2016年8月7日日曜日

指導教授K  12

私が指導教授Kの大学の助手になった次の年、かつて通った大学からこちらの大学院に入ってきた後輩がいて、彼はもちろん教授ASも教授Yもよく知っていた。彼については、教授ASから直々に私に電話が掛かってきて、今度そっちの大学院にうちの学生が行くことになったから、よろしく指導してやってくれ、と頼まれていた。
私が助手を務める専修室で、私が不在の時間に詰めていてもらう仕事や他のさまざまな仕事のために数人の大学院生をバイトとして雇う必要があったため、そのうちのひとりとして、私はこの院生F君も雇った。いっしょに専修室にいることも多かったため、おのずといろいろなおしゃべりをすることになる。
この時にF君に聞いた話がなかなか面白かった。
F君によれば、教授Yは性的になかなか盛んな人で、よく乱交パーティーを開くのだという。65歳も過ぎて、定年退職の頃の年齢で、再婚した新しい妻に子供を産ませた話は耳にしていたが、その妻と他のカップルとで乱交パーティーをする。
そんな話をどうして知っているのかと聞くと、教授Yを囲んでやっている読書会で、Y自身がよく話すのだという。
「Y先生は、ほんと、スゴイんですよ。やりまくりですからね」
 そういうF君に、昔の助教授Mと女子大生Nの問題があった時、教授Yがいろいろと聞き出しに来たことを話したら、
「それって、ひょっとしたら、Y先生も、Nっていう女子学生を狙ってたんじゃないのかな。あれは、そういう人ですから。もう、セックスだけで生きているような人ですからね」
 と、なかなか激しい論評をした。
そういうF君も、乱交まではしないものの、出会うほとんどの女子学生たちや女性たちに声をかけて誘い続けているという噂の入ってくるほどの、いわば教授Yと同好の士とでもいうべき人物だったので、教授Yとは話が合うところがあったのだろう。一度、冗談まじりに、
「君もY先生のパーティーに参加してるんじゃないのかい?」
と聞いてみたことがあったが、
「いやぁ…」
と言いながら、彼ははっきり語らずに黙ってしまった。そして、ボソッと、
「…とにかく、Y先生はご立派なモノをお持ちです」
ひょっとしたら、本当に参加していたのかもしれない。
F君は、修士論文を書いて修士課程を終えたものの、数年間試みても、ついに博士課程に進む試験には合格できなかった。私たちの大学院の博士課程入学試験はなかなか難しく、試験場には、修士を終えた秀才たちが毎年たくさん並び、そのうちから二人ほど、多くても三人ほどしか合格できないのだから、受験者にとってみれば、そら恐ろしい風景だった。
やめないで、まだ受け続ければいいのに、と勧めたが、もう諦めます、と達筆なペン書きの手紙が来た。F君は文学研究志望というより、小説家志望で、つねに書いていたし、日本の様々な現代作家を広く視野に収めて読んでいて、彼と話すのはそういう点では楽しかった。作家志望の人間には、好きでもない研究を強いられる大学院という場はつらい場所だし、創作家として自立できないからこそ居座ってもいるわびしい場所でもある。彼の手紙には、仕事をしながら創作を続けたい、とあった。創作と研究の並行作業は、精神的にも心理的にも窮屈な思いが募ってやまない。それをきっぱり捨て去るのだという解放感が、この時のF君にはあった。まだ頑張り続ければいいのに、と思う一方、潔く研究を捨て去るF君の勇気に感心もした。
もっとも、F君についてはこの頃、こんな話もあった。何人かの修士課程の女子院生を“やり”捨てたので、彼のまわりの院生たちや教員たちから非常に顰蹙を買っている…
それは、私からは少し離れたところで起こっていて、真偽のほどはわからなかったが、私の専修室で働いてもらっていた女子の院生のひとりから、ある時、
「Fさんはひどい…」
 と急に言われたことがあった。恋愛沙汰であることはすぐ察しがついたので、
「まぁ、男女の間では、いろいろあるよ」
 と紋切り型の軽い慰めを言っておいたが、この女子院生は、胸だけはひどく大きいものの、それほど魅力的な女性とは見えないところがあったので、F君はこの娘にも手を出したのか、この胸のためだけに?…と思った。もちろん、そんな推測が正しかったのかどうかは、わからない。
その後、どこかでF君の名前に出会うというようなことは、起こっていない。本名を隠して、ペンネームで小説家になってでもいるかもしれないが。

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