2016年8月7日日曜日

指導教授K  16

短歌とフランス文学研究、そのどちらを選ぶのか、との問いを私に突きつけてきたのは、Kだけではなかった。
短歌における師であるBからも、私は決断を迫られていた。
決断といっても、それは、フランス文学なんかやめてしまえ、ということであり、迫られていたのは私の選択ではなく、Bへの従順である。
Bは短歌界で押しも押されぬ重鎮であり、すでに老境に達しつつあって、その露わな権力欲と計算とで成りあがってきた、現代日本最大の女流歌人のひとりだった。
毎月の歌会でBには会っていたが、私は個人的にも呼び出されて数回会ったことがあり、そのたびに、短歌のみに集中することを勧められた。
「とにかく、フランス文学なんかやっていてはダメだ。歌が悪くなる。塚本を見てごらん。あんなふうになっちゃお終いだよ」
塚本邦雄はBの僚友でもあり、先達でもあり、兄貴分でもあり、非常に親しい大歌人のはずだが、フランス文学やシャンソン好きで、あからさまにフランスかぶれなところがあった。そんな塚本邦雄のことを、私に対しては、Bはひどく貶した。
フランス文学をやった日本人たちの日本語のマズさ、いわゆるバタ臭さ、気取り、浮薄さは、私にもよくわかっていた。時代時代のフランスの流行を知的に小器用に取り入れる紹介文や論説は、表面的にはいかにも魅力的に見えるものの、古びるのは早いし、少し時代が移ると、歯の浮くような底の浅さから、もう読めたものではなくなる。日本文学には独特の性質というか、癖というか、宿命があって、外国文学にかぶれた言葉づかいのものは絶対に次の時代へと残っていくことがない。日本古典の中で継がれてきた文体や思考法、感受性というものがあって、結局、いつもそれだけが残っていく。日本の詩文というのは、恐ろしいまでに保守的な場なのである。
そのため、Bに言われるまでもなく、私はフランス文学のかたわら、日本古典の読書を、フランス文学に接するのとはまったく違う感受性を守りながら継続し続けていた。言語感覚の肌につねに日本古典を纏い、擦りつけ、言語的な身体の内面に染み込ませ続けようとしていた。そこにフランス文学や思想のアタマを持ち込むことは断じてせず、理性的な反応を経由させることなしに、まるで霊に背後からベタッと憑かれるような感じで、古典日本語の息づかいを体に浸透させようとし続けた。フランス文学や思想を扱うのとは全く別の私を生き続けようとしたわけで、完全に分裂した私がここにはあり、意識的にその分裂を維持しようともしていた。この点で模範として役に立ったのは、折口信夫や泉鏡花で、理性的には時に判読しづらい彼らの文章や思考のあり方を、私は積極的に取り入れようと努めた。これは、三島由紀夫のような明晰な知的考察の積み上げとは全く異なった文章体験であり、非理性主義的とさえ言えそうなこうした方向性こそが、村上春樹の語り過ぎの長々しい駄弁文体に席巻されてしまった時代の後の、次代の日本文学の文体の主軸となり得ると私は踏んでいた。
ともあれ、短歌の世界ではBから、フランス文学などすぐにやめてしまえと言われ、大学ではKから短歌をやめろと言われて、一見、私は空中分解してしまい兼ねない状態に陥っていた。
しかし、私には小説があったし、いつの間にか多量に書くようになっていた自由詩があったし、さらに、文芸や現代の日本社会以上に、根源的に私にとって重要だった神霊世界や神秘主義世界の無限の探求があった。
Kに、短歌とフランス文学の両方をやりますと言ったように、私はBにも、フランス文学は止めませんと答えたが、心の中では、その両方とも、私には結局どうでもよい、という強い思いがあった。専門としているフランス・ロマン主義よりも、私はよほどイギリス文学のほうが好きだったし、最高の小説作品はプルーストよりもヘンリー・ジェイムズのほうだと思っていた。詩にしても、すぐに抽象や奇矯さに走るフランス詩よりも、田園や心情の分厚い描出に秀でたイギリス詩やアメリカ詩のほうが優れているように見えていた。ジル・ドゥルーズが、フランス文学に対する英米文学の優越ということをしきりに言っていたが、彼の言わんとするところには共感できたし、いかにフランス文学に染まらないようにするかは、つねに個人的な必須課題のひとつだった。
当時も今も、私が最も好む時間の過ごし方は、神秘主義文献や古代から現代の宗教文献などを繙いたり、ヨガをはじめとする様々な修行をおこなったり、あらゆる種類の占いや呪術に夜を更かしたり、インドの『バガバッド・ギータ』やシャンカラ・チャリアなどを再読したり、仏教中観派の諸祖の論文や禅宗の説教集を熟読したり、ヨーロッパのものならプロティノスやマイスター・エックハルトの言説を読み直したり、現代ならばクリシュナムルティ、ラージニーシ、ラマナ・マハリシなどの言葉に触れ直したりすることで、率直に言って、こうした極度に抽象的な精神性と霊性の探究の他のことなど、どうでもよい。フランス文学など私には大事ではないし、ましてや短歌など、究極のところでは、どうでもよい。極東の異形の一短詩形になど、私の求める“普遍”は存在しない。
どうでもよい、と思いながらも、人は時どきカフェで底の浅い憩いを求めるであろうし、どうでもよいと知りながら、時には苺や西瓜を買って食べたりするだろう。どうでもよいと思いながら、沢庵を齧ったり、プランターに朝顔の種を蒔いてみたりするだろう。
どうでもよい、というのはこういうことなので、こうした「どうでもよい」ということの意味を即座に理解できないような人間など、人間と見なす必要もなかろうと思う。

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