2016年8月7日日曜日

指導教授K  21

 助手も終え、博士課程も満期退学して、私がすっかり大学を離れ、Kも退職してからは、毎年、元院生によるKを囲む飲み会が行われた。どことなく雰囲気が翼賛的で、私は好まなかったが、それでも、都合のつくかぎり、出かけていった。
 Kに会うと挨拶し、お元気ですか、と型どおりにお伺いを立て、当たり障りない話をした。それだけだった。
 そのうち、Kを嫌う他の教授の配慮から短歌講義を頼まれ、久しぶりに大学に、今度は教員として通うようになったが、かつて助手時代に知り合った英文科のO教授などからたびたび連絡を受け、Kと料亭で会ったりするようになった。
 O教授は、やはり文芸専修につねに関わっていて、E教授とともに主任を務めたりもしていた。E教授とほぼ同じ歳なのに、性格的にはずいぶん温厚な人で、Kと仲もよかった。
「K先生が寂しがっているよ。時々、飲んだりしよう」
 そんなふうにO教授は持ち掛けてきた。O教授が料亭に予約を入れたり、私が入れたりした。
 教授と名誉教授の会話に御相伴するといったかたちで、私は自分のことも、自分の意見も、ベラベラ語ったりはしなかったが、頷いたり、「はあ」とか「ほお」とか合いの手を入れるような調子で、話が滞らないように注意しながら、言葉を継いだ。
 こんなふうに料亭に呼び出されて、Kと御相伴に与るのは、なにも私だけではあるまい。私はそう推測し、かつての院生たちが順繰りに相手をさせられているのではないだろうか、と思った。
 どうだったか、わからない。
 ただ、O教授とともにKと会うというかたちは、おそらく私だけに宛がわれたものだろう。助手時代のO教授とのつき合いがないと、このかたちでの会合はあり得ないだろうから。Kは電車の時間の都合で、いつも夜10時頃を過ぎると帰宅の途についたが、O教授はその後、私を連れて馴染みの店に飲みに行くことがあった。そこはこの大学の文学部に縁の深い居酒屋でもあって、井伏鱒二や小沼丹らが贔屓にしていた店だった。博士課程の頃から、私も何度も行ったことがあった。
 御相伴とは言ったものの、私は、KとO教授との料亭の夜会では、毎回、自分の分は自分で払うことにしていた。Kは、たびたび、「僕が出そう」と言ってくれたが、私は固辞した。
 Kと最後に料亭で食べた時も、Kは「僕が出そう」と言ったが、私は、
「いえ、僕が出しますので」
 そう言って、2万円ほどを払った。ひとり1万5千円ほどだったが、酒やサービス料を入れるとそのぐらいになった。
 Kは、「僕が出そう」とは言うものの、私が自分で出すというと、「そうかい…」と言って、いつも、それ以上は言い張らなかった。
 最後に会った時も同じで、「そうかい…」と言った。
 Kの先輩格の、現代小説専門の名物教授Hと、一度、文壇バーのひとつで夜を明かしたことがある。他のバーで一緒に飲んで、終電で帰ろうと新宿駅に行ったら、JRが停電になって朝まで復旧しないという事件があった時だった
 私は他の助手とふたりで、教授Hに連れられて、彼の馴染みのバーに行った。カウンターに三人並んで、ひとしきり、ママといろいろ話した。しばらくして、演劇の批評家らがやってきたあたりで、
「じゃあ、僕は帰るかな」
 とH教授は席を立った。
「明日仕事があるし、そろそろ、僕はタクシー拾って帰るけど、どうせ、電車は朝までダメなんだから、君らは朝までいなさい」
 そう言って、私たちの前の暗いカウンターの上に、チョンとお札を立てて、私たちの背を軽く押さえて、H教授は店を出ていった。
 お札を取って見てみると、1万円札が3枚あった。
 料亭での最後の会食でKに「そうかい…」と言われた時、私はH教授のこの3万円札を思い出したが、もちろん、Kを貶めたわけではない。院生時代、Kと皆でレストランやカフェに行った際、Kがすべて払ってくれていたのを私はよく覚えている。そういう点で、Kが吝嗇でなどないのはよく知っている。
私だったら、どうしただろう、と一瞬、考えた。
自分の元院生によく思われようとして、「なにを言っているんだ、僕に払わせたくないのかい?」とでも言って、気風のいいところを見せようとしてしまうのではないか。
 私の分を払う程度のことなど、もちろん、Kにとっては何でもなかっただろう。しかし、「いえ、僕が出しますので」と固辞した私の意思を、あくまで尊重したのかもしれない。
 H教授のやり方と比較されるような場合には、いかにも分が悪い中途半端ぶりや逡巡ぶり、控え目ぶりがKにはあった。もう一歩踏み出て、気風よく大きく出てしまえば、いろいろなことが世間からはよく見られ、好転するというのに、そうはいかないところが、良くも悪くも、Kという人の人となりだった。
 たとえ虚栄であってもよい、ただの自己顕示であっても格好付けであってもよい、自分の学生たちにはH教授のように振舞ったほうが結局いいようだ、と私が思うようになったのは、KとH教授とのこんな対比に印象づけられたからだった。
今になって気づかされるのは、H教授の振舞い方のほうが、はるかに残酷な人間観に基づいた行為だということである。どんな能書きを並べたり、教えや知識を伝授してやったりするよりも、年下の者に対しては、奢ってやる、払ってやるということに勝る印象づけはない。しかもそれは、年下の者たちに対してだけではないだろう。「いえ、僕が出しますので」と固辞した者は皆、「なんだ、やっぱり、出さないじゃないか」と、強く、いつまでも忘れないかたちで思うものだ。
 もちろん、勝手にそう思わせておけばよい相手というのも、いっぱいいる。
「どうだ、『やっぱり出さない』と思ったんだろう? その通り、出さないよ、お前なんかには」
これで済ましておけばいい相手もごまんといる。
 Kにとって、結局のところ、私はそんな相手でしかなかったかもしれない。

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