短歌を捨てて、フランス文学研究に打ち込んでほしい、とKに言われた私は、両方とも続けていきます、と答えた。
今にして思えば、私のこの答えで、Kは私への助力を控えることにしたのかもしれないが、正確にはわからない。Kと私の研究分野ははっきりと重なっており、研究上の後継者として私は悪くはなかったはずだろうが。
研究上の後継者と目されたからといって、Kが仕事を世話してくれたりしたとまでは思えない。自分の院生たちのために他人に頭を下げる人でないのは、私にはわかっていた。授業や院生の発表などには、いかにも教師然として真摯な態度を堅持し続けたが、それだからこそ、それ以上のことを院生たちにしてやらないでもわかってもらえるだろう、という雰囲気があった。
ダメなものには、いくら期待しても仕方がない。Kはよい教師であり、院生たちに熱心に対応している。しかし、顔が狭く、飛び抜けたカリスマ性もなく、院生たちのために職を与えてやれるような力は皆無であり、その上、院生たちのために他人に頭を下げることはしない。だから、どうにもならない。Kを通じてなにか得られるということはない。ダメなものはダメ。私にはそういう結論が出ており、したがって、Kに不満を感じもせず、恨みもせず、サバサバした気分だった。もちろん、そんなKの望みを入れて、短歌を捨てる姿を見せる必要もないと思えた。
Kが嫌悪した先輩教授KBのことはすでに書いたが、そのためなのかどうか、Kは詩歌全般をそれとなく嫌うところがあった。散文のほうに馴染み、散文作家研究をしてもいたので、韻文はわかりづらいと感じるところがあったのだろうが、俳句の蕪村などは好んでいて、全集も買っていたのだから、韻文全体を嫌っていたとも思えない。やはり、詩歌を専門にする人たちとうまくいかないという、学内での人間関係が大きく響いていて、私が詩歌に関わっているのを見ると、どこかカチンと来るものがあったのだろう。
KBのほかに、詩歌専門としては教授Sがおり、この人はフランスの詩人のイヴ・ボヌフォワと親交があって、翻訳も出している。若い頃にはヘルマン・ヘッセとも文通をしていて、片山敏彦とも交流があった。美しい山野や海浜に旅をしては絵筆を執るような、ヘッセやロマン・ロラン系の(…それは、あくまで日本で広まったイメージによっての話であり、実際のヘッセやロランははるかに厳しい文学者であり、広い領域に関心のある知識人だったが)、高原系とでもいうべきか、明るく甘い人道主義の系譜を引き継ぐ、いかにも文学部という感じの温厚な教授で、よく典雅な詩集を自費出版したので、私はそのたびに贈呈されたりしていた。
Kは、同僚のこの教授Sとはよく話しているようだったが、私たちにはよく、この人の批判をした。自分は詩人や歌人は大嫌いだ、とKは時どき語ったが、そんな時に引き合いに出される例のひとりが教授Sだった。
教授Sの娘が急死した時、こんなことがあったのだという。葬儀に行くと、紙が手渡された。見ると、急逝した娘についての詩が書かれていた。Sが急いで書き上げたものが、印刷され、会葬者たちに配られたのだった。自分の娘が死んだことさえも素材にして、詩作をしてしまう。そればかりか、すぐに印刷して、会葬者たちに配布までしてしまう。この自意識過剰ぶりにKは憤慨していた。Kからすれば、詩作はあくまで個人の趣味であり道楽に留まるべきもので、人の死を濫りに材料にしたりすべきではないということらしい。
Kの考えには一理あるし、世間的には良識の部類に入る。ロマン主義に浸り切っていられた時代の、バイロンだのコールリッジだの、あるいはユゴーだのミュッセだのという、よほどの飛び抜けた大詩人でもあれば別だが、現代の一市民に過ぎない者が、娘の死に際して詩作をし、それを人々に配るとはなんと大袈裟な…というKの受け止め方は、Kがロマン主義専門のフランス文学史家(本人はこう自認していた)であるだけ、なおさら強くなったのかもしれない。
この話が出るたびに、私は、
「でも、詩人ならば、娘の死に臨んで、やはり書くと思います。単なる自己顕示とは違う意味で。その場合、娘の死というのは、単なる材料というわけではないんだと思いますよ」
などとKに話したが、あまりKを納得させることはできなかった。このあたりのことは、ちょっとした雑談では語り切れない、高度に緻密な詩論の領域になる。例えば、ジョン・キーツの詩法である創造的消極性などと同様で、共に詩的創造に関心のある者どうしが静かに論じあう中で、はじめて、どうにか意味のある議論が作り出せるたぐいのものだろう。批判しかするつもりのない者と語ろうとしたところで、どうにもならない。ドゥルーズが言うように、あらゆる議論やコミュニケーションには、よほどの幸福な対話者の出現でもないかぎり、普通はなんの価値もないのだ。
Kの考えでは、やはりSは、娘の死を、詩作という自己顕示の材料にしたのだ、ということになっていて、その点では動かなかった。そのようにも考えうる一面はあるものの、しかし同時に、詩作にかかった場合に起こる別世界の動きがそこにはある、ということが、Kには理解できなかった。あるいは、理解したくなかった。
