2016年8月7日日曜日

指導教授K  20

  仕事が回ってこない、…といえば、助手の仕事さえ、じつは回ってこなくなる可能性もあった。
 文芸専修のE教授の推薦で助手になることが内定した時点でも、その後、文芸専修を構成する教授たちの会議で決定した時点でも、Kはたびたび私に、
「あそこの助手になると、君の上司はE君だよ。彼は独特だからねえ。性格的になかなか難しい男だけれど、大丈夫かねえ。やめておいたほうがいいかもしれないよ。今なら、まだ、やめられるよ?」
 このように、辞退するのを勧めてきた。
 たしかにE教授は気難しい性格で知られており、院生の中には、躊躇なく彼を“気狂い”と呼ぶ者たちもいた。私自身も、その奇矯な言動には何度か接している。他人が、なにか文芸上の話や学芸上の話、あるいは趣味の話をすると、自分はそれ以上だと、すぐに相手を病的に言い負かせたがるところが、E教授にはあった。
 たとえば、コンサートが好きでよく行く、先月など、4回も行ってしまった、などと誰かが言う。すると、E教授はすぐに、
「私なんか年に300回は行きます。音楽好きなら、そのくらいあたり前です」
 と宣う。年に300回行くとすると、平均して月に25回となり、本当のコンサートマニアなら、なるほど、大小あわせてそのくらい行けないこともない。しかし、E教授のように文芸専修の主任を務め、この大学で明治時代以来続いている文芸誌の編集長も務め、毎月その雑誌の編集を切り盛りし、すべての原稿に赤を入れ、さらに、いつも腕に新人賞応募作品を携えて歩きまわり、夜など大学前のレストランでよく原稿読みをしていたりする場合、どれほど音楽好きでも300回は難しいのではないか、と思わされる。
 また、誰かがある通俗作品が好きで、もう4回も再読してしまって気恥ずかしいくらいだ、と言うのを聞くと、こう言い出す。
「私など、大学時代にデュマの『モンテ・クリスト伯』を30回読みました。あれはよくできた通俗小説で、楽しかったから30回。そのぐらい読むのなど、あたり前です」
 あの長い作品を、3回読み返すのならまだしも、30回読んだと言われると、それはさすがに御冗談を、と言いたくなる。しかし、E教授に、それは冗談でしょう、と返すと、
「私は冗談は言いません」
 と必ず返ってくるのだ。
 E教授の「3」というのは有名で、必ず、「30」とか「300」とか「3000」という数字が返ってくる。小説で言えば、大江健三郎がなにかと数字を出してくるのが有名で、これは蓮実重彦が大江健三郎論で書いていたはずだが、それを見習いでもしたのか、E教授は「30」や「300」を連発し、時には「3000」などと返してくる。
 こういうE教授を上司にして数年間忙しく働いたら、心魂疲弊し切ってしまうだろうに、とKが考えるのも確かに一理あって、それを理由に、せっかくの助手の職ではあるが、やめておいたほうがいい、と勧めてくれたのかもしれない。
 だが、私を採用しようとするE教授の熱意は、有難いことに、かなりのもので、それに抗うようなことをすれば、いっそう危ういだろうと私には思われた。
今でも忘れないが、文芸専修の教授会で私の採用が本決まりした時、私はちょうどKの研究室にいて授業に出席していたが、突然、ドアを強くノックする音がして、「どうぞ」とKが言うと、E教授がドアを開けて入って来た。どうやら走ってきたらしく、ハアハア言いながら、
「今、文芸専修の会議が終わりまして、駿河君の助手就任が本決まりになりました。はやくお伝えしておこうと思いまして…」
 と、Kと私に向かって言った。E教授としては、他の学科の院生たちも候補に挙がっている中で、フランス文学の院生からの助手採用が決まったということで嬉しくもあり、それを、同じフランス文学科のKとも分かち合いたいらしかった。
 Kはもちろん、「それはよかった。E君、伝えに来てくれて、ありがとう」と微笑んだが、この夜、授業がすべて終わって、近くのレストランでいっしょに食べている時に、
