2016年8月7日日曜日

指導教授K  25 (終章)

 たった一年間だけ、Kと全く会わなかった時期がある。
 博士課程に進む試験に落ちて、浪人した一年間だ。
 今は希望者が激減して様変わりしたようだが、私の大学院の博士課程への進学試験は楽ではなかった。毎年、修士号を取った者が10名前後卒業するというのに、博士課程試験に合格できるのは2、3人だけなので、年ごとに7、8人ずつ博士課程試験の受験者が増えていく。私が受験した頃は、試験会場に60人以上が詰めていた。皆、ある程度以上の実力がある者たちなので、受験者としては絶望的な気分にさせられる光景である。
 しかし、大学の掲示を見に行って不合格とわかった時、じつは、私はなんとも晴れやかな解放感に浸された。もうKの近くに行かなくてもいいし、あの研究室の雰囲気の中に籠らなくていいと思い、空の明るさがグッと増したような気持ちに本当になった。
 大学院の授業はもう終わっていたし、修士号の免状は事務所で受け取り、Kの研究室の集まりなどにも一切顔を出さなかった。再チャレンジに向けて勉強は始めたものの、もう大学院に戻らなくてもいいのではないかと本気で思っていた。
 一応、試験ぐらいは合格しておきたいと思って、これまでにないほど根を詰めた勉強をし、同時に、なんとなく辿ってきた数年の道筋を惰性で辿り続けながら、翌年の博士課程の試験には合格した。
面接で、一年ぶりにKに対面した。
試験官として居並ぶ教授陣の中から、Kが、
「連絡もないし、ぜんぜん出て来ないもんだから、心配したんだよ」
 と言った。
「はぁ…」
と、私は要領を得ない声を出しただけだったように思う。
心の中では、無言のまゝに、言葉にしたい思いが噴き上がった。
読書だろうが、創作だろうが、研究だろうが、批評だろうが、文学に関わることは何であれ、いつもたったひとりでやることなのだし、他のかたちなどあり得ないのだし…といった思いだった。
一年間の、輝かしく明るい休暇が終わっていくのを感じながら、博士課程にちょっと通ってみるかな、と思った。
埃じみた、鈍重な大学院という場で、また、どんな窮屈な日々を過ごしていくことになるのか、そんな中でも、新しい流れが始まり出すこともありうるのか、と思いながら、Kの顔を見つめていた。

            




(付)指導教授Kという人物を使いながら、ごく短いフィクションを捏造しようとするうち、意想外に長くなり出した。
そこで、前から自家薬籠中のものにしようと望んでいたアニー・エルノーAnnie Ernauxの乾いた私小説的方法の練習場にするべく、急遽、構想の切り替えを行った。
マルグリット・デュラスMarguerite Durasの、自伝的でありながら、最深部から対象をフィクション化し切ってしまう小説作法も混ぜ込んだが、エルノーとデュラスの方法は相殺しあうものとは思われず、方法論的な破綻は防げたように自認する。時間軸に沿わず、各エピソードや各テーマの間に連携と断絶とを章ごとに我儘に入れた様は、読み手には気儘さや破綻に見えるかもしれないが、エルノーやデュラスの諸作を十分に思い出してもらえば、作者が意図して行ったことはわかってもらえるだろう。
そもそもエルノーやデュラスの方法は、日本の私小説と親和性があるものであり、書きながら、志賀直哉や自然主義の諸作、第三の新人あたりまでの諸作を思い出してもいた。奇妙に思われるかもしれないが、最も意識したのは晩年の史伝に到るまでの森鴎外の作風だった。強い印象を受け続けている安岡章太郎の構想上の均整の取り方や洒脱さは、あまり入り込ませないように注意した。こればかりは、さすがにエルノーやデュラスとは相性が悪いためである。
「この物語はフィクションであり、」…という紋切り型の但し書きを付しておきたい気もするが、此処はより正確に、この一連の語りによって、指導教授Kなる人物はフィクション化された、と纏めておくべきだろう。纏めとは封印であり、切断であり、したがって、作者がこの人物に戻ることは、未来永劫、二度とあり得ない。

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