2016年8月7日日曜日

指導教授K  22

 大学院に入る以前から、複数の進学塾と予備校で教える仕事をしていた私にとって、毎晩だいたい4時間ほど教えるのはごく普通のことだったし、週全体では20時間ほどに上るのもあたり前のことだった。この業態は博士課程を満期退学しても続いたので、20年ほど変わらなかった。仕事の性質上、土曜は休みがないし、日曜日は一応授業はなかったが、実力テストや入試判定テストで駆り出されることがあり、しかも、春期講習、夏期講習、夏期合宿、冬期講習、入試シーズンには受験会場の様々な学校への応援のために、早朝から出勤するのが当たり前の業界だった。こうした仕事を一切減らすことなしに、私の修士課程と博士課程の勉強期間は過ごされた。物理的に時間もなければ、体力的にも割り振りが困難な長い長い期間だったが、睡眠は日に4時間を上限とし、時には2時間程度に抑えて、私は大学院とつき合った10年近くも通した。学外の仕事をいくらか減らしたのは、助手になってからに過ぎない。
 こういう私から見て、ある時Kが、他の教授たちと歓談していて話した担当授業数の少なさは驚くべきことに思えた。
「東大なんか、義務コマ数は2や3だっていうのに、この大学じゃ4コマやらないといけないんだからね。研究というのをどう考えてるんだか、参っちゃうよ。しかも、語学を教える教員は5コマやってくれ、っていうんだ。週に5コマも授業をやっていたら、ろくな研究はできないじゃないか。われわれ研究者にむかって、一体、なに言っているんだ、って思うね」
 私は頭の中で、自分は毎晩、進学塾で3コマぐらい教えているから、週で15コマか…、一時間の授業の場合には日に4コマだから、場合によっては週に20コマにもなるな、と数えた。正直なところ、自分はよく頑張っていると思ったものだ。
 その頃、私には、教授や助教授といった専任教員と、それ以外の非常勤講師との格差というものはよく見えていなかったし、関心も持たなかった。私は自分の多忙さと消耗の中で自分自身の問題で精いっぱいだったし、助手になっていてさえ、その後に生活を支え得るほど非常勤講師の職が得られるとは信じていなかったし、考えようともしていなかった。いつも上の教員たちに腰を半折にして過ごさねばならない業態が、私には不愉快でしかないと見えていた。
 ともあれ、5コマも持たされたために、本当にろくに研究ができなかったのかどうか、Kは大学紀要に論文を書くことはなかったし、文芸雑誌に毎月連載するような書き手でもなかった。気心のあった仲間たちと出している、年に数回の同人研究雑誌には毎号のように論文やエッセーを書いていて、“研究”としては、そこが中心的な活動の場だったといえる。自分のいる大学にはひとりも友はいないし、信じられる人もいない、とKは言っていて、大学の紀要になにか書けば、ただちに粗探しされるのを意識していたのだろうか。
 若い頃のKは、翻訳にしても論文にしても、もっと旺盛にやっていた。しかし、先輩教授KBやべつの先輩教授Hとの間の板挟みになった件や、後輩の助教授たちからの突き上げや嫌悪を受けた結果として、私が彼の研究室に入った頃には、ずいぶんと活動の仕方が変わってしまった後だった。
 私の手元には、Kの出した主要な論文集が数冊あるが、それらを見ると、ロマン主義研究者として、有名どころの作家を狙いながら、目につきやすい、取っつき易いテーマを選び、しかも、他人から攻撃されづらいアングルからチョンチョンと突いているのがわかる。フランスのロマン主義の作家たちは、誰であれ、国際規模での多量の論文の対象とされてきたので、Kがこのような態度を採るのは理解できるし、それまでの他の研究者が扱っていないところを探してやろうとすれば、こんな印象の論文になっていくのは致し方ない。
 ある意味、素直に何人かの作家たちに、いかにも文学的に、文芸趣味的に、向きあい続けたものだと感心させられもする。
 しかし、専門領域が同じだからこそ、私が思う欠点もある。
 60代になって退職が視野に入って来た頃、たとえばKは、バンジャマン・コンスタンの鋭利な恋愛心理小説『アドルフ』の読解に集中した論文をいくつか書いているが、これらは驚くべき論文で、この小説から一歩も出ることなしに、登場人物の心理の追及だけを行っている。文体も疾走するようで、脇目も振らずに小説内読解だけを行っていく。
 これは、エッセーであり、評論なのである。論評かもしれないが、論文ではない。
 私もKのコンスタン論のような文を書く楽しみは知っており、ずいぶん書いたが、それを論文として出すことはしなかった。私の思うに、論文というのは、どこまで行っても、脇目を振り続けるのを強いられ続ける文体によるものであり、多数の断層による思考を並べ直しつつ、幾重にも再編集し続けた末の風通しのよいまとめ文でしかない。
 しかも、私の思うには、論文は、2万字程度までの短いものの場合でも、20から30冊以上の他人の著作や思考の引用の織物でなければならない。ひとつやふたつの著作に基づいて、そこから問題テーマを引っ張り出してきて、それをあゝでもない、こうでもない、と論じていくのはエッセーなのであり、論文ではない。したがって、論文の場合、短いものでも、多数の先行著作をわざわざ手にし、読み、それらが提示してくる問題意識やキー概念を収集し、それを絡みあわせ、編集しながら、こちらの恣意的な誘導なしに自ずと発生してくる思念の方向性を拾い出すことに作業上の中心が来るわけで、これだけの作業が注入されているからこそ、内容の如何にかかわらず意味を成していくものと考える。