「本当にいいのかい? E君の下で働くのは、やっぱり大変だと思うよ」
 と、また念を押してきた。
 今になれば、手に取るようにKの気持ちがわかる。E教授はKよりも15歳ほど若い後輩だが、Kに対して批判的な若い教授陣や助教授陣の急先鋒だった。そのE教授の配下に私がついてしまうのは、やはり寂しかったのだろう。私としては、この大学のフランス文学科にあくまで属しているつもりで、KもE教授も変わらないと思っていたが、どの教授につくかで別世界のようになるこの学科において、私が今後E教授と密になって行動するということは、私が想像する以上に、Kにとって心理的に大ごとだと考えるべきだったのかもしれない。
 ともあれ、指導教授であるKの勧めに本当に従っていれば、私は助手のポストを放棄していたわけで、そうなれば、数年分の給与のみならず、その後の文芸専修助手としての様々な出会いなども全くなかったことになり、私の人生は全く違ったものになっていただろう。そのほうがよかったとも、悪かったとも知れないが、比較のしようもないほど、別の人生となっていたのは確実である。
 さて、はたしてE教授の下で、Kが危惧したように、私は非常な苦労をしただろうか?
 幸いなことに、それはなかった。E教授の奇矯さには、危ぶまれた通り、毎週のごとく遭遇することにはなったものの、どういうわけか、私は彼とはぶっつかることがなかった。E教授は、多くの人に対して異常なほど怒ったり、対抗心を燃やしたりするところがあったが、部下には非常に優しく、さほど無理難題を持ちかけることもなく、やや変ではあったが、よい上司だった。
私に、組織において冷静で忠実な部下として振舞う性質があった、ということも、E教授とぶつからなかった理由だろう。そうした性質は、大学外での長い勤務生活で鍛えられてきていた。時たまのやゝ理不尽な要請や命令にも、私は文句も言わずに従った。それは、私の許容度を超えるほどのものではなかったし、たとえば、夕方に帰ろうとしていたところへE教授が飛び込んできて、
「これ、明日の委員会の会議のために、ちゃんと、もっともらしい文書に作っておいて」
 などとメモ書きを頼まれ、数時間残業しながら、夜の静まっていくキャンパスの真ん中の3階にある文芸専修室でひとりで書類作りをするのにも、それなりの生の充実というものがあった。
 冬ならドアを閉めて仕事をしていたが、夏ならば、ドアを廊下に開け放っていて、夜も9時を過ぎると研究棟の明かりも落ちているので、真っ暗になった廊下の静けさと暑さが、机まで流れてきた。暑いので専修室の窓もすべて開け放っていると、キャンパスの中庭をまばらに行き来する学生たちの声が時どきしたり、笑い声がしたりする。私は、昼間の中庭の学生たちでいっぱいな様を思い出しながら、週に最低4日、こんなふうに朝から夜まで専修室に詰めて、大きな大学の文学部の中心の中庭に面した3階の部屋で、何年も過ごしていっている今こそが、ひょっとしたら、この人生でいちばん幸せなことのひとつかもしれない、と思った。他人が近くを行き来し、しゃべり声が聞こえ、笑い声が聞こえ、誰もが勝手に自分の人生を生きている風景の中にいるのが私は好きなのだ。時々、なにもしないためにパリに行ってぼおっとカフェに座っていたりしたくなるのも、そのためかもしれない。
 E教授から頼まれた文書を作り終り、印刷し終えると、夜10時半近くになっていたりする。家に帰っているHには、遅くなるのをすでに連絡してあるので、最寄りの駅近くでなにか食べるか、新宿あたりに寄って食べるか、それとも、誰か学生に連絡して、いっしょに飲みにでも行こうか、などと考える。
窓を閉め、部屋の鍵をかけて、真っ暗な廊下に出、やはり暗い階段を一階まで下りて、キャンパスの中庭に出て正門へと歩いて行けば、都心の大学以外のどこにもない、あり得ない、夏の独特の雰囲気と夜景が広がっている。

0 件のコメント: