2016年8月7日日曜日

指導教授K  25 (終章)

 たった一年間だけ、Kと全く会わなかった時期がある。
 博士課程に進む試験に落ちて、浪人した一年間だ。
 今は希望者が激減して様変わりしたようだが、私の大学院の博士課程への進学試験は楽ではなかった。毎年、修士号を取った者が10名前後卒業するというのに、博士課程試験に合格できるのは2、3人だけなので、年ごとに7、8人ずつ博士課程試験の受験者が増えていく。私が受験した頃は、試験会場に60人以上が詰めていた。皆、ある程度以上の実力がある者たちなので、受験者としては絶望的な気分にさせられる光景である。
 しかし、大学の掲示を見に行って不合格とわかった時、じつは、私はなんとも晴れやかな解放感に浸された。もうKの近くに行かなくてもいいし、あの研究室の雰囲気の中に籠らなくていいと思い、空の明るさがグッと増したような気持ちに本当になった。
 大学院の授業はもう終わっていたし、修士号の免状は事務所で受け取り、Kの研究室の集まりなどにも一切顔を出さなかった。再チャレンジに向けて勉強は始めたものの、もう大学院に戻らなくてもいいのではないかと本気で思っていた。
 一応、試験ぐらいは合格しておきたいと思って、これまでにないほど根を詰めた勉強をし、同時に、なんとなく辿ってきた数年の道筋を惰性で辿り続けながら、翌年の博士課程の試験には合格した。
面接で、一年ぶりにKに対面した。
試験官として居並ぶ教授陣の中から、Kが、
「連絡もないし、ぜんぜん出て来ないもんだから、心配したんだよ」
 と言った。
「はぁ…」
と、私は要領を得ない声を出しただけだったように思う。
心の中では、無言のまゝに、言葉にしたい思いが噴き上がった。
読書だろうが、創作だろうが、研究だろうが、批評だろうが、文学に関わることは何であれ、いつもたったひとりでやることなのだし、他のかたちなどあり得ないのだし…といった思いだった。
一年間の、輝かしく明るい休暇が終わっていくのを感じながら、博士課程にちょっと通ってみるかな、と思った。
埃じみた、鈍重な大学院という場で、また、どんな窮屈な日々を過ごしていくことになるのか、そんな中でも、新しい流れが始まり出すこともありうるのか、と思いながら、Kの顔を見つめていた。

            




(付)指導教授Kという人物を使いながら、ごく短いフィクションを捏造しようとするうち、意想外に長くなり出した。
そこで、前から自家薬籠中のものにしようと望んでいたアニー・エルノーAnnie Ernauxの乾いた私小説的方法の練習場にするべく、急遽、構想の切り替えを行った。
マルグリット・デュラスMarguerite Durasの、自伝的でありながら、最深部から対象をフィクション化し切ってしまう小説作法も混ぜ込んだが、エルノーとデュラスの方法は相殺しあうものとは思われず、方法論的な破綻は防げたように自認する。時間軸に沿わず、各エピソードや各テーマの間に連携と断絶とを章ごとに我儘に入れた様は、読み手には気儘さや破綻に見えるかもしれないが、エルノーやデュラスの諸作を十分に思い出してもらえば、作者が意図して行ったことはわかってもらえるだろう。
そもそもエルノーやデュラスの方法は、日本の私小説と親和性があるものであり、書きながら、志賀直哉や自然主義の諸作、第三の新人あたりまでの諸作を思い出してもいた。奇妙に思われるかもしれないが、最も意識したのは晩年の史伝に到るまでの森鴎外の作風だった。強い印象を受け続けている安岡章太郎の構想上の均整の取り方や洒脱さは、あまり入り込ませないように注意した。こればかりは、さすがにエルノーやデュラスとは相性が悪いためである。
「この物語はフィクションであり、」…という紋切り型の但し書きを付しておきたい気もするが、此処はより正確に、この一連の語りによって、指導教授Kなる人物はフィクション化された、と纏めておくべきだろう。纏めとは封印であり、切断であり、したがって、作者がこの人物に戻ることは、未来永劫、二度とあり得ない。

指導教授K  24

  たしか、私が博士課程の二年あたりの頃、Kの研究室の雰囲気がずいぶん変わった時があった。修士課程に入ってくる学生のレベルが一挙に低下したような時期があったのだった。
 この大学院に入ってくるだけあって、皆、フランス語はよくできる。しかし、それまで常識的と見えていた考え方というか、振舞い方というか、そうしたものを身に付けていない院生たちが一挙に増えたのだった
たとえば、他の研究室の院生で、私が少し親しく話すようになった女性などは、小説技法の実験室であるヌーヴォー・ロマンの作家ロブ=グリエの『消しゴム』の研究をしていたが、どうしてロブ=グリエのその作品に焦点を定めることにしたのかと聞くと、たまたま大学の講義で話に出て来たので興味を惹かれ、翻訳を読んでみたら面白かったから、と言った。彼女は日本の小説はまるで読んでおらず、『坊ちゃん』や『こころ』ぐらいは学校で読まされたが、漱石の他のものも、鴎外も、芥川も、三島も川端も大江も知らなければ、第三の新人たちの作品も内向の世代たちのものも読んでいない。フランスの小説にしても、バルザックもスタンダールもフローベールもプルーストも読んでおらず、たまたまロブ=グリエのその作品に遭遇して、ただそれだけにしがみついたというぐあいだった。こういう人が、フランス語ができたばかりにフランス文学の修士課程に入ってきてしまう。そうして、研究対象としては扱うのが容易でないヌーヴォー・ロマンを、なんの躊躇もなく選択してしまう。こんな人たちが一挙に増えた奇妙な時期なのだった。
 私たちの研究室で、特に突出してKを困らせた男子院生がいて、彼は自分の研究発表の際に、「この作品のここのところは悲しいと思う」とか「この人物のこの心理は酷い」といった、小学生の読書感想文のような感情的表現を多用した。しかも、フランスの19世紀文学についての論を進める際に、それを支える論拠として、ボブ・ディランの歌詞やビートルズの歌詞を引いてきたり、現代の日本のポップスを引いてきたりした。これらの歌の中にも同様の感情や思想が表現されていて、これらの歌においてはさらにはっきりとAはBだと歌われている、だから、19世紀のこの文章で言っていることもBという意味と考えてよいはずだ、などと主張する。Kならずとも、これには皆唖然とした。古典文学研究をするのに、現代のポップスなどを論拠にして、そこから遡って19世紀文学を解釈してはいけない、と言っても、なかなか通じない。Kはなんとも言いようがなくなってしまい、この院生に対しては黙ってしまうことが多くなった。
 晩秋だったと思うが、Kの授業とはべつの用事で大学に来て、夕方、まだ暗くならないうちに帰ろうとし、キャンパス内を正門へ歩いていた時、後ろから名を呼ばれて立ち止ると、Kが足早にやってきた。薄いコートを着ていて、白髪の目立つようになった髪が少し風に揺れる顔は、いつもより、いくらか枯れたように見えた。
「××君のこと、どう思う?」とKは切り出し、例の修士課程の院生の考え方や、あたりかまわず論拠になりそうなものを拾ってきて奇妙な論証をする癖や、小説内の心理を粗い感情論で主観的に照らせれば良しとするやり方などについて、ほとほと困っていると語った。ある意味、ポストモダン批評の最悪の安易な模倣例で、私も、Kと同様、あれはおかし過ぎると思う、と答えた。××君に、ひとつ、あれじゃダメだと教えてやってほしいんだが、と頼まれた。
 それ以来、Kの授業後の発表の時間には、その院生のやり方や考え方について、それではダメだとか、どこがダメかというと…とか、私はいろいろと批判を加えることにした。彼を苛立たせるような言い方はしなかったので、刺々しい雰囲気になることはなかったが、いつも私が多くの批判を加えるので、なんだか、私が積極的にこの院生を批判しているようなかたちになった。
 Kのために代弁してやっているに過ぎないんだけどな…
 時どき、まるで、私がこの院生を目の敵にでもしているかのように見えるのを自分でも感じながら、内心はこう思っていた。私にとっては、この院生のやり方も発表もどうでもよく、ダメならダメで放っておけばいいと思っていたのだった。
 さらに言えば、この院生のメチャクチャな論法が、少しでも多くの時間、Kの研究室の中にまき散らされて、Kの世界が撹乱され、Kが苛立たされれば面白いのに、とも、じつは私は思っていた。にもかかわらず、自分はKのためにこの院生のやり方を批判し、矯正しようとしている。いったい、何をやっているんだ、自分は。
 こんなことを思いながら、Kさながらに狭量な古めかしい文学研究の一派にでもなったかのように、いささかオールドファッションドに過ぎるかもしれない研究様式の鋳型にこの院生を嵌めるべく、私は彼の論法を細かく批判し続けた。

指導教授K  23

  5コマの授業数が多過ぎる、重荷過ぎる、などというKの感慨を聞くと、いい気なものだ、と思わされたわけだが、これは有名な大学の教授たちに共通したものなのかもしれない。Kにも、学生たちに対するはっきりした優越意識や驕りのようなものがあった。
 教授が、知識や学業において、また学究経験において、学生に対して優越意識を持つのはもちろん当たり前であり、その点で怠惰な学生を見下すようなことがあっても、それは理解できなくはない。ここで言いたいのは、それとは異なったことである。
 Kの研究室での研究発表の時、外から、大学院生のではなく、大学生たちの嬌声が響いてきたことがあった。校舎の脇で、大学生がボールを回しあって遊んでいるらしく、彼らが立てる声が響いて上がってくるのだ。
 私たちにはさほど気になるほどの声でもなかったが、発表者が時どき声を止めたりすると、下からワアッと上がってくる声はちょっと際立つ。
 Kは、ブラインドの紐を弾いたり、弄んだりしながら、プリントに目を落としていたが、とうとう立ち上がり、発表者に「ちょっと待ってね」と言うと、窓から身を乗り出して、怒鳴った。
「なに遊んでいるんだ! うるさいぞ! 君らはなんだ? 学部生か? 学部生だろ? ここをなんだと思っているんだ? ここは研究棟で、大学院の授業をやっているんだ。学部生が来るところではない」
 一気にこう言うと、ピタッと外の声は消えた。席に戻ると、
「発表を止めて申し訳ない。まったく、学部生の分際で、こんなところまで来て、ボール遊びをしているんだから。大学は研究するところなんだから、学部生なんていないほうがいい。大学院生以上だけがいるべきところなのに、ねぇ」
 このように言い、発表の再開を促した。
 学部生と院生とがはっきり差別され、私たち院生のための静謐が守られたことになるわけだが、私たちにしても学生には違いないのだから、学部生をこうまで見下した発言をされると、あまりいい気持ちはしなかった
単純に考えても、大学院生から徴収される学費など、大学にとっては大したものではないはずで、運営にかかる費用のほとんどは多数の学部生たちから徴収される学費で賄われているはずなのだから、「学部生なんていないほうがいい」というのは、経営的に言ってありえない。学部生はたしかに、院生よりも学業に熱を入れていないかもしれないが、学部生が来るところではないとか、学部生などいないほうがいいとか、そこまで言うとなると、ちょっと違うだろうと思わされる。
 Kが、研究や授業しかしない、いかにも先生然とした視野の狭い教授であったのなら、まだそうした不見識も理解できるところがあるが、彼は、第一文学部と第二文学部でそれぞれ学部長を勤めた経験があるのだから、「学部生なんていないほうがいい」という発言には、やはり首を捻らされる。
入試で合格した学生の数は実際の入学の際にはたいてい減るわけだが、それを見越して、大学は少し多めに合格者を出しておく。学部長の匙加減ひとつに掛かっているこの水増しぐあいは、大学経営に直結するので、毎年受験の頃になると、学部長は戦々恐々なのだという。今年は入学辞退者が少なくてよかった、という話をKから何度か聞いた。もし辞退者が多くなり過ぎて定員を下回るようなことになると、自分の責任になるから、と言っていた。
 Kは、やりたくもないのに学部長をやらされる羽目になった、とよく言っていたが、これも今になってみると、やりたくもない人が易々と学部長になれるほど、学内政治は暢気なものではないのがよくわかる。明らかに、Kは、自分から学部長になるのを望んだものだろう。学部長ぐらいまではやっておかないと、彼を目の敵にする後輩たちに示しがつかないと踏んだのではないか
 学部長を勤めていた頃は、義務となる授業数はかなり免除されたようだが、他学部でならゼミに当たるはずの私たち大学院の授業と院生の毎週の発表は、欠かさず行われた。それでも、時どきは学務の仕事で途中から抜けたり、あるいは遅れてきたりせざるをえなかったが、そんな時のKは本当に残念そうだった。
「君らと一緒に勉強しているこの時間が、いちばん楽しいんだよ」
そう言っていたが、たしかに、そこに嘘はなかっただろう。