 扱った他人の思索や著作の分量や、概念や思考法の収集、分類、整理、編集などの多層的な作業の積み重ねを通じて、もともと個人的な偏向に満ちていた思索が多少なりとも普遍的なものに変質していく。ヴィーコの方法論に通じるこうした仕事が凝縮されている場合に、人文学における研究行為の意味がようやく滲み出てくると私には思われる。
 Kのように、好きな小説を自分の思い通りに語り直す作業は、文学好きには楽しいに違いない。しかし、それは解説の仕事であり、エッセーであり、評論の仕事であり、さらに言えばNHKブックスや新書の仕事であって、論文の仕事ではない。だから、Kの『アドルフ』論を見ながら、私は、ついにKは、切れちゃったな、投げ出しちゃったな、と思ったのだった。
 しかも、バンジャマン・コンスタンの場合、じつは小説家としてよりも、政治家として、また政治理論家としての仕事や存在のほうが比較にならないほど大きい。フランス革命で始まったフランスにおける「共和国」の実験について、テルミドール派共和主義者であったコンスタンとスタール夫人は、とりわけ、「共和国」が行き詰まっていく事態について、最大の観察者であり注釈者だった。1789年の人権宣言に盛り込まれた諸原理に愛着を抱き、ブルボン家と貴族政復活に反対していたこのふたりは、フランス文学史においてはいくつかの小説作品やエッセーなどの著者として、ロマン主義を準備した時期の人物と見られる場合が多いが、フランス共和主義研究やフランス自由主義研究においては、19世紀ロマン主義のどんな大作家や詩人よりも大きく扱われることになる。コンスタンの『アドルフ』が切れのいい小さな名作であるのは論を待たないものの、より上位の視点から見るならば、『アドルフ』研究などしている暇はなく、まず、共和主義者コンスタンの思想考察から入るのが筋というものである。文芸趣味の場においては、もちろんコンスタンの小説作品や日記などだけを楽しんで感想をまとめておけばいいだろうが、「研究」というのはそうではない。まして、有名な大学で多額の給与を支給され、研究費も貰って、しかも、週にせいぜい5コマ程度の授業だけで済むような労働だけを義務化されているというのならば、コンスタン研究の重心をコンスタン政治学にまずは置いて、それから各論として、小説作品も取り込んでいくのでなければならない。
もし私がKの指導教授だったならば、この点については圧力をかけただろう。たとえば、1796年、コンスタンとスタール夫人が総裁政府下における政治について考察を書き始めていた時、将来の共産主義の先駆であるバブーフの陰謀事件が起き、ここで、所有権の否定思想がはじめて陽の目を見、共和政と萌芽の共産主義思想が混じり合うという劇的な状態が発生する。この時、コンスタンとスタール夫人は、財産権を守ろうとした1789年原理と当時の習俗・精神の尊重をさらに強め、いわば、革命の成果を革命初期の『人権宣言』期にのみ限定し、ジャコバン体制を切り離して、あらゆるジャコバン的政治・社会経験をフランス政治政策史から廃棄する方向を取ろうとする。こうしたコンスタンの思想を、とりあえずは本人の著作にあたって見通しておかないで、はたして彼の心理小説を、根本的な偏向を犯さないで読めるだろうか。そんな問いを、私はKに投げかけることになったことだろう。もちろん、文学の人間にとって、政治文書や政治学、さらには、フランス革命期の様々な無限の錯綜する事象に取り組むことがどれほど辛く重苦しい作業か、分かり切った上で。
 シャトーブリアンについての論考においても、Kは、とうとう、フランス革命の総体的研究を行わなかったし、ヨーロッパ政治上、自由主義的保守主義の最初の旗手であったシャトーブリアンの政治性の解明を十分には行わなかった。私の思うに、それだけでもう、シャトーブリアンを読む資格はないのである。フランス革命の勉強、政治学の勉強、18世紀の歴史と思想的系譜の勉強、特に、ナポレオンとルイ18世とシャルル10世時代の歴史の勉強、その時代のヨーロッパの政治家たちや軍人たち、文化人たちについてのきりのない情報収集を続けないかぎり、シャトーブリアンという現象は十分に見えてこない。これらの作業がどれほど日本人にとって、楽でない、時間を食う、目立たぬ読書と砂を噛むような情報収集の連続を強いてくる重荷かは、想像してみるだけでもわかる。しかも、表層的なお上品外国文学趣味の領域で評判のプルースト、フローベール、バルザック、カミュなどのようなネームバリューは日本においてはシャトーブリアンには存在しないから、翻訳書も研究書も評論集も、ほいほいとは出して貰えないので、研究者の気力は削がれ続ける。
 とはいえ、Kが文章のかたちで残したコンスタン論やシャトーブリアン論などが、私にとって参考にならない、というのではない。この作品についての此処のところは、Kはここまでしか見通せなかった、あるいは、こんなところまで見ていた、などといった省察は、研究領域を同じくするKと私の間だからこそ生まれうるものでもある。
 本や文章というのは不思議なもので、書棚に飾っておいたり、山にして積んでおいたりするのを見ると、時に、どうしようもないほどの空しさに苛まれることがある。しかし、ひとたびページを開き、その中に展開されている思考の流れに乗っていくと、あゝ、その通りだ、とか、そこは違うな、とか、それは即断し過ぎだ、とか、うまい推測を出してきている、とか、たちまち対話が始まる。本好きで、なんらかのテーマを追っていくのが好きな人たちにとっては、これ以上の幸福の時というものはないのではないか、と思う。これを孤独で寂しい姿と見るならば、他人から孤独で寂しく見える時ほど人が幸福である時はない、ということになる。

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