2016年8月7日日曜日

指導教授K  3

 定年でKが退職する3月、用事があって研究室を訪ねたある日、近くの小料理屋で食べていこうということになった。
 辞める今だから言えるが、と前置きして、Kは大学事情をくどくどと語った。
 くどくど、とあえて言うのは、これまでのKがなにより嫌ってきた語り方を、他ならぬ彼自身が長々としたからである。
 すでに辞めている先輩の名物教授KBと、もうひとりの名物教授Hとの間には深刻な確執があって、それが学科の雰囲気を重苦しくした、ということだった。
 KBは詩人としても名があり、詩壇や芸術界に多くの知己を持っていた。とりわけ翻訳家として有名で、出版社から自分に来る翻訳の仕事をKにもたくさん回してくれた。
ところがどういうわけか、このKBはHを蛇蠍のごとく嫌っている。
 Hは、さほどKと年齢差があるわけではなかったが、Kの論文作成時からなにかと指導をしてくれた兄貴分で、専攻内容も近いことから、ずいぶん親しむことになった。近現代小説の翻訳や紹介でも旺盛な仕事をこなし、評論家としても有名だった。小説家として、芥川賞候補に上がっていた時期もある。
 Kはある時、KBから、自分とHのどちらにつくつもりか、と迫られた。悩んだが、専門内容の近似性もあり、結局、Hにつく他ないとKは答えた。わかった、とKBは言い、その時から一切の関係は終わった。KBは二度とKに翻訳の仕事を回さなかったし、おそらく、それ以外の学外の仕事も回さないようにした。もちろん、挨拶もしないというような子供じみた応酬はしないものの、その時までの親しい関係がいっぺんに覆された衝撃は大きかった。
 これがどんなに苦しかったか、ずるずるいつまでも続く居心地悪さを生んだか、それをKは、私にくり返し語った。
 なんという格好悪さか。
 そう思いながら、私は聞いていた。
 他の人がこう告白するのならば、格好悪いとは思わない。こういう吐露を最も嫌い、軽蔑してきたKにして、これか、と思わされたのだ。
 それにしても、なぜ私などに、Kはこんなことを吐露するのだろう。
 自分が大学を離れるとともに、私のほうも大学を離れていたのが頭にあったからだろうか。
 私はこの時、助手の任期を終えており、職を失って窮乏していた。
私の大学では、助手は他校での講義を2時間まで認められていて、これは字義どおり受け取れば一コマ分の授業しかできないということになるが、慣例として二コマは許されていた。助手の期間中、依頼された二コマを家から二時間かかる遠方の大学で受け持っていた。
助手の最後の年、別の大学でもう二コマ受け持ってもらいたいと頼まれた。規程上は、これは受けることはできない。しかし、翌年に他の仕事が入る確証はまったくなかった。指導教授Kは、残念だが、いい仕事はない。学内も上が詰まっていて、空きがないし。そうでなければ、幾らでも紹介するのだが、と言っていたし、助手としての上司にあたるE教授のほうにも、まったく当てはなさそうだった。
翌年はどうなるか、わからない。大学の規程を犯してでも、四コマを受けておく必要があろうと思い、大学には秘密で引き受けることにした。
これは結果的に正解だった。翌年、新しい仕事は一切入っては来ず、私は四コマだけで生き延びるのを強いられることになった。仕事は大学関係以外のものも複数継続していったが、奨学金もすでに終了していたところへ、助手の定給もなくなってみると、経済的な穴は非常に大きい。しかも、それまでの助手の給与にかかる所得税や地方税は、収入の激減した翌年にも襲いかかってくる。
Kの吐露を聞かされたのは、こんな状態の時だった。
Kは3月末日で大学を離れる。私はすでに、同じ大学から給与を得ておらず、離れている。話の中心をなすKB教授も、H教授も、ともに大学を離れている。ならば、私に、大学の内実を明かしても、もうかまわないだろう。大学を離れる者が、離れた者たちの話を、離れた者に語るだけのことなのだ…
大学の悪口を言うには、安全な方策ではある。
しかし、あなたはまだ辞めてはいないが…、と私は思った。ひと月を切ったとはいえ、まだ辞めてはいない。すでに離れている私に語るには、まだ危険が伴う。
いい気なものだというより、そこに、私はKの揺らぎを、鈍化を見たように思った。
研究室を持ち、それ相応の手当を支給されて、博士課程を終えた院生たちに小さな仕事さえ直に与えてやれない顔の狭さに対して、学生たちが相変わらず従順と敬意だけを返し続けるとでも信じているのだろうか。
私ごときの不出来な者はともかく、これまでに何人かいた優秀な自分の学生たちを、喧嘩したり無理を通したりしてでも、ついにたったのひとりも自分の大学の専任にできなかった、研究室持ちの教授。それがどのように見られるものか、純真無垢にも、想像だにしないでいられるのだろうか。
もちろん、大学を離れたとはいえ、私のほうからは、このようなことはKには言えなかった。そうでしたか、そんなことがあったんですか、大変でしたねぇ、もう少しはやく話してくださってもよかったのに…などと言いながら、9年ほど関わり続けた指導教授にさえ、いざとなれば、こんな言葉を宛がっておけばおけばいいわけか、と思った。
この日、Kは私に本を一冊プレゼントしてくれたが、それは、KがかつてKBから貰い受けたフランス語の本だった。私にもKにも役に立つ古い貴重な本だが、KBのものを手元には置いておきたくなかったらしい。表紙をめくると、KBのサインがあり、「Bruxelles1936」とあった。

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