指導教授K  22

 大学院に入る以前から、複数の進学塾と予備校で教える仕事をしていた私にとって、毎晩だいたい4時間ほど教えるのはごく普通のことだったし、週全体では20時間ほどに上るのもあたり前のことだった。この業態は博士課程を満期退学しても続いたので、20年ほど変わらなかった。仕事の性質上、土曜は休みがないし、日曜日は一応授業はなかったが、実力テストや入試判定テストで駆り出されることがあり、しかも、春期講習、夏期講習、夏期合宿、冬期講習、入試シーズンには受験会場の様々な学校への応援のために、早朝から出勤するのが当たり前の業界だった。こうした仕事を一切減らすことなしに、私の修士課程と博士課程の勉強期間は過ごされた。物理的に時間もなければ、体力的にも割り振りが困難な長い長い期間だったが、睡眠は日に4時間を上限とし、時には2時間程度に抑えて、私は大学院とつき合った10年近くも通した。学外の仕事をいくらか減らしたのは、助手になってからに過ぎない。
 こういう私から見て、ある時Kが、他の教授たちと歓談していて話した担当授業数の少なさは驚くべきことに思えた。
「東大なんか、義務コマ数は2や3だっていうのに、この大学じゃ4コマやらないといけないんだからね。研究というのをどう考えてるんだか、参っちゃうよ。しかも、語学を教える教員は5コマやってくれ、っていうんだ。週に5コマも授業をやっていたら、ろくな研究はできないじゃないか。われわれ研究者にむかって、一体、なに言っているんだ、って思うね」
 私は頭の中で、自分は毎晩、進学塾で3コマぐらい教えているから、週で15コマか…、一時間の授業の場合には日に4コマだから、場合によっては週に20コマにもなるな、と数えた。正直なところ、自分はよく頑張っていると思ったものだ。
 その頃、私には、教授や助教授といった専任教員と、それ以外の非常勤講師との格差というものはよく見えていなかったし、関心も持たなかった。私は自分の多忙さと消耗の中で自分自身の問題で精いっぱいだったし、助手になっていてさえ、その後に生活を支え得るほど非常勤講師の職が得られるとは信じていなかったし、考えようともしていなかった。いつも上の教員たちに腰を半折にして過ごさねばならない業態が、私には不愉快でしかないと見えていた。
 ともあれ、5コマも持たされたために、本当にろくに研究ができなかったのかどうか、Kは大学紀要に論文を書くことはなかったし、文芸雑誌に毎月連載するような書き手でもなかった。気心のあった仲間たちと出している、年に数回の同人研究雑誌には毎号のように論文やエッセーを書いていて、“研究”としては、そこが中心的な活動の場だったといえる。自分のいる大学にはひとりも友はいないし、信じられる人もいない、とKは言っていて、大学の紀要になにか書けば、ただちに粗探しされるのを意識していたのだろうか。
 若い頃のKは、翻訳にしても論文にしても、もっと旺盛にやっていた。しかし、先輩教授KBやべつの先輩教授Hとの間の板挟みになった件や、後輩の助教授たちからの突き上げや嫌悪を受けた結果として、私が彼の研究室に入った頃には、ずいぶんと活動の仕方が変わってしまった後だった。
 私の手元には、Kの出した主要な論文集が数冊あるが、それらを見ると、ロマン主義研究者として、有名どころの作家を狙いながら、目につきやすい、取っつき易いテーマを選び、しかも、他人から攻撃されづらいアングルからチョンチョンと突いているのがわかる。フランスのロマン主義の作家たちは、誰であれ、国際規模での多量の論文の対象とされてきたので、Kがこのような態度を採るのは理解できるし、それまでの他の研究者が扱っていないところを探してやろうとすれば、こんな印象の論文になっていくのは致し方ない。
 ある意味、素直に何人かの作家たちに、いかにも文学的に、文芸趣味的に、向きあい続けたものだと感心させられもする。
 しかし、専門領域が同じだからこそ、私が思う欠点もある。
 60代になって退職が視野に入って来た頃、たとえばKは、バンジャマン・コンスタンの鋭利な恋愛心理小説『アドルフ』の読解に集中した論文をいくつか書いているが、これらは驚くべき論文で、この小説から一歩も出ることなしに、登場人物の心理の追及だけを行っている。文体も疾走するようで、脇目も振らずに小説内読解だけを行っていく。
 これは、エッセーであり、評論なのである。論評かもしれないが、論文ではない。
 私もKのコンスタン論のような文を書く楽しみは知っており、ずいぶん書いたが、それを論文として出すことはしなかった。私の思うに、論文というのは、どこまで行っても、脇目を振り続けるのを強いられ続ける文体によるものであり、多数の断層による思考を並べ直しつつ、幾重にも再編集し続けた末の風通しのよいまとめ文でしかない。
 しかも、私の思うには、論文は、2万字程度までの短いものの場合でも、20から30冊以上の他人の著作や思考の引用の織物でなければならない。ひとつやふたつの著作に基づいて、そこから問題テーマを引っ張り出してきて、それをあゝでもない、こうでもない、と論じていくのはエッセーなのであり、論文ではない。したがって、論文の場合、短いものでも、多数の先行著作をわざわざ手にし、読み、それらが提示してくる問題意識やキー概念を収集し、それを絡みあわせ、編集しながら、こちらの恣意的な誘導なしに自ずと発生してくる思念の方向性を拾い出すことに作業上の中心が来るわけで、これだけの作業が注入されているからこそ、内容の如何にかかわらず意味を成していくものと考える。
 扱った他人の思索や著作の分量や、概念や思考法の収集、分類、整理、編集などの多層的な作業の積み重ねを通じて、もともと個人的な偏向に満ちていた思索が多少なりとも普遍的なものに変質していく。ヴィーコの方法論に通じるこうした仕事が凝縮されている場合に、人文学における研究行為の意味がようやく滲み出てくると私には思われる。
 Kのように、好きな小説を自分の思い通りに語り直す作業は、文学好きには楽しいに違いない。しかし、それは解説の仕事であり、エッセーであり、評論の仕事であり、さらに言えばNHKブックスや新書の仕事であって、論文の仕事ではない。だから、Kの『アドルフ』論を見ながら、私は、ついにKは、切れちゃったな、投げ出しちゃったな、と思ったのだった。
 しかも、バンジャマン・コンスタンの場合、じつは小説家としてよりも、政治家として、また政治理論家としての仕事や存在のほうが比較にならないほど大きい。フランス革命で始まったフランスにおける「共和国」の実験について、テルミドール派共和主義者であったコンスタンとスタール夫人は、とりわけ、「共和国」が行き詰まっていく事態について、最大の観察者であり注釈者だった。1789年の人権宣言に盛り込まれた諸原理に愛着を抱き、ブルボン家と貴族政復活に反対していたこのふたりは、フランス文学史においてはいくつかの小説作品やエッセーなどの著者として、ロマン主義を準備した時期の人物と見られる場合が多いが、フランス共和主義研究やフランス自由主義研究においては、19世紀ロマン主義のどんな大作家や詩人よりも大きく扱われることになる。コンスタンの『アドルフ』が切れのいい小さな名作であるのは論を待たないものの、より上位の視点から見るならば、『アドルフ』研究などしている暇はなく、まず、共和主義者コンスタンの思想考察から入るのが筋というものである。文芸趣味の場においては、もちろんコンスタンの小説作品や日記などだけを楽しんで感想をまとめておけばいいだろうが、「研究」というのはそうではない。まして、有名な大学で多額の給与を支給され、研究費も貰って、しかも、週にせいぜい5コマ程度の授業だけで済むような労働だけを義務化されているというのならば、コンスタン研究の重心をコンスタン政治学にまずは置いて、それから各論として、小説作品も取り込んでいくのでなければならない。
もし私がKの指導教授だったならば、この点については圧力をかけただろう。たとえば、1796年、コンスタンとスタール夫人が総裁政府下における政治について考察を書き始めていた時、将来の共産主義の先駆であるバブーフの陰謀事件が起き、ここで、所有権の否定思想がはじめて陽の目を見、共和政と萌芽の共産主義思想が混じり合うという劇的な状態が発生する。この時、コンスタンとスタール夫人は、財産権を守ろうとした1789年原理と当時の習俗・精神の尊重をさらに強め、いわば、革命の成果を革命初期の『人権宣言』期にのみ限定し、ジャコバン体制を切り離して、あらゆるジャコバン的政治・社会経験をフランス政治政策史から廃棄する方向を取ろうとする。こうしたコンスタンの思想を、とりあえずは本人の著作にあたって見通しておかないで、はたして彼の心理小説を、根本的な偏向を犯さないで読めるだろうか。そんな問いを、私はKに投げかけることになったことだろう。もちろん、文学の人間にとって、政治文書や政治学、さらには、フランス革命期の様々な無限の錯綜する事象に取り組むことがどれほど辛く重苦しい作業か、分かり切った上で。
 シャトーブリアンについての論考においても、Kは、とうとう、フランス革命の総体的研究を行わなかったし、ヨーロッパ政治上、自由主義的保守主義の最初の旗手であったシャトーブリアンの政治性の解明を十分には行わなかった。私の思うに、それだけでもう、シャトーブリアンを読む資格はないのである。フランス革命の勉強、政治学の勉強、18世紀の歴史と思想的系譜の勉強、特に、ナポレオンとルイ18世とシャルル10世時代の歴史の勉強、その時代のヨーロッパの政治家たちや軍人たち、文化人たちについてのきりのない情報収集を続けないかぎり、シャトーブリアンという現象は十分に見えてこない。これらの作業がどれほど日本人にとって、楽でない、時間を食う、目立たぬ読書と砂を噛むような情報収集の連続を強いてくる重荷かは、想像してみるだけでもわかる。しかも、表層的なお上品外国文学趣味の領域で評判のプルースト、フローベール、バルザック、カミュなどのようなネームバリューは日本においてはシャトーブリアンには存在しないから、翻訳書も研究書も評論集も、ほいほいとは出して貰えないので、研究者の気力は削がれ続ける。
 とはいえ、Kが文章のかたちで残したコンスタン論やシャトーブリアン論などが、私にとって参考にならない、というのではない。この作品についての此処のところは、Kはここまでしか見通せなかった、あるいは、こんなところまで見ていた、などといった省察は、研究領域を同じくするKと私の間だからこそ生まれうるものでもある。
 本や文章というのは不思議なもので、書棚に飾っておいたり、山にして積んでおいたりするのを見ると、時に、どうしようもないほどの空しさに苛まれることがある。しかし、ひとたびページを開き、その中に展開されている思考の流れに乗っていくと、あゝ、その通りだ、とか、そこは違うな、とか、それは即断し過ぎだ、とか、うまい推測を出してきている、とか、たちまち対話が始まる。本好きで、なんらかのテーマを追っていくのが好きな人たちにとっては、これ以上の幸福の時というものはないのではないか、と思う。これを孤独で寂しい姿と見るならば、他人から孤独で寂しく見える時ほど人が幸福である時はない、ということになる。

指導教授K  21

 助手も終え、博士課程も満期退学して、私がすっかり大学を離れ、Kも退職してからは、毎年、元院生によるKを囲む飲み会が行われた。どことなく雰囲気が翼賛的で、私は好まなかったが、それでも、都合のつくかぎり、出かけていった。
 Kに会うと挨拶し、お元気ですか、と型どおりにお伺いを立て、当たり障りない話をした。それだけだった。
 そのうち、Kを嫌う他の教授の配慮から短歌講義を頼まれ、久しぶりに大学に、今度は教員として通うようになったが、かつて助手時代に知り合った英文科のO教授などからたびたび連絡を受け、Kと料亭で会ったりするようになった。
 O教授は、やはり文芸専修につねに関わっていて、E教授とともに主任を務めたりもしていた。E教授とほぼ同じ歳なのに、性格的にはずいぶん温厚な人で、Kと仲もよかった。
「K先生が寂しがっているよ。時々、飲んだりしよう」
 そんなふうにO教授は持ち掛けてきた。O教授が料亭に予約を入れたり、私が入れたりした。
 教授と名誉教授の会話に御相伴するといったかたちで、私は自分のことも、自分の意見も、ベラベラ語ったりはしなかったが、頷いたり、「はあ」とか「ほお」とか合いの手を入れるような調子で、話が滞らないように注意しながら、言葉を継いだ。
 こんなふうに料亭に呼び出されて、Kと御相伴に与るのは、なにも私だけではあるまい。私はそう推測し、かつての院生たちが順繰りに相手をさせられているのではないだろうか、と思った。
 どうだったか、わからない。
 ただ、O教授とともにKと会うというかたちは、おそらく私だけに宛がわれたものだろう。助手時代のO教授とのつき合いがないと、このかたちでの会合はあり得ないだろうから。Kは電車の時間の都合で、いつも夜10時頃を過ぎると帰宅の途についたが、O教授はその後、私を連れて馴染みの店に飲みに行くことがあった。そこはこの大学の文学部に縁の深い居酒屋でもあって、井伏鱒二や小沼丹らが贔屓にしていた店だった。博士課程の頃から、私も何度も行ったことがあった。
 御相伴とは言ったものの、私は、KとO教授との料亭の夜会では、毎回、自分の分は自分で払うことにしていた。Kは、たびたび、「僕が出そう」と言ってくれたが、私は固辞した。
 Kと最後に料亭で食べた時も、Kは「僕が出そう」と言ったが、私は、
「いえ、僕が出しますので」
 そう言って、2万円ほどを払った。ひとり1万5千円ほどだったが、酒やサービス料を入れるとそのぐらいになった。
 Kは、「僕が出そう」とは言うものの、私が自分で出すというと、「そうかい…」と言って、いつも、それ以上は言い張らなかった。
 最後に会った時も同じで、「そうかい…」と言った。
 Kの先輩格の、現代小説専門の名物教授Hと、一度、文壇バーのひとつで夜を明かしたことがある。他のバーで一緒に飲んで、終電で帰ろうと新宿駅に行ったら、JRが停電になって朝まで復旧しないという事件があった時だった
 私は他の助手とふたりで、教授Hに連れられて、彼の馴染みのバーに行った。カウンターに三人並んで、ひとしきり、ママといろいろ話した。しばらくして、演劇の批評家らがやってきたあたりで、
「じゃあ、僕は帰るかな」
 とH教授は席を立った。
「明日仕事があるし、そろそろ、僕はタクシー拾って帰るけど、どうせ、電車は朝までダメなんだから、君らは朝までいなさい」
 そう言って、私たちの前の暗いカウンターの上に、チョンとお札を立てて、私たちの背を軽く押さえて、H教授は店を出ていった。
 お札を取って見てみると、1万円札が3枚あった。
 料亭での最後の会食でKに「そうかい…」と言われた時、私はH教授のこの3万円札を思い出したが、もちろん、Kを貶めたわけではない。院生時代、Kと皆でレストランやカフェに行った際、Kがすべて払ってくれていたのを私はよく覚えている。そういう点で、Kが吝嗇でなどないのはよく知っている。
私だったら、どうしただろう、と一瞬、考えた。
自分の元院生によく思われようとして、「なにを言っているんだ、僕に払わせたくないのかい?」とでも言って、気風のいいところを見せようとしてしまうのではないか。
 私の分を払う程度のことなど、もちろん、Kにとっては何でもなかっただろう。しかし、「いえ、僕が出しますので」と固辞した私の意思を、あくまで尊重したのかもしれない。
 H教授のやり方と比較されるような場合には、いかにも分が悪い中途半端ぶりや逡巡ぶり、控え目ぶりがKにはあった。もう一歩踏み出て、気風よく大きく出てしまえば、いろいろなことが世間からはよく見られ、好転するというのに、そうはいかないところが、良くも悪くも、Kという人の人となりだった。
 たとえ虚栄であってもよい、ただの自己顕示であっても格好付けであってもよい、自分の学生たちにはH教授のように振舞ったほうが結局いいようだ、と私が思うようになったのは、KとH教授とのこんな対比に印象づけられたからだった。
今になって気づかされるのは、H教授の振舞い方のほうが、はるかに残酷な人間観に基づいた行為だということである。どんな能書きを並べたり、教えや知識を伝授してやったりするよりも、年下の者に対しては、奢ってやる、払ってやるということに勝る印象づけはない。しかもそれは、年下の者たちに対してだけではないだろう。「いえ、僕が出しますので」と固辞した者は皆、「なんだ、やっぱり、出さないじゃないか」と、強く、いつまでも忘れないかたちで思うものだ。
 もちろん、勝手にそう思わせておけばよい相手というのも、いっぱいいる。
「どうだ、『やっぱり出さない』と思ったんだろう? その通り、出さないよ、お前なんかには」
これで済ましておけばいい相手もごまんといる。
 Kにとって、結局のところ、私はそんな相手でしかなかったかもしれない。

指導教授K  20

  仕事が回ってこない、…といえば、助手の仕事さえ、じつは回ってこなくなる可能性もあった。
 文芸専修のE教授の推薦で助手になることが内定した時点でも、その後、文芸専修を構成する教授たちの会議で決定した時点でも、Kはたびたび私に、
「あそこの助手になると、君の上司はE君だよ。彼は独特だからねえ。性格的になかなか難しい男だけれど、大丈夫かねえ。やめておいたほうがいいかもしれないよ。今なら、まだ、やめられるよ?」
 このように、辞退するのを勧めてきた。
 たしかにE教授は気難しい性格で知られており、院生の中には、躊躇なく彼を“気狂い”と呼ぶ者たちもいた。私自身も、その奇矯な言動には何度か接している。他人が、なにか文芸上の話や学芸上の話、あるいは趣味の話をすると、自分はそれ以上だと、すぐに相手を病的に言い負かせたがるところが、E教授にはあった。
 たとえば、コンサートが好きでよく行く、先月など、4回も行ってしまった、などと誰かが言う。すると、E教授はすぐに、
「私なんか年に300回は行きます。音楽好きなら、そのくらいあたり前です」
 と宣う。年に300回行くとすると、平均して月に25回となり、本当のコンサートマニアなら、なるほど、大小あわせてそのくらい行けないこともない。しかし、E教授のように文芸専修の主任を務め、この大学で明治時代以来続いている文芸誌の編集長も務め、毎月その雑誌の編集を切り盛りし、すべての原稿に赤を入れ、さらに、いつも腕に新人賞応募作品を携えて歩きまわり、夜など大学前のレストランでよく原稿読みをしていたりする場合、どれほど音楽好きでも300回は難しいのではないか、と思わされる。
 また、誰かがある通俗作品が好きで、もう4回も再読してしまって気恥ずかしいくらいだ、と言うのを聞くと、こう言い出す。
「私など、大学時代にデュマの『モンテ・クリスト伯』を30回読みました。あれはよくできた通俗小説で、楽しかったから30回。そのぐらい読むのなど、あたり前です」
 あの長い作品を、3回読み返すのならまだしも、30回読んだと言われると、それはさすがに御冗談を、と言いたくなる。しかし、E教授に、それは冗談でしょう、と返すと、
「私は冗談は言いません」
 と必ず返ってくるのだ。
 E教授の「3」というのは有名で、必ず、「30」とか「300」とか「3000」という数字が返ってくる。小説で言えば、大江健三郎がなにかと数字を出してくるのが有名で、これは蓮実重彦が大江健三郎論で書いていたはずだが、それを見習いでもしたのか、E教授は「30」や「300」を連発し、時には「3000」などと返してくる。
 こういうE教授を上司にして数年間忙しく働いたら、心魂疲弊し切ってしまうだろうに、とKが考えるのも確かに一理あって、それを理由に、せっかくの助手の職ではあるが、やめておいたほうがいい、と勧めてくれたのかもしれない。
 だが、私を採用しようとするE教授の熱意は、有難いことに、かなりのもので、それに抗うようなことをすれば、いっそう危ういだろうと私には思われた。
今でも忘れないが、文芸専修の教授会で私の採用が本決まりした時、私はちょうどKの研究室にいて授業に出席していたが、突然、ドアを強くノックする音がして、「どうぞ」とKが言うと、E教授がドアを開けて入って来た。どうやら走ってきたらしく、ハアハア言いながら、
「今、文芸専修の会議が終わりまして、駿河君の助手就任が本決まりになりました。はやくお伝えしておこうと思いまして…」
 と、Kと私に向かって言った。E教授としては、他の学科の院生たちも候補に挙がっている中で、フランス文学の院生からの助手採用が決まったということで嬉しくもあり、それを、同じフランス文学科のKとも分かち合いたいらしかった。
 Kはもちろん、「それはよかった。E君、伝えに来てくれて、ありがとう」と微笑んだが、この夜、授業がすべて終わって、近くのレストランでいっしょに食べている時に、
「本当にいいのかい? E君の下で働くのは、やっぱり大変だと思うよ」
 と、また念を押してきた。
 今になれば、手に取るようにKの気持ちがわかる。E教授はKよりも15歳ほど若い後輩だが、Kに対して批判的な若い教授陣や助教授陣の急先鋒だった。そのE教授の配下に私がついてしまうのは、やはり寂しかったのだろう。私としては、この大学のフランス文学科にあくまで属しているつもりで、KもE教授も変わらないと思っていたが、どの教授につくかで別世界のようになるこの学科において、私が今後E教授と密になって行動するということは、私が想像する以上に、Kにとって心理的に大ごとだと考えるべきだったのかもしれない。
 ともあれ、指導教授であるKの勧めに本当に従っていれば、私は助手のポストを放棄していたわけで、そうなれば、数年分の給与のみならず、その後の文芸専修助手としての様々な出会いなども全くなかったことになり、私の人生は全く違ったものになっていただろう。そのほうがよかったとも、悪かったとも知れないが、比較のしようもないほど、別の人生となっていたのは確実である。
 さて、はたしてE教授の下で、Kが危惧したように、私は非常な苦労をしただろうか?
 幸いなことに、それはなかった。E教授の奇矯さには、危ぶまれた通り、毎週のごとく遭遇することにはなったものの、どういうわけか、私は彼とはぶっつかることがなかった。E教授は、多くの人に対して異常なほど怒ったり、対抗心を燃やしたりするところがあったが、部下には非常に優しく、さほど無理難題を持ちかけることもなく、やや変ではあったが、よい上司だった。
私に、組織において冷静で忠実な部下として振舞う性質があった、ということも、E教授とぶつからなかった理由だろう。そうした性質は、大学外での長い勤務生活で鍛えられてきていた。時たまのやゝ理不尽な要請や命令にも、私は文句も言わずに従った。それは、私の許容度を超えるほどのものではなかったし、たとえば、夕方に帰ろうとしていたところへE教授が飛び込んできて、
「これ、明日の委員会の会議のために、ちゃんと、もっともらしい文書に作っておいて」
 などとメモ書きを頼まれ、数時間残業しながら、夜の静まっていくキャンパスの真ん中の3階にある文芸専修室でひとりで書類作りをするのにも、それなりの生の充実というものがあった。
 冬ならドアを閉めて仕事をしていたが、夏ならば、ドアを廊下に開け放っていて、夜も9時を過ぎると研究棟の明かりも落ちているので、真っ暗になった廊下の静けさと暑さが、机まで流れてきた。暑いので専修室の窓もすべて開け放っていると、キャンパスの中庭をまばらに行き来する学生たちの声が時どきしたり、笑い声がしたりする。私は、昼間の中庭の学生たちでいっぱいな様を思い出しながら、週に最低4日、こんなふうに朝から夜まで専修室に詰めて、大きな大学の文学部の中心の中庭に面した3階の部屋で、何年も過ごしていっている今こそが、ひょっとしたら、この人生でいちばん幸せなことのひとつかもしれない、と思った。他人が近くを行き来し、しゃべり声が聞こえ、笑い声が聞こえ、誰もが勝手に自分の人生を生きている風景の中にいるのが私は好きなのだ。時々、なにもしないためにパリに行ってぼおっとカフェに座っていたりしたくなるのも、そのためかもしれない。
 E教授から頼まれた文書を作り終り、印刷し終えると、夜10時半近くになっていたりする。家に帰っているHには、遅くなるのをすでに連絡してあるので、最寄りの駅近くでなにか食べるか、新宿あたりに寄って食べるか、それとも、誰か学生に連絡して、いっしょに飲みにでも行こうか、などと考える。
窓を閉め、部屋の鍵をかけて、真っ暗な廊下に出、やはり暗い階段を一階まで下りて、キャンパスの中庭に出て正門へと歩いて行けば、都心の大学以外のどこにもない、あり得ない、夏の独特の雰囲気と夜景が広がっている。

指導教授K  19

指導教授Kの退職の時、私はすでに助手の任期が過ぎていたし、いつまでも大学院に関わっていてもしょうがないので、(世界には他にいくらも訪れるべき場所、時間をともに過ごすべき人たちがいる…)学籍も抜いて、満期退学の措置を取っておいた。まだ博士課程の継続をする方途はあったし、そのほうが経済的にも資格上も便利ではあったが、なんといわれても、大学という場所と深く関わるのが本当に嫌で、興味もなかった。人間として魅力的な者たちがひとりもいない大学という場に踏み入ると、どうしようもなく、深くゲンナリしてしまうところがあるのだ。しかも、私が3年間務めた大学の研究棟は、重苦しい異様な暗さと寂しさが到るところに染みついていて、この大学に教員として残れなかった研究者たちの怨念の汚泥の中にいるような雰囲気があった。
Kの退職記念の最終講義の土曜日、私には勤め先の進学塾の仕事があって、聞きに行きづらい事情があった。それでも、勤め先に無理を言って多少の時間調整をし、最終講義だけは聞きに行けるようにした。それでも、それが終わったらすぐに大学を出て駅に向かわないと、仕事に間に合わなくなる。
Kは、最終講義として、主に、彼が生涯の対象としてきたスタンダールと、私も専門にしているシャトーブリアンについて語った。Kの話をさんざん聞いてきた私には新味は全くなかったが、うまく筋を付け、緩急と奥行きを盛り込んだ、悪くない講演になっていた。
しかし、ひとつ、とても驚かされるエピソードがあった。多くの聴衆の中で、たぶん、ただひとり、私だけが驚かされたに違いないひとつのエピソード。
シャトーブリアンの小説『アタラ』の版のひとつに関わる問題である。
私が修士課程にいた時、『アタラ』研究も私のテーマのひとつだったので、いろいろな版を比較しながら読み込みをしていたが、ガリマール社の1971年のフォリオ版の『アタラ』の本文テキスト(p.133)に間違いがあるのに気づいた。それはエピローグの中にあり、語り手が北アメリカで出会ったインディアンの女が、「私は、シャクタスが養子にしたヨーロッパ人ルネの娘です」と語っている箇所である。小説の中での経緯から見て、ここは、ルネの孫娘でなければ話が喰いちがってしまう。
シャトーブリアン自身が書き間違えたのだろうかと思い、他の版も調べてみると、文学古典のテキストとして一般的に権威ある版と見なされているプレイヤッド版でも、同じように「私は、シャクタスが養子にしたヨーロッパ人ルネの娘です」(p.97)となっていた。プレイヤッド版でもこのようならば、これはシャトーブリアン自身の書き損じの可能性が強まる。こう考えたものの、一応、他の版も調べてみることにした。
すると、驚くべきことに、1969年のプレイヤッド版以降に、厳正な校訂者として定評のあるJ.M.ゴーチェがジュネーヴのドロッツ書店から1973年に出版した校訂版『アタラ』では、「私は、シャクタスが養子にしたヨーロッパ人ルネの娘の娘です」(p.145)とある。プレイヤッド版以前の1962年にF.ルテシエがガルニエ書店から出版した定評ある校訂版でも、「私は、シャクタスが養子にしたヨーロッパ人ルネの娘の娘です」(p.160)となっていた。さらに、1950年にジョゼ・コルティ書店からアルマン・ヴェイユが出した念の入った研究の付加された批判校訂版でも、「私は、シャクタスが養子にしたヨーロッパ人ルネの娘の娘です」(p.128)となっており、この本に付録として付された1801年オリジナル版の復刻の該当箇所にも同じ表現が見い出される。
だいぶ後になって、パリの古書店で偶然手に入れたフォントゥモワン書店の『アタラ』オリジナル復刻版は1906年出版のものだが、ここでも「私は、シャクタスが養子にしたヨーロッパ人ルネの娘の娘です」(p.200)となっている。そして、なにより決定的なことに、やはりパリの古書店で入手した、シャトーブリアン生前の彼自身の手になる1826年発行のラヴォカ書店版全集第16巻においても、「私は、シャクタスが養子にしたヨーロッパ人ルネの娘の娘です」(p.132)となっている。
他のいくつかの版も含め、現在の私の手元には『アタラ』のほぼすべての主要な版が揃っているが、それらを総覧してみるかぎり、シャトーブリアン自身は、「私は、シャクタスが養子にしたヨーロッパ人ルネの娘の娘です」と記述したものと断定してかまわないだろう。プレイヤッド版とフォリオ版のみが誤ちを犯しているのである。
修士課程の時期には、私はラヴォカ版全集やフォントゥモワン書店のオリジナル復刻版はまだ持っていなかったが、アルマン・ヴェイユ批判校訂版やJ.M.ゴーチェ校訂版はすでに手に入れていた。これらだけでもすでに決定的な証拠になりうるものなので、プレイヤッド版とフォリオ版の誤ちは断定できる状態にあった。プレイヤッド版はシャトーブリアン研究の権威モーリス・ルガールによる版、フォリオ版はフランス・ロマン主義の権威ピエール・モローによる版であり、彼らの校訂による版にこうした誤りが見出されるとなると、かなり重大な問題となる。そればかりか、1969年のガリマール社のプレイヤッド版における間違いを、まったく同じ個所に限って、1971年のフォリオ版が犯しているということから、ピエール・モローの仕事の杜撰さが露呈するかたちとなっている。
私はこのことを、Kの授業後の、院生による例の小発表の時間に、『アタラ』についての研究発表のかたわら、ちょっと寄り道するかたちで、各版のコピーを示しながら説明した。Kは非常に驚き、「これは今までわからなかったけれど、プレイヤッド版でも間違いがあるんだねぇ。これはよく気づいたねぇ」と院生たちの前で言った。小さなことながらも、シャトーブリアン研究という小世界においては重大なことであり、権威ある版本の、Kも知らなかった誤ちを自分が発見できたことに、私は誇らしい気持ちだった。
Kの最終講義において私が驚かされたのは、このプレイヤッド版の誤ちを、彼自身の発見として語ったことである。
Kは、かつての自分の院生のひとりが、この権威ある版の誤ちを見つけた、とは語らなかった。自分自身が、あれこれの版を照らし合わせながら読書する過程で発見した、と語ったのである。
「プレイヤッド版といえば、間違いなどありえないと普通思われている権威ある叢書ですが、詳細に読み込むと、こういう間違いが見つかることもあるということです。私が言いたいのは、とにかく、原典を細かく、しっかり読み続けるのが大事だということです。私自身のこんな発見は些細なものですけれども、このぐらい読み込まないといけないということです」
 ここのところの正確なKの言いまわしを覚えているわけではないが、Kはほぼこのように言った。そればかりでなく、なんとご丁寧にも、このプレイヤッド版の誤ちをそのまま踏襲した版を出版してしまったロマン主義文学研究の権威ピエール・モローの恥ずべき行為にも言及し、権威をそのまま鵜呑みにするとどういうことになるかと、蘊蓄まで垂れたのである。
 最後の最後において、それもKの記念すべき最終講義で、単なる院生のひとりであった私の発見した事柄を、あたかも、自分が長い学究の読書生活の中で勝ち取った、学者ならではの小さな、しかし、正確な理性の働きを印づける、慎ましやかで誇らしい成果として、Kはそれなりに輝かしいエピソードとして語ったのである。
 他人の研究成果を盗むようなこういう行為を、私は、私たち院生は、Kからたびたび、厳として慎むように、と言われ続けてきた。それをKが、自らの最終講義で堂々とやったのである。
私は、声は立てないものの、自然と口を開き、笑い顔になってしまった。
なんという喜劇。
なんという見もの。
なんという運命のいたずら。
見事なものではないか。
しかも、私以外、この大教室で、誰ひとりこれに気づかない。気づきようもない。私が修士の時に行った発表で、私の発見を聴いていた者たちの幾人かもこの大教室には来ていたが、シャトーブリアンが専門でない彼らの場合、こんなことは覚えてもいないだろう。たったひとり、私だけが知っている。Kがなにをしたかを、私だけがこの場で知っている。
 仕事があるから、たぶん最終講義を聴きに行くことはできないだろう、とKに言っておいたので、Kは私が聞くことはないものと思って、大丈夫だと思って、このエピソードを入れたのだろうか。
 それとも、プレイヤッド版とフォリオ版『アタラ』の間違いを発見し、指摘したのは私だったことなどすっかり忘れて、自分が発見したのだと思い込んでしまっていたのだろうか。
 私は、いっそのこと、質疑応答の時に手を挙げて、
「先生、『アタラ』のプレイヤッド版の誤ちを見つけたのは僕でしたし、それを先生の前で発表したら、ずいぶん驚かれて、よく見つけたものだ、とおっしゃったじゃないですか」
とでも言ってやろうかと思ったが、最終講義などによくあるような体制翼賛的な雰囲気の中では、こちらこそが変なクレーマーのように映るだけだろうと考え、やめた。だいたい、時間がなかったこともあって、質疑応答の時間はほとんど取られず、お定まりの花束贈呈で終わった。
 最終講義を終えたKは仏文資料室に下がり、そこにはかつての教え子たちが詰めかけて、ごった返した。しばらくしてから、打ち上げのパーティーが催されることになっていた。私は仕事にすぐに向かわねばならなかったので、仏文資料室に赴いて、座っていたKに挨拶し、これから仕事に行かないといけないので、と理由を述べて、辞去した。忙しいと言っていたのに、今日は来てくれてありがとう、と言うKは、さっきの話にあった『アタラ』の版のエピソードのことなど、もう頭にもないようだった。どうやら、本当に自分が発見したとでも信じ込んでいるようだった。
 後になって、この日、私がパーティーに出ずに去ったことを、
「最終講義のパーティーだというのに、さっさと帰ってしまって。まぁ、しょうがないけれども…」
とKは私に言った。
「助手も終わっていましたし、新たな仕事があるわけでもなかったので、いやでも進学塾の仕事をせざるを得ませんでしたから…」
と私は答えたが、
「でもねえ…」
 と、さらにKは言った。
 あなたからは仕事が回ってこないからですよ。
 心の中で、そう言い添えていた。


指導教授K  18

 私がHと離れて暮らすようになったのは、ふたりの間がうまくいかなくなったためでなどない。
H自身が、もっと自分の好きなように時間を使える生活形態を望んだためだった。16年も一緒に暮らした後、読書、執筆、ヨガなどに、思い通りに専心できるひとり住まいをHは求めるようになったのだった。
自分に残された時間がそう長くないのを、ひょっとしたら、感じていたのかもしれない。この後、12年後に彼女はガンで逝くことになったからである。
ふたりでいても、もう新たな進展がない、という気持ちも確かにあった。
互いのことについては、あまりにすべてのことがわかり合ってしまい、わかり切ってしまい、いっしょにいても話すこともなければ、波立つようなこともない。
ふたりでちょっと言葉を交わせば、相手の感じていることや考えていることはわかってしまうし、相手の内的な空間の様相も見え切っているので、議論する必要も殆どない。妻は、私とHが一緒にいるのを見ると、ふたりともあまりに話さないので、なんだか老夫婦みたい、とよく評した。私とHの間には、妻がそうやすやすとは入り込んでこれないほどの広大な深い相互理解の王国があって、私もHも、そこへの妻の侵入を拒否しているわけではなかったものの、今世をはるかに超える幾多の転生で交流しあってきた相互理解は、なかなか他人とは共有できない。単なる趣味や思想、感受性の合致に留まるものではなく、ともに宗教的秘教的な練習や占術などの無数の実践などをくり返してきた末の、同志や戦友とでも呼ぶべき状態に達していて、Hは、こうした私たちの状態を、コンプリスcompliceと呼んでいた。コンプリスは、悪事の共犯者、加担者を意味する。人間社会の制度、慣習、支配的な多数派の感受性や思想や価値観を全く認めないで、現代ばかりか、地球上のあらゆる時代の人間界にたびたび侵入して観察を続けるという意味でのコンプリスだった。
Hは霊能者で、さまざまな占いを実践研究していたし、彼女の占いは、長期的には百発百中だった。彼女はどこへ行くにも水晶の振り子と数種のカードを携え、毎晩、就寝する前の一時間ほどは、さまざまな事象についての占いの時間となった。彼女の行うのは白魔術だったので、自分についてのあからさま過ぎる功利目的の占いは功を奏さない。自他ともに、それほど金儲けや地位獲得などの世俗の物質的利益に関わらない事柄についてしか、白魔術的な占いは正確な答えを出してはくれない。霊的な進歩に役立つ方向でしか、白魔術は人間に力を貸してはくれないし、さらに、運命的に避けようもない事柄についても、力は貸してくれない。たとえば、近いうちに事故で死ぬことになっている人は、それを避けようと思えば避けることはできるが、たくさんの転生の中で考える長期的な視点からは、今回の事故死をどうしても経験しておくほうが、過去のカルマを速やかに清算できるため、ぜひ事故死するのが望ましいといった考え方に、基本的に白魔術は立っている。そもそもHは、自分の命を奪うことになる病気の行く末について、あれだけ信頼の置けた自分自身の占いが、全く機能しなくなっていくのを経験することになった。
私と暮らしていても、さほどHの邪魔にはならなかったはずだが、それでも夜遅くまで起きていることの多い私との生活時間のズレは、彼女の活動の妨げになったらしい。朝はやく起きて仕事に出ることがHは多く、外出する前に静かな時間の中でヨガを30分ほどはやるのを常としていたし、双方とも、自分のその時点での興味の対象についての書籍や資料などをどんどん家に持ち込むので、どんなに整理しても、書籍や資料の山が方々に出来続けていた。
別れて暮らすのを決めても、私が住むのは、それまで一緒に住んでいたHの家から数分のマンションの一室だったので、たがいに行き来は頻繁だったし、食事を作るのが苦手だったHのために、週に数回は私が夕食を作って食べさせた。全粒粉パンやライ麦パンを買って、私がいない間にマンションの入り口に置いて行ってくれることも多かったし、マンションに洗濯機は置いていなかったので、洗濯するのも干すのもHがやってくれていた。
これは、別れて暮らすようになったといっても、見方によっては、これまでより離れた自室を持つようになったとも言える。この選択は双方に確実な益をもたらした。静かな同士が暮らす場合でも、家の中に相手の存在がつねに聞こえているし、感じられているものだが、それが全くなく、ひとりで暮らすと、全く別の、いわば無音とでもいうものが物理的に聞こえ続けるようになる。これがもたらす集中度と充実度はかなりのもので、私のほうでも、Hがなにを望んでいたのか、よくわかるようになった。
人生においては、生活上、起きることも、起こすことも、必ずふたつ以上の意味あいや効果があるもので、良い一方のことや悪い一方のことというものはないし、これはこういう意味でしかない…などと限定できる現象というものはない。Hとのこうした生活の模様替えは、Hの利便も拡大し、私にも大きな自由をもたらした。
Hとの関わりの中心は、神霊・心霊研究や秘教研究、それらに関わる様々な実践にある。ふたりとも、文学や哲学、思想、物理学の素粒子論などに没頭していたが、それらはあくまで神霊・心霊研究のための比喩としての、表現上のレトリックとしての素材箱だった。この世のすべてに、とりわけ、人間界のことについて一切の関心も情熱もないのは、ふたりに完全に共通していた。