Kの知りあいの或る女性歌人が、やはり夫の死に際して挽歌を作り、Kたちに見せたことがあったという。このことも、もちろんKは嫌悪した。自分の夫が死んだというのに、それをネタにして短歌なんか作ってしまうんだ、酷いもんじゃないか、とKは言った。
たしかに、酷いものかもしれない。
しかし、書くということは、そういうことだろう。
そうことでしかないではないか。
詩歌に限らず、散文も含め、文芸的なものを書く者たちは、世間通俗の人間観に自分を嵌め続けるがために書くのではない。ものを書くペンの先や、キーボードをタッチする瞬間に、世界は反転する。現実世界は一気にネガになる。書いている向こうにだけ、書き手にとっての現実や真や美が発生し、人間的現実と呼ばれるこちら側は、向こう側を作るための素材箱にしか過ぎなくなる。
文学史的にも最も巨大な妄想家たちと云えるロマン主義時代の大作家たちを研究対象にしているKが、こんなことをわからないはずもない。だとすれば、嫉妬か、それとも、教授Sたちに対するKの厳しい評定がそこにはあったか。
たぶん、後者であったのだろうと思う。つまらない才能の持ち主が、なにを詩人ぶって書くのか。娘の死を材料にしながら、この程度のヘボ詩なのか。ユゴーが娘の死を題材にした詩と比べるべくもない、こんなものが詩か、マレルブが知人たちの死に臨んで書き上げたあれらの名作詩に比すべくもないこんなものを、Sは詩と呼ぶのか。Kはそう思っていただろう。
Kばかりでなく、私も含め、フランス・ロマン主義とその前後を研究する者たち、ないしは愛読する者たちの視野には、詩といえば、膨大な試作品を残したヴィクトル・ユゴーが先ずあり、人生の浮沈を十二分に、比較的平易に歌い切った名調子のラマルティーヌがあり(タレイランなどは、詩人はラマルティーヌしか居ないとさえ言っている)、ミュッセ、ヴィニー、ボードレール、ヴェルレーヌ、ランボー、マラルメがおり、イギリスのワーズワース、バイロン、コウルリッジ、シェリーなどもおり、ドイツのヘルダーリンやノヴァーリスがいるという具合で、こうした名は単なる発端に過ぎないにもかかわらず、これだけでもすでに大量の図書で書架が占められてしまうことになる。
これらの膨大な量の、読むべき、熟読すべき、玩味すべき古典を前にして、才の薄い者が娘の死に臨んでチョチョイと書き落としたものを、傲岸にも、不遜にも、恥知らずにも、あえて詩と呼ぼうというのか…
Kは、そう思っていたに違いない。
私とてもこの思いは共有するのだが、しかし、ここであえて言っておけば、たぶん、Kはアメリカのホイットマンの天衣無縫さを血肉で知ってはいなかった。フランス・ロマン主義のどうしようもない古色蒼然さをすべて一瞬に破壊し去るほどのホイットマンの反形式、反詩の凄まじさに、本当に惹き込まれて読んだことが、Kはなかった。
しかも、読んでみればわかるが、ユゴーに内容的に読み深めるべき詩は意外に少ないし、ボードレールでさえ、私の経験からすれば、数十回再読した後にはもう捨ててもよい。調子良さ、懐かしさはある。しかし、ボードレールの読みを深めるには、ベンヤミンのように歴史的社会的要素の文脈を効果的なスパイスとして混ぜ込むような他のテキストを持ち込んで来て、それと混ぜ合わせることで味を出す他にはない。そうしてさえ、すぐに飽きるのだ。ベンヤミンふうボードレールにも飽きる。マラルメにも飽きる。ランボーだって、またか、あいもかわらず…と思う。よほど、ロンサールやデュベレーのほうが色褪せないのだ。
もしKと今話すことができれば、ぜひ言っておきたい究極の反論もある。詩歌であれ、散文であれ、ものを書くのに才能など要らないということだ。
ユゴーからマラルメまでの詩作品など読む必要もない。
ただ書けばよい。
もし書きたいのなら。
文芸は、書かねばならないから仕方なく書いたというような、提出書類の類や学校の作文・レポートの類ではない。書く必要など全くないのに、好き好んで詩歌のかたちを選んで書いたり、そのかたちからも逸れて書いたり、小説のかたちで書いたり、小説だかエッセーだかわからない雑文のかたちで書いたりしていってしまう異様なものだ。そこには、才能は要らない。技術も要らない。社会的必要もない。モラルも要らない。かといって、反抗も要らない。革命的な意思も情熱も要らない。
書き手となった者が、なぜだか、とにかく書いた、という事実があるだけのことである。
そうして、書いた者が書かない者に優越する、ということもない。というのも、書かれたもの、残っていくものに、究極のところ、それほどの価値があるわけでもないからである。
こういうことを考えるのに適した対象としては、フランス文学の枠内だけでも、シャトーブリアンの知己で、作品を書かなかった作家ジュベールがおり、書くのを20歳で止め詩作を放棄した天才ランボーがいる。このあたりのことは、作家で批評家のモーリス・ブランショが得意とする文学哲学の領域となる。書くこと、作品が完成すること、残ることなどの優越にのみ取りつかれている者は、文芸においては初歩の初歩の読者でしかない。