだ。
Kの机は研究室の奥にあって、彼はそこの椅子に座って、院生の準備してきたプリントを見ながら話を聞き、時々、引き出しを開けて辞書を繰った。プリントを見ながら、ネクタイを弄ったり、窓のブラインドの紐を弾いたりすることもあった。発表者以外の院生たちは、研究室の中央の大きなテーブルに就き、はじめて見る文献を追い続けている。
そんな時、発表を聞きながら、私はよく、Kを見つめ、居並ぶ院生たちの姿や、研究室内の様々なところへ目をやった。大学院の、指導熱心な教授の研究指導時間の発表。大きくもない部屋に大勢の院生が並んで、皆、真剣に19世紀や18世紀のフランス語のプリントを見続けている。これらの人間たちの肉体の脳内に、プリントの内容が読み取られていく。あるいは、わからないところがあって、読みは脳内のどこかで停滞したりする。こんな時の研究室内外の風景を描写すれば、ミシェル・ビュトールの小説の雰囲気のようになったことだろう。
彼らの脳が受けた反応は、いったいどこへ向かい、どのようになり、なにをどこへもたらすのだろうか、と私はよく思った。この空間、この時間の持続、これにどんな意味があるのだろうか。どうして、この面々とこんな狭い部屋に、この曜日のこの時間、私は同室する羽目になったのだろうか。これはただの制度なのか、宿命なのか、すべてはどこかで決められていて、それにもとづいて、こういうメンバーがこの部屋に詰めることになったのか。
サルトルは『嘔吐』の中で、午後3時を奇妙な時間だと書いている。まだ一日は終わっていないが、なにか新たに始めることはもうできない時間。午後3時というのは、その中途半端さのゆえに自殺がいちばん多い時間だともいうが、その3時もだいぶ過ぎて、4時近くなったり、4時も過ぎてしまったりすると、広くもない研究室に大勢で詰めているというのは、いっそう奇妙に見えてくる。なにか、祝祭のようなものが始まってくるかのようだ。結局、人間はつねに、なんらかの祝祭のようなものに向かおうとして、大人数で集まったりするものなのか。
発表が終わると、質疑応答が続き、結局、すべてが終わるのは6時や7時になったりする。春から初夏、秋、冬と、この時間帯の光や空の色あいは様々に変化し、晩秋から冬には、研究棟の廊下は、蛍光灯の近くを除き真っ暗になったものだった。

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