指導教授K  17

   妻と結婚した時、知り合いたちに結婚を知らせる葉書を出したが、その後にKと会った際、
「泥沼の離別劇があったのかい?」
 と彼は私に聞いた。
 私がフランス女性Hと住んでいたことを知っているので、Hと別れたり、妻と出会って結婚に到るまでには、いろいろと紛糾があっただろうと想像してのことだったのだろう。
 Hと一緒だった頃、時どき用事で私の家にKが電話してくる時には、私が不在の折りなどHが受話器を取るので、Kは、Hと直接話したことも何度かあった。Kは、あまりフランス語の実用会話などは得意ではなかったらしいが、そういう時は、さすがにフランス語・フランス文学の教員だけあって、フランス語でHに挨拶していたらしい。私が帰宅すると、「ムッシューKから電話がありました」とHが伝えてくれた。Hは、俗語日本語の文末表現が不得意だったので、私と話す際にも、日本語で話す場合には、いつも、「です/ます」体で話した。
「へえ、K先生、フランス語話せてた?」
「そう、…だいたい、大丈夫です。真面目なフランス語で挨拶してました」
 そんな短評をHから聞いたりしたものだった。
 泥沼の離婚劇があったのか、と聞かれた時には、なんとも俗な想像力の持ち主めが…、と、私は心の中で思った。
 よくまあ、プライベートなことをぬけぬけと聞いてくるものだ、とも。
「いえ、なんの問題もありませんでしたけれど…」
 即座に私がこう答えると、
「そうかい? それなら、よかったけれども…」 
微笑みながら、Kは盃を口に持っていった。
他人の泥沼の愛憎劇は、蜜の味とまでいかずとも、古今東西、人間の世界では、一場の座興にはなってくれる楽しい話題で、誰もがつねに待ち望んでいる。木戸銭を払いもしない知り合いに、無料でこんな一幕を提供してやるほど私はお人好しでもないので、こういう時にはサバサバと、え?、べつになんでもありませんけれど…というスカシを喰らわせるに限る。
ただ、この時の結婚をめぐる事情には、スカシを喰らわせるもなにも、実際、Kが想像したらしいような問題は全くなかった。
私は妻に会う以前に、Hとは離れて暮らすことにしていたし、妻と暮らし始めてからも、Hをたびたび家に呼んで一緒に食事をしたりしている。妻との新居に引っ越す時にも、Hが来て手伝ってくれている。私の誕生日にはHと妻が一緒にケーキを選んでくれたりもする、といったふうで、日本ではいまだになかなか理解されないようなこういう関係性が私とHの間にはあり、さらにHと妻との間にもあった。
こういう関係性を作り上げ、維持するのは、ひとえに、関係者たちの能力と見識に掛かっている。私のことを語れば愚かしくなるからそれは避けるが、Hと妻とのやや高次の判断に掛かっていたと認識しておくべきだろう。
このあたりをよりよく理解するには、徹底して非日本であろうとする私の突出した静かな異常さを説明する必要もあるが、それ以上に、フランス人女性Hの、これもまた徹底した結婚憎悪と家庭憎悪を説明する必要がある。Hと会った頃の私は、結婚観はごく普通の現代日本ふうの通俗なものを持っていたと思うが、Hは、なにがあろうと結婚はしない、断じて子供は持たない、もし妊娠したらすぐに中絶する、自分の子供が産まれた場合、それは自分の時間と労力を損なうだけの生物で大嫌いである、とにかく自分の時間と空間は自分だけを生きるためだけの与件である、というふうに徹底した思想を持っていて、私もそれに合わせるかたちで、しだいに自分でも反結婚の強い考え方を持つようになった。
Hとしては、私が彼女を、彼女の望むようなかたちでは、本当には“愛して”いないと感じ続けていたところもあり、それも結婚拒否の理由となっていたかもしれない。
Hと出会った頃、私は、16歳のヨーロッパ旅行の際にイギリスで出会ったフランス人女性SYを結婚相手とするべく、異様なほどの純愛を貫いていたし、Hといっしょにその女性SYを訪ねた際にも、私が問題としていたのは、SYとの結婚をどこまで待つべきか否か、といったことだった。SYは、ドイツ系の血の混じったフランス人で、金髪に鳶色の瞳、バージニア・ウルフに似た容貌で、10代の頃の美しさは陶然とさせられるほどだった。20代になってもそれは変わらなかった。
Hは当時、私と暮らしながらも、私とSYの恋愛問題の聞き手であり、相談相手の位置に追いやられていたといえる。20代の私は、そう意図したわけではないものの、こうした点では甚だしく残酷だったといえる。「私は、あなたにとって、なんなのかしら?」とHはよく言っていた。
結局、SYは、大学を終えた頃の不安定な時代に彼女の力になってくれた友人Bと結婚したが、そのことを私には知らせずに3年ほど音信を絶った。
Hとフランスを回っていた時、ふと、夫の土地に移り住んだSYに会いに行こうと思い、その地方へHと向かった。三人で再会し、さらに夫Bとも出会って、これ以後、フランスに行くと、SYの地方を訪れるのも恒例のひとつとなった。
SYはこの時、私とふたりだけで草原を散策しながら、言った。
「Bのことは愛してはいないの。でも、彼は、つらかったあの時期の私を本当によく励まし、支えてくれた。Bが一緒になりたいと望むから、感謝の気持ちから、そうすべきだと思ったの。Bとの結婚は、それだけのもの。…あなたは、だって、そばにはいなかったのだし」
 私のことだって、愛したりしてはいなかっただろうし、将来もそれはないだろうし…、と、多くの恋愛心理小説を読み込んできていた私は思った。この頃、私の知的なテーマのひとつは、フランス心理小説群における緻密な恋の駆け引きの読解でもあった。そこには、日本の三島や川端、谷崎、紫式部などにおける恋愛心理の考察も加わっていた。
 Bのことだけでなく、はたして、SYは誰かを“愛する”ことができたのだろうか?
 おそらく、私がそばにいたとしても、私を“愛する”ことも、彼女にはできなかったのではないか?
 一種の心身の不感症のようなところが彼女にはあるのを、その頃の私はもう知っていたし、それはよく、手紙やメールに対する長い無反応のかたちで現われた。三か月ほどは返信がこないのは普通だし、時には六か月ほど来ないこともあった。返事が来たとしても、ぶっきらぼうな数行だけの場合が多かった。
そんなふうにして、Hとの関わりや、他のどんな友人知人たちとの関わりよりも長く、SYとは、16歳の時以来、間欠泉のような関わりあいをしてきた。
若かった私を虜にし、結婚したいと願わせ続けた美しい女。しかし、思考や感情に底知れない空虚さがあり、一緒になったり、結婚したりするのに、おそらく、最も向かない女。それがSYであり、あたかも、遠い昔に恋しあい、すっかり別れて、旧知の仲を絶やしてしまうのも寂しいから…というだけの理由から、ただ音信だけ交し続けているような間柄。
彼女の産んだ次女は、繊細で過敏すぎるところがあり、ずいぶん両親を不安にさせたが、大学は医学部に進んだ。今も勉強に専念しているが、家から離れた都市の大学に通っているので、SYは週末はそこへ行って、料理を作ったり家事をしてやったりしている。夫をほったらかして、娘に専心して、と思うが、SYにしてみれば、初めてどこまでも本気で“愛する”ことのできる対象を見つけたということなのかもしれない。

指導教授K  16

短歌とフランス文学研究、そのどちらを選ぶのか、との問いを私に突きつけてきたのは、Kだけではなかった。
短歌における師であるBからも、私は決断を迫られていた。
決断といっても、それは、フランス文学なんかやめてしまえ、ということであり、迫られていたのは私の選択ではなく、Bへの従順である。
Bは短歌界で押しも押されぬ重鎮であり、すでに老境に達しつつあって、その露わな権力欲と計算とで成りあがってきた、現代日本最大の女流歌人のひとりだった。
毎月の歌会でBには会っていたが、私は個人的にも呼び出されて数回会ったことがあり、そのたびに、短歌のみに集中することを勧められた。
「とにかく、フランス文学なんかやっていてはダメだ。歌が悪くなる。塚本を見てごらん。あんなふうになっちゃお終いだよ」
塚本邦雄はBの僚友でもあり、先達でもあり、兄貴分でもあり、非常に親しい大歌人のはずだが、フランス文学やシャンソン好きで、あからさまにフランスかぶれなところがあった。そんな塚本邦雄のことを、私に対しては、Bはひどく貶した。
フランス文学をやった日本人たちの日本語のマズさ、いわゆるバタ臭さ、気取り、浮薄さは、私にもよくわかっていた。時代時代のフランスの流行を知的に小器用に取り入れる紹介文や論説は、表面的にはいかにも魅力的に見えるものの、古びるのは早いし、少し時代が移ると、歯の浮くような底の浅さから、もう読めたものではなくなる。日本文学には独特の性質というか、癖というか、宿命があって、外国文学にかぶれた言葉づかいのものは絶対に次の時代へと残っていくことがない。日本古典の中で継がれてきた文体や思考法、感受性というものがあって、結局、いつもそれだけが残っていく。日本の詩文というのは、恐ろしいまでに保守的な場なのである。
そのため、Bに言われるまでもなく、私はフランス文学のかたわら、日本古典の読書を、フランス文学に接するのとはまったく違う感受性を守りながら継続し続けていた。言語感覚の肌につねに日本古典を纏い、擦りつけ、言語的な身体の内面に染み込ませ続けようとしていた。そこにフランス文学や思想のアタマを持ち込むことは断じてせず、理性的な反応を経由させることなしに、まるで霊に背後からベタッと憑かれるような感じで、古典日本語の息づかいを体に浸透させようとし続けた。フランス文学や思想を扱うのとは全く別の私を生き続けようとしたわけで、完全に分裂した私がここにはあり、意識的にその分裂を維持しようともしていた。この点で模範として役に立ったのは、折口信夫や泉鏡花で、理性的には時に判読しづらい彼らの文章や思考のあり方を、私は積極的に取り入れようと努めた。これは、三島由紀夫のような明晰な知的考察の積み上げとは全く異なった文章体験であり、非理性主義的とさえ言えそうなこうした方向性こそが、村上春樹の語り過ぎの長々しい駄弁文体に席巻されてしまった時代の後の、次代の日本文学の文体の主軸となり得ると私は踏んでいた。
ともあれ、短歌の世界ではBから、フランス文学などすぐにやめてしまえと言われ、大学ではKから短歌をやめろと言われて、一見、私は空中分解してしまい兼ねない状態に陥っていた。
しかし、私には小説があったし、いつの間にか多量に書くようになっていた自由詩があったし、さらに、文芸や現代の日本社会以上に、根源的に私にとって重要だった神霊世界や神秘主義世界の無限の探求があった。
Kに、短歌とフランス文学の両方をやりますと言ったように、私はBにも、フランス文学は止めませんと答えたが、心の中では、その両方とも、私には結局どうでもよい、という強い思いがあった。専門としているフランス・ロマン主義よりも、私はよほどイギリス文学のほうが好きだったし、最高の小説作品はプルーストよりもヘンリー・ジェイムズのほうだと思っていた。詩にしても、すぐに抽象や奇矯さに走るフランス詩よりも、田園や心情の分厚い描出に秀でたイギリス詩やアメリカ詩のほうが優れているように見えていた。ジル・ドゥルーズが、フランス文学に対する英米文学の優越ということをしきりに言っていたが、彼の言わんとするところには共感できたし、いかにフランス文学に染まらないようにするかは、つねに個人的な必須課題のひとつだった。
当時も今も、私が最も好む時間の過ごし方は、神秘主義文献や古代から現代の宗教文献などを繙いたり、ヨガをはじめとする様々な修行をおこなったり、あらゆる種類の占いや呪術に夜を更かしたり、インドの『バガバッド・ギータ』やシャンカラ・チャリアなどを再読したり、仏教中観派の諸祖の論文や禅宗の説教集を熟読したり、ヨーロッパのものならプロティノスやマイスター・エックハルトの言説を読み直したり、現代ならばクリシュナムルティ、ラージニーシ、ラマナ・マハリシなどの言葉に触れ直したりすることで、率直に言って、こうした極度に抽象的な精神性と霊性の探究の他のことなど、どうでもよい。フランス文学など私には大事ではないし、ましてや短歌など、究極のところでは、どうでもよい。極東の異形の一短詩形になど、私の求める“普遍”は存在しない。
どうでもよい、と思いながらも、人は時どきカフェで底の浅い憩いを求めるであろうし、どうでもよいと知りながら、時には苺や西瓜を買って食べたりするだろう。どうでもよいと思いながら、沢庵を齧ったり、プランターに朝顔の種を蒔いてみたりするだろう。
どうでもよい、というのはこういうことなので、こうした「どうでもよい」ということの意味を即座に理解できないような人間など、人間と見なす必要もなかろうと思う。

