2016年8月7日日曜日

指導教授K  7

Kを嫌う人たちや軽蔑する人たちにふいに出会って、そのたびに驚かされるようになったのは、助手時代も済み、院生時代も終えてからが多い。しかし、まだ院生の頃、はやくもKを腐す言葉を意外な人から聞かされて驚いたことがある
それは、私の世代での押しも押されぬ最大の女流歌人のひとりからだが、私が属していた短歌結社のメンバーで、毎月の歌会で会う人だった。
彼女も私たちの大学の日本文学科の出身で、指導教授の話などした時に、
 「あ、私も、K先生にフランス語習ったの。ほら、これ、でしょ?
 そう言うと、顔に垂れてくる髪の毛を手のひらでサッと掻き揚げる仕草をして見せた。
 「教室に入る時とか、教員室に入って行く時、必ずやるのよね、これ」
 そうして、また、同じ仕草をして見せ、
 「ね、キザよねぇ」
 奇妙なところにやけに注目するものだと、私は驚かされた。
 たしかに、Kはどこの部屋に入って行く時にも、そんなふうに髪を掻き上げることが多かった。それほど長い髪をしているわけではないが、時どき額に掛かるようなことはあり、それを掻き揚げる。
 だが、こんな仕草を、外国語の必修クラスで教えた日文の女子学生にたびたびチェックされて、卒業して何年経っても覚えられていて、「これ」などと話題にされるのも、教師としてはなかなか参ってしまうな、と私は思った。Kの仕草は、私にはさほど気になるものでもなかったし、そう言われてみればなるほど…と気づき直す程度のものだったので、女子大学生の目の付けどころの面倒くささに、かえって、同情に近い気持ちを持ったものだった。
 今ならば、この歌人の男性趣味に逆に興味を持つ。Kのような仕草をする男をキザと思うのなら、そうでない男を彼女は求めたのだろうし、選んだのだろう。彼女の夫を私は知っているが、さほど鈍感な人ではないものの、Kよりはよほど繊細さに欠ける人かと思われる。中年に達した彼女が欝病に悩まされることになるのは、Kのようでなかった鈍くささと傲岸さを持つ夫の性質も関係しているかもしれない。
 正面切ってKを全否定するような態度に接したのは、ある大学に臨時で非常勤講師として出向いた時で、Kより15歳ほど年下の、やはり女性教授と話した時だった。
 自分たちが大学院生の時に、Kが急に専任講師として現われたという。
「スタンダール研究だっていうけれど、ろくになにも知らないくせにさ。皆で馬鹿にしてやったわ」
Kは40代前半か、30代終わり頃だったかと思われる。院生が団塊の世代前後で、教員の中では若いほうだったKの世代に対し、反抗的嘲笑的な振舞いを取り続けた。いくら教師といっても、正確に伝授できる知識など限られている。ある分野や作家や作品を研究対象にし、それに打ち込んで研究して論文を書いていく日々を送れば、その対象に近接する作家や作品でさえ、いくら読んではいても、曖昧にしか分かりようはないし、語るとなればなおさらのことだ。それを見越して、院生のほうで、Kの専門外の作家の作品から語学上や解釈上の難点を探してきて授業で質問すれば、とりあえず、専攻するフランス語やフランス文学のこととはいえ、適切に院生に答えられない教師のイメージなどすぐに作り上げることができる。記憶に任せて、いい加減な回答でも返せば、それこそ手中に嵌ることになるわけで、あらかじめ正答も準備してきている院生たちが、Kの答えに対抗して正答を示してやれば、教師としてのKの権威など地に落ちる。そういう攻撃をずいぶんやったと、その女性教授は言った。
Kは、私たちによく、
「将来、教師になったら、分かり切っているような小さなことでも、ちゃんと調べて答えないといけないよ。分らない時には分らないとその場では正直に言って、後で調べてきて回答しないと、学生たちには分るからね。こういう点で信頼を失うと、取り返しがつかない」
こう言っていたが、これは若き教師だった時代の苦い経験に基づく教訓だったかもしれない。もちろん、Kが学生時代に、教師の嘘を見抜いた経験もあってのことだろう。
それにしても、研究における能力や実践において、Kを凌駕しているとも見えないその女性教授が、口をきわめてKを愚弄し続けているのは、寂しい光景だった。人となりをよく知っているわけでもなく、ましてや内面の感受性や思考の網の目を知る機会もなかった彼女をこれだけのことで断罪してしまえば、私にしても間違いを犯すことになろうが、自らも教授になっている彼女が、いつになってもこれほど熱を込めてKを腐し続ける理由とはなんだろうか、と訝った。
文学部の教師を評価するにあたっては、評価基準として採るべき価値観のありようの幅が広すぎて、教授同士の比較さえ容易にはできない。誰の目にも明らかな研究業績を毎年出し続ける人が、一応研究者として優れているのは当然だが、たまに気の聞いたエッセイしか書かないような教授も、また捨てがたい。論文はからっきしダメだが、翻訳は素晴らしい、というような人はどうするのか。なにも書かず、ろくに研究もしていないのは論外なようだが、それでも、そんな人に魅力があったりすることもある。他の学問と違って、文学領域の場合、たんなる論文の質量ではない評価基準がたくさん入ってきて、簡単な評価は下せない。
もちろん、そんな評価基準の混沌を利用するようにして、底知れぬ怠惰に浸っていく教員たちもいるし、大学という組織の中で、気転は利くものの、ただの便利屋になり下がっていく人もいる。表面的に律儀に研究成果を挙げ続けているようながら、実質的には、批判されないがためだけの、車を廻し続けるリスのような、ただのルーティンワーカーでしかない場合もある。学生が、文学や人生や世界について、知的な物事について質問しても、自分の専門外だから知らない、答えられない、と、いかにも正確な態度を貫きつつ、全く取りあわない教授というのも、はたして、文学部にわざわざ来ることになった学生たちにとっては、何ほどの者だということになろうか。

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