2016年8月7日日曜日

指導教授K  17

   妻と結婚した時、知り合いたちに結婚を知らせる葉書を出したが、その後にKと会った際、
「泥沼の離別劇があったのかい?」
 と彼は私に聞いた。
 私がフランス女性Hと住んでいたことを知っているので、Hと別れたり、妻と出会って結婚に到るまでには、いろいろと紛糾があっただろうと想像してのことだったのだろう。
 Hと一緒だった頃、時どき用事で私の家にKが電話してくる時には、私が不在の折りなどHが受話器を取るので、Kは、Hと直接話したことも何度かあった。Kは、あまりフランス語の実用会話などは得意ではなかったらしいが、そういう時は、さすがにフランス語・フランス文学の教員だけあって、フランス語でHに挨拶していたらしい。私が帰宅すると、「ムッシューKから電話がありました」とHが伝えてくれた。Hは、俗語日本語の文末表現が不得意だったので、私と話す際にも、日本語で話す場合には、いつも、「です/ます」体で話した。
「へえ、K先生、フランス語話せてた?」
「そう、…だいたい、大丈夫です。真面目なフランス語で挨拶してました」
 そんな短評をHから聞いたりしたものだった。
 泥沼の離婚劇があったのか、と聞かれた時には、なんとも俗な想像力の持ち主めが…、と、私は心の中で思った。
 よくまあ、プライベートなことをぬけぬけと聞いてくるものだ、とも。
「いえ、なんの問題もありませんでしたけれど…」
 即座に私がこう答えると、
「そうかい? それなら、よかったけれども…」 
微笑みながら、Kは盃を口に持っていった。
他人の泥沼の愛憎劇は、蜜の味とまでいかずとも、古今東西、人間の世界では、一場の座興にはなってくれる楽しい話題で、誰もがつねに待ち望んでいる。木戸銭を払いもしない知り合いに、無料でこんな一幕を提供してやるほど私はお人好しでもないので、こういう時にはサバサバと、え?、べつになんでもありませんけれど…というスカシを喰らわせるに限る。
ただ、この時の結婚をめぐる事情には、スカシを喰らわせるもなにも、実際、Kが想像したらしいような問題は全くなかった。
私は妻に会う以前に、Hとは離れて暮らすことにしていたし、妻と暮らし始めてからも、Hをたびたび家に呼んで一緒に食事をしたりしている。妻との新居に引っ越す時にも、Hが来て手伝ってくれている。私の誕生日にはHと妻が一緒にケーキを選んでくれたりもする、といったふうで、日本ではいまだになかなか理解されないようなこういう関係性が私とHの間にはあり、さらにHと妻との間にもあった。
こういう関係性を作り上げ、維持するのは、ひとえに、関係者たちの能力と見識に掛かっている。私のことを語れば愚かしくなるからそれは避けるが、Hと妻とのやや高次の判断に掛かっていたと認識しておくべきだろう。
このあたりをよりよく理解するには、徹底して非日本であろうとする私の突出した静かな異常さを説明する必要もあるが、それ以上に、フランス人女性Hの、これもまた徹底した結婚憎悪と家庭憎悪を説明する必要がある。Hと会った頃の私は、結婚観はごく普通の現代日本ふうの通俗なものを持っていたと思うが、Hは、なにがあろうと結婚はしない、断じて子供は持たない、もし妊娠したらすぐに中絶する、自分の子供が産まれた場合、それは自分の時間と労力を損なうだけの生物で大嫌いである、とにかく自分の時間と空間は自分だけを生きるためだけの与件である、というふうに徹底した思想を持っていて、私もそれに合わせるかたちで、しだいに自分でも反結婚の強い考え方を持つようになった。
Hとしては、私が彼女を、彼女の望むようなかたちでは、本当には“愛して”いないと感じ続けていたところもあり、それも結婚拒否の理由となっていたかもしれない。
Hと出会った頃、私は、16歳のヨーロッパ旅行の際にイギリスで出会ったフランス人女性SYを結婚相手とするべく、異様なほどの純愛を貫いていたし、Hといっしょにその女性SYを訪ねた際にも、私が問題としていたのは、SYとの結婚をどこまで待つべきか否か、といったことだった。SYは、ドイツ系の血の混じったフランス人で、金髪に鳶色の瞳、バージニア・ウルフに似た容貌で、10代の頃の美しさは陶然とさせられるほどだった。20代になってもそれは変わらなかった。
Hは当時、私と暮らしながらも、私とSYの恋愛問題の聞き手であり、相談相手の位置に追いやられていたといえる。20代の私は、そう意図したわけではないものの、こうした点では甚だしく残酷だったといえる。「私は、あなたにとって、なんなのかしら?」とHはよく言っていた。
結局、SYは、大学を終えた頃の不安定な時代に彼女の力になってくれた友人Bと結婚したが、そのことを私には知らせずに3年ほど音信を絶った。
Hとフランスを回っていた時、ふと、夫の土地に移り住んだSYに会いに行こうと思い、その地方へHと向かった。三人で再会し、さらに夫Bとも出会って、これ以後、フランスに行くと、SYの地方を訪れるのも恒例のひとつとなった。
SYはこの時、私とふたりだけで草原を散策しながら、言った。
「Bのことは愛してはいないの。でも、彼は、つらかったあの時期の私を本当によく励まし、支えてくれた。Bが一緒になりたいと望むから、感謝の気持ちから、そうすべきだと思ったの。Bとの結婚は、それだけのもの。…あなたは、だって、そばにはいなかったのだし」
 私のことだって、愛したりしてはいなかっただろうし、将来もそれはないだろうし…、と、多くの恋愛心理小説を読み込んできていた私は思った。この頃、私の知的なテーマのひとつは、フランス心理小説群における緻密な恋の駆け引きの読解でもあった。そこには、日本の三島や川端、谷崎、紫式部などにおける恋愛心理の考察も加わっていた。
 Bのことだけでなく、はたして、SYは誰かを“愛する”ことができたのだろうか?
 おそらく、私がそばにいたとしても、私を“愛する”ことも、彼女にはできなかったのではないか?
 一種の心身の不感症のようなところが彼女にはあるのを、その頃の私はもう知っていたし、それはよく、手紙やメールに対する長い無反応のかたちで現われた。三か月ほどは返信がこないのは普通だし、時には六か月ほど来ないこともあった。返事が来たとしても、ぶっきらぼうな数行だけの場合が多かった。
そんなふうにして、Hとの関わりや、他のどんな友人知人たちとの関わりよりも長く、SYとは、16歳の時以来、間欠泉のような関わりあいをしてきた。
若かった私を虜にし、結婚したいと願わせ続けた美しい女。しかし、思考や感情に底知れない空虚さがあり、一緒になったり、結婚したりするのに、おそらく、最も向かない女。それがSYであり、あたかも、遠い昔に恋しあい、すっかり別れて、旧知の仲を絶やしてしまうのも寂しいから…というだけの理由から、ただ音信だけ交し続けているような間柄。
彼女の産んだ次女は、繊細で過敏すぎるところがあり、ずいぶん両親を不安にさせたが、大学は医学部に進んだ。今も勉強に専念しているが、家から離れた都市の大学に通っているので、SYは週末はそこへ行って、料理を作ったり家事をしてやったりしている。夫をほったらかして、娘に専心して、と思うが、SYにしてみれば、初めてどこまでも本気で“愛する”ことのできる対象を見つけたということなのかもしれない。

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