指導教授K  15

短歌を捨てて、フランス文学研究に打ち込んでほしい、とKに言われた私は、両方とも続けていきます、と答えた。
今にして思えば、私のこの答えで、Kは私への助力を控えることにしたのかもしれないが、正確にはわからない。Kと私の研究分野ははっきりと重なっており、研究上の後継者として私は悪くはなかったはずだろうが。
研究上の後継者と目されたからといって、Kが仕事を世話してくれたりしたとまでは思えない。自分の院生たちのために他人に頭を下げる人でないのは、私にはわかっていた。授業や院生の発表などには、いかにも教師然として真摯な態度を堅持し続けたが、それだからこそ、それ以上のことを院生たちにしてやらないでもわかってもらえるだろう、という雰囲気があった。
ダメなものには、いくら期待しても仕方がない。Kはよい教師であり、院生たちに熱心に対応している。しかし、顔が狭く、飛び抜けたカリスマ性もなく、院生たちのために職を与えてやれるような力は皆無であり、その上、院生たちのために他人に頭を下げることはしない。だから、どうにもならない。Kを通じてなにか得られるということはない。ダメなものはダメ。私にはそういう結論が出ており、したがって、Kに不満を感じもせず、恨みもせず、サバサバした気分だった。もちろん、そんなKの望みを入れて、短歌を捨てる姿を見せる必要もないと思えた。
Kが嫌悪した先輩教授KBのことはすでに書いたが、そのためなのかどうか、Kは詩歌全般をそれとなく嫌うところがあった。散文のほうに馴染み、散文作家研究をしてもいたので、韻文はわかりづらいと感じるところがあったのだろうが、俳句の蕪村などは好んでいて、全集も買っていたのだから、韻文全体を嫌っていたとも思えない。やはり、詩歌を専門にする人たちとうまくいかないという、学内での人間関係が大きく響いていて、私が詩歌に関わっているのを見ると、どこかカチンと来るものがあったのだろう。
KBのほかに、詩歌専門としては教授Sがおり、この人はフランスの詩人のイヴ・ボヌフォワと親交があって、翻訳も出している。若い頃にはヘルマン・ヘッセとも文通をしていて、片山敏彦とも交流があった。美しい山野や海浜に旅をしては絵筆を執るような、ヘッセやロマン・ロラン系の(…それは、あくまで日本で広まったイメージによっての話であり、実際のヘッセやロランははるかに厳しい文学者であり、広い領域に関心のある知識人だったが)、高原系とでもいうべきか、明るく甘い人道主義の系譜を引き継ぐ、いかにも文学部という感じの温厚な教授で、よく典雅な詩集を自費出版したので、私はそのたびに贈呈されたりしていた。
Kは、同僚のこの教授Sとはよく話しているようだったが、私たちにはよく、この人の批判をした。自分は詩人や歌人は大嫌いだ、とKは時どき語ったが、そんな時に引き合いに出される例のひとりが教授Sだった。
教授Sの娘が急死した時、こんなことがあったのだという。葬儀に行くと、紙が手渡された。見ると、急逝した娘についての詩が書かれていた。Sが急いで書き上げたものが、印刷され、会葬者たちに配られたのだった。自分の娘が死んだことさえも素材にして、詩作をしてしまう。そればかりか、すぐに印刷して、会葬者たちに配布までしてしまう。この自意識過剰ぶりにKは憤慨していた。Kからすれば、詩作はあくまで個人の趣味であり道楽に留まるべきもので、人の死を濫りに材料にしたりすべきではないということらしい。
Kの考えには一理あるし、世間的には良識の部類に入る。ロマン主義に浸り切っていられた時代の、バイロンだのコールリッジだの、あるいはユゴーだのミュッセだのという、よほどの飛び抜けた大詩人でもあれば別だが、現代の一市民に過ぎない者が、娘の死に際して詩作をし、それを人々に配るとはなんと大袈裟な…というKの受け止め方は、Kがロマン主義専門のフランス文学史家(本人はこう自認していた)であるだけ、なおさら強くなったのかもしれない。
この話が出るたびに、私は、
「でも、詩人ならば、娘の死に臨んで、やはり書くと思います。単なる自己顕示とは違う意味で。その場合、娘の死というのは、単なる材料というわけではないんだと思いますよ」
などとKに話したが、あまりKを納得させることはできなかった。このあたりのことは、ちょっとした雑談では語り切れない、高度に緻密な詩論の領域になる。例えば、ジョン・キーツの詩法である創造的消極性などと同様で、共に詩的創造に関心のある者どうしが静かに論じあう中で、はじめて、どうにか意味のある議論が作り出せるたぐいのものだろう。批判しかするつもりのない者と語ろうとしたところで、どうにもならない。ドゥルーズが言うように、あらゆる議論やコミュニケーションには、よほどの幸福な対話者の出現でもないかぎり、普通はなんの価値もないのだ。
Kの考えでは、やはりSは、娘の死を、詩作という自己顕示の材料にしたのだ、ということになっていて、その点では動かなかった。そのようにも考えうる一面はあるものの、しかし同時に、詩作にかかった場合に起こる別世界の動きがそこにはある、ということが、Kには理解できなかった。あるいは、理解したくなかった。
Kの知りあいの或る女性歌人が、やはり夫の死に際して挽歌を作り、Kたちに見せたことがあったという。このことも、もちろんKは嫌悪した。自分の夫が死んだというのに、それをネタにして短歌なんか作ってしまうんだ、酷いもんじゃないか、とKは言った。
たしかに、酷いものかもしれない。
しかし、書くということは、そういうことだろう。
そうことでしかないではないか。
詩歌に限らず、散文も含め、文芸的なものを書く者たちは、世間通俗の人間観に自分を嵌め続けるがために書くのではない。ものを書くペンの先や、キーボードをタッチする瞬間に、世界は反転する。現実世界は一気にネガになる。書いている向こうにだけ、書き手にとっての現実や真や美が発生し、人間的現実と呼ばれるこちら側は、向こう側を作るための素材箱にしか過ぎなくなる。
文学史的にも最も巨大な妄想家たちと云えるロマン主義時代の大作家たちを研究対象にしているKが、こんなことをわからないはずもない。だとすれば、嫉妬か、それとも、教授Sたちに対するKの厳しい評定がそこにはあったか。
たぶん、後者であったのだろうと思う。つまらない才能の持ち主が、なにを詩人ぶって書くのか。娘の死を材料にしながら、この程度のヘボ詩なのか。ユゴーが娘の死を題材にした詩と比べるべくもない、こんなものが詩か、マレルブが知人たちの死に臨んで書き上げたあれらの名作詩に比すべくもないこんなものを、Sは詩と呼ぶのか。Kはそう思っていただろう。
Kばかりでなく、私も含め、フランス・ロマン主義とその前後を研究する者たち、ないしは愛読する者たちの視野には、詩といえば、膨大な試作品を残したヴィクトル・ユゴーが先ずあり、人生の浮沈を十二分に、比較的平易に歌い切った名調子のラマルティーヌがあり(タレイランなどは、詩人はラマルティーヌしか居ないとさえ言っている)、ミュッセ、ヴィニー、ボードレール、ヴェルレーヌ、ランボー、マラルメがおり、イギリスのワーズワース、バイロン、コウルリッジ、シェリーなどもおり、ドイツのヘルダーリンやノヴァーリスがいるという具合で、こうした名は単なる発端に過ぎないにもかかわらず、これだけでもすでに大量の図書で書架が占められてしまうことになる。
これらの膨大な量の、読むべき、熟読すべき、玩味すべき古典を前にして、才の薄い者が娘の死に臨んでチョチョイと書き落としたものを、傲岸にも、不遜にも、恥知らずにも、あえて詩と呼ぼうというのか… 
Kは、そう思っていたに違いない。
私とてもこの思いは共有するのだが、しかし、ここであえて言っておけば、たぶん、Kはアメリカのホイットマンの天衣無縫さを血肉で知ってはいなかった。フランス・ロマン主義のどうしようもない古色蒼然さをすべて一瞬に破壊し去るほどのホイットマンの反形式、反詩の凄まじさに、本当に惹き込まれて読んだことが、Kはなかった。
しかも、読んでみればわかるが、ユゴーに内容的に読み深めるべき詩は意外に少ないし、ボードレールでさえ、私の経験からすれば、数十回再読した後にはもう捨ててもよい。調子良さ、懐かしさはある。しかし、ボードレールの読みを深めるには、ベンヤミンのように歴史的社会的要素の文脈を効果的なスパイスとして混ぜ込むような他のテキストを持ち込んで来て、それと混ぜ合わせることで味を出す他にはない。そうしてさえ、すぐに飽きるのだ。ベンヤミンふうボードレールにも飽きる。マラルメにも飽きる。ランボーだって、またか、あいもかわらず…と思う。よほど、ロンサールやデュベレーのほうが色褪せないのだ。
もしKと今話すことができれば、ぜひ言っておきたい究極の反論もある。詩歌であれ、散文であれ、ものを書くのに才能など要らないということだ。
ユゴーからマラルメまでの詩作品など読む必要もない。
ただ書けばよい。
もし書きたいのなら。
文芸は、書かねばならないから仕方なく書いたというような、提出書類の類や学校の作文・レポートの類ではない。書く必要など全くないのに、好き好んで詩歌のかたちを選んで書いたり、そのかたちからも逸れて書いたり、小説のかたちで書いたり、小説だかエッセーだかわからない雑文のかたちで書いたりしていってしまう異様なものだ。そこには、才能は要らない。技術も要らない。社会的必要もない。モラルも要らない。かといって、反抗も要らない。革命的な意思も情熱も要らない。
書き手となった者が、なぜだか、とにかく書いた、という事実があるだけのことである。
そうして、書いた者が書かない者に優越する、ということもない。というのも、書かれたもの、残っていくものに、究極のところ、それほどの価値があるわけでもないからである。
こういうことを考えるのに適した対象としては、フランス文学の枠内だけでも、シャトーブリアンの知己で、作品を書かなかった作家ジュベールがおり、書くのを20歳で止め詩作を放棄した天才ランボーがいる。このあたりのことは、作家で批評家のモーリス・ブランショが得意とする文学哲学の領域となる。書くこと、作品が完成すること、残ることなどの優越にのみ取りつかれている者は、文芸においては初歩の初歩の読者でしかない。

