2016年8月7日日曜日

指導教授K  13

創作か研究か、あるいは、その両方か、という苦しみを分かち合えるのは、大学院ではF君しかいなかった。
私が助手を務めていたのは大学の創作部門の文芸専修だったが、それというのも、私が研究の他に、小説、詩、短歌などの創作を平行して進めてきていた経緯があったからだった。博士課程の二年目だったか、三年目だったか、この科の主任教授Eから、それまで私が発行していた50号を超える冊数の雑誌を全部持ってくるように言われた。他の雑誌も作ってきていて、それらも含めるとさらに号数は増えるが、とりあえず中心的に発行しているものだけでよいと言われた。
私はその雑誌を、少なくても週に一回発行していて、時には週に二回ほど出していた。ワープロで原版を作り、大量のコピーをして、それを手作業で折って、それから大部を綴じられる大型ホチキスで綴じ、大きな封筒に入れて郵送するという作業の連続だった。発行部数は多い時には200部に達し、仮に一冊分の送料が150円ほどとすると、一号分を郵送するだけで、すべてを送るのに3万円は送料にかかる。コピーも、大量にできるところで安くやるにせよ、1枚7円や6円ほどはしたから、一部作るのに70円から100円はする。200部ともなれば2万円ほどかかる。ということは、片々たる手作りのコピー製の個人雑誌を一号分作るのに、5万円は掛かっていたことになる。それを120号ぐらいまで続けた。単純計算すると、全部で600万円ほどを雑誌づくりに掛けたことになる。もっとも、号によってはページ数の薄いものも多く、そうなると郵送料ももう少し安く済む場合もあり、さらに発行部数もだんだんと減らしていったので、概算では400万ほどに収まったのではないかと思う。
どれほど少なく見積もっても、400万円ほどを雑誌作りに費やしたのは確実で、今の時点から振り返れば、この雑誌の制作期間こそが、私のあらゆる欲念の消却と蕩尽の歳月だった。
文芸専修の主任教授Eは、私の書いてきた創作物の膨大な量を見て、この時期、この科の助手としてふさわしいのは私しかいないと考えたらしい。小説家や詩人や脚本家などになろうとする学生たちが1年から4年まであわせて常々400人ほど居る科で、そこに夜間コースの第二文学部も合わせると、学生数は800人ほどになるが、教員と教務課の間に立って、これらの学生たちの世話をするのがこの科の助手の仕事だった。そのためには、自分も創作をする者でなければ、学生たちに対する理解に欠ける場合が生じる。他方、この大学の助手は研究助手と呼ばれ、研究も続ける者でなければならず、そのほうでも論文を書き続けなければいけない。
結局、創作と研究と学生たちの世話と、教員や大学側の様々な要請への対応、専修室と併設する小図書室の管理、図書の買い入れや整理・管理、さらには、まだ博士課程に在籍していたので大学院生として指導教授の授業や研究発表などにも出席し続けることなどが皆、一身に降りかかってくることになった。しかも、これはあくまで大学内での仕事や用事であって、大学外では進学塾や予備校での講師の仕事を継続しており、他大学で2コマの授業を受け持っており、さらに、フランス情報誌にフランス現代文学紹介の連載と、新聞にフランス社会・文化についての情報コラムの連載も受け持っていた。
これは途方もない忙しさで、二年目に体調が悪くなった時、知り合いに紹介されて盲目のマッサージ師のところに行ってみて、血圧が200を超えているのを知らされた。そのマッサージ師は、しかし見事な手腕を持っていて、すぐに首の脇のよく効くツボに処置してくれ、その場で血圧を下げてくれた。「よくまぁ、こんな血圧で生きてきたもんだね。もう少し楽にしないとダメだよ」と彼には言われたが、ふり返ってみれば、この後、ほぼ似たような多忙のまま、ずっと今まで生きてきている。
創作と研究、大学の制度的な面とのつきあい、生活とそのための仕事などをこんなふうに抱えていたので、せめて、創作と研究の間に引き裂かれ続ける気持ちを共有できるF君がいたのは、いくらかは慰めになったのだった。創作を目指す学生たちは研究など興味も持たないし、一般の院生たちは創作などしないので、四六時中、両方に意識が行っているような人間の苦しさは、どちらにもわかってもらえない。F君と話したところで、気持ちが本当に安らぐというようなこともなかったが、それでも、創作などという、金にもならない時間喰いの、碌でもない欲望に精神の底の底まで苛まれた人間どうしとして、冗談めかしながらの嘆き節を洩らしあうことはできた。

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