指導教授K  14

研究か創作か、このことに関しては、博士課程のはじめに、指導教授Kから選択を迫られたことがある。
その頃、私は短歌の世界にいちばん深く関わっていて、結社のしがらみにずいぶん面倒な思いをしていた。Kが私に迫ったのは、フランス文学研究をするためには短歌を捨ててもらいたいが、そうするつもりがあるか、という問いだった。
私としては、じつは、中学生の頃から小説創作のことしか眼中にはなく、そのためのバルザック研究やドストエフスキー研究、さらにはポーや三島由紀夫や芥川龍之介研究に高校生時代から深入りしたのだし、さらには小説理論や小説分析理論にも手を広げていたのだった。
大学時代の読書のしかたは、大学の授業に向かう前に、たとえば朝5時ごろに起きて、30分ほどスタンダールを読み、次の30分をカフカに宛て、さらに次の30分をサルトルに宛て、電車の中ではバルザックやドストエフスキーを読むといった、時間刻みの受験勉強的な文学読破を続けていた。もちろん、その頃日本への紹介の盛んだった南米文学も、歌舞伎脚本集も、『同時代ゲーム』以降がらりと様相の変わった大江健三郎や、まだ生きていて旺盛に創作していた安倍公房や、やはりまだ生きていた小林秀雄、石川淳などの現代日本文学も読まねばならない対象だった。文学理論の紹介も盛んで、ミハイル・バフチンやロシア・フォルマリズム、ドゥルーズのカフカ論やプルースト論などには異様な魅力によって興奮させられたし、日本では柄谷行人や蓮実重彦の活躍が華々しかった。雑誌は朝日出版社の『エピステーメ』が刺激的だったし、工作舎の『遊』も見逃せなかった。中央公論社の文芸誌『海』は毎月必読すべきものだったし、女性雑誌の『マリ・クレール』も高度に文化的なポストモダンの雑誌だった。伊丹十三編集の軽い精神分析雑誌『モノンクル』なども面白いし、村上春樹の変わった小説に新人賞を与えた『群像』も見逃せず、もちろん『朝日ジャーナル』や『現代の眼』なども健在で、毎月買い込む雑誌量はかなり多くなりがちだった。
そんな私が短歌に関わるようになったのは、ひとつ書くのに時間のひどく掛かる小説とは別に、もっと手短に言語表現が楽しめる媒体を求めたかったためだろうと思う。寺山修司を、私なりに発見したのも大きかった。寺山の短歌創作法は、青春ドラマふうの明るい設定と、戦後の寒村の暗く寂しい風景、失われた日本の土俗の亡霊じみた雰囲気、現代日本のあっけらかんとした浮薄な空しさと軽さの伴う若者像などをより混ぜて、カミュふうの生の“真昼”の一瞬の光芒と喪失感、夢と限界性とをつねに同時に描き込むコントラストの妙から成っているが、そんな寺山の方法の吸収に一時期努め、自分でも似たようなものを作ってみるうちに、短歌らしいものができるようになっていった。もっとも、いま振り返れば、小説研究に没頭していたはずの大学時代、『古今和歌集』を耽読しながら東京をさ迷っていたりしたのも覚えているので、短歌に向かっていく兆しははじめからあったのだといえるかもしれない。
短歌だけではない。詩との関わりも、すでに確実に始まっていたのではないか。詩と自分とを結びつけようという気などまったくなかったが、ただ面白いからという理由で、現代詩のあれこれをずいぶん読んでいたし、戦後詩はおおかた読んでしまっていたし、吉原幸子の全詩集を買って読んだり、出たばかりの吉増剛造の『熱風』なども買って、本当に、ただ面白いから、という理由だけでくり返し読んでいた。
少しフランス語が読めるようになってからは、ボードレールとランボーの原書がいつも手元にあった。黄色いクラシック・ガルニエ版のランボー集はたびたび抱えて外出し、東京のあちこちで開いて、暗唱するほどに読み込んだ。あのような作風のランボーだから、理解を深めたなどと馬鹿なことは言えないものの、小林秀雄のランボー体験に近づこうとしながら、若い足掻きをしていたものと思う。さいわい、ランボーについては、大学に研究者であり訳者の平井啓之教授がいて親しんでいたし、マラルメの専門家松室三郎教授もいて、マラルメ講義に出続けていた。松室教授の授業のレポートには、マラルメの詩ではなく、ランボーの詩を扱うことをいつも許してもらって、わかったような分析と陶酔との混じった青臭い傲岸なレポートをいくつか提出したりした。
ロートレアモンは、まだまだフランス語では読めなかったので、あれこれの翻訳で読んでいたが、ロマン主義の最後の華のひとつとも言えるあの極度に濃縮された文体には相当影響された。ロートレアモン研究から創作に入ったル・クレジオの中期までの天衣無縫の作法に難なく着いて行けたのは、発想の点でも文体でも、ロートレアモンに馴染んでいたからかもしれない。
詩のことでいえば、高校時代の萩原朔太郎や中原中也への傾倒や、中学時代の教師から受けた詩歌のスパルタ教育も忘れ難いが、話が逸れ過ぎて、Kへと戻って来れなくなる可能性があるので、ここでは止めておく。Kのことについて語り出しながら、私を構成する様々な糸について手繰っていくうち、Kという人を、忘れはしないまでも、薄く思い続けていくばかりなのだろうか、という気がしている。
Kという人の場合は…というのではなく、Kでさえも、と言ったほうがいい。私が出会ってきた人々は、ふり返れば、誰もみな、淡く、薄い人々であるという気がするし、いま見知っている人たちも、誰ひとりの例外もなく、本当に、在るか無きかのはざまに揺れているような、希薄な影たちだと感じる。

指導教授K  13

創作か研究か、あるいは、その両方か、という苦しみを分かち合えるのは、大学院ではF君しかいなかった。
私が助手を務めていたのは大学の創作部門の文芸専修だったが、それというのも、私が研究の他に、小説、詩、短歌などの創作を平行して進めてきていた経緯があったからだった。博士課程の二年目だったか、三年目だったか、この科の主任教授Eから、それまで私が発行していた50号を超える冊数の雑誌を全部持ってくるように言われた。他の雑誌も作ってきていて、それらも含めるとさらに号数は増えるが、とりあえず中心的に発行しているものだけでよいと言われた。
私はその雑誌を、少なくても週に一回発行していて、時には週に二回ほど出していた。ワープロで原版を作り、大量のコピーをして、それを手作業で折って、それから大部を綴じられる大型ホチキスで綴じ、大きな封筒に入れて郵送するという作業の連続だった。発行部数は多い時には200部に達し、仮に一冊分の送料が150円ほどとすると、一号分を郵送するだけで、すべてを送るのに3万円は送料にかかる。コピーも、大量にできるところで安くやるにせよ、1枚7円や6円ほどはしたから、一部作るのに70円から100円はする。200部ともなれば2万円ほどかかる。ということは、片々たる手作りのコピー製の個人雑誌を一号分作るのに、5万円は掛かっていたことになる。それを120号ぐらいまで続けた。単純計算すると、全部で600万円ほどを雑誌づくりに掛けたことになる。もっとも、号によってはページ数の薄いものも多く、そうなると郵送料ももう少し安く済む場合もあり、さらに発行部数もだんだんと減らしていったので、概算では400万ほどに収まったのではないかと思う。
どれほど少なく見積もっても、400万円ほどを雑誌作りに費やしたのは確実で、今の時点から振り返れば、この雑誌の制作期間こそが、私のあらゆる欲念の消却と蕩尽の歳月だった。
文芸専修の主任教授Eは、私の書いてきた創作物の膨大な量を見て、この時期、この科の助手としてふさわしいのは私しかいないと考えたらしい。小説家や詩人や脚本家などになろうとする学生たちが1年から4年まであわせて常々400人ほど居る科で、そこに夜間コースの第二文学部も合わせると、学生数は800人ほどになるが、教員と教務課の間に立って、これらの学生たちの世話をするのがこの科の助手の仕事だった。そのためには、自分も創作をする者でなければ、学生たちに対する理解に欠ける場合が生じる。他方、この大学の助手は研究助手と呼ばれ、研究も続ける者でなければならず、そのほうでも論文を書き続けなければいけない。
結局、創作と研究と学生たちの世話と、教員や大学側の様々な要請への対応、専修室と併設する小図書室の管理、図書の買い入れや整理・管理、さらには、まだ博士課程に在籍していたので大学院生として指導教授の授業や研究発表などにも出席し続けることなどが皆、一身に降りかかってくることになった。しかも、これはあくまで大学内での仕事や用事であって、大学外では進学塾や予備校での講師の仕事を継続しており、他大学で2コマの授業を受け持っており、さらに、フランス情報誌にフランス現代文学紹介の連載と、新聞にフランス社会・文化についての情報コラムの連載も受け持っていた。
これは途方もない忙しさで、二年目に体調が悪くなった時、知り合いに紹介されて盲目のマッサージ師のところに行ってみて、血圧が200を超えているのを知らされた。そのマッサージ師は、しかし見事な手腕を持っていて、すぐに首の脇のよく効くツボに処置してくれ、その場で血圧を下げてくれた。「よくまぁ、こんな血圧で生きてきたもんだね。もう少し楽にしないとダメだよ」と彼には言われたが、ふり返ってみれば、この後、ほぼ似たような多忙のまま、ずっと今まで生きてきている。
創作と研究、大学の制度的な面とのつきあい、生活とそのための仕事などをこんなふうに抱えていたので、せめて、創作と研究の間に引き裂かれ続ける気持ちを共有できるF君がいたのは、いくらかは慰めになったのだった。創作を目指す学生たちは研究など興味も持たないし、一般の院生たちは創作などしないので、四六時中、両方に意識が行っているような人間の苦しさは、どちらにもわかってもらえない。F君と話したところで、気持ちが本当に安らぐというようなこともなかったが、それでも、創作などという、金にもならない時間喰いの、碌でもない欲望に精神の底の底まで苛まれた人間どうしとして、冗談めかしながらの嘆き節を洩らしあうことはできた。

指導教授K  12

私が指導教授Kの大学の助手になった次の年、かつて通った大学からこちらの大学院に入ってきた後輩がいて、彼はもちろん教授ASも教授Yもよく知っていた。彼については、教授ASから直々に私に電話が掛かってきて、今度そっちの大学院にうちの学生が行くことになったから、よろしく指導してやってくれ、と頼まれていた。
私が助手を務める専修室で、私が不在の時間に詰めていてもらう仕事や他のさまざまな仕事のために数人の大学院生をバイトとして雇う必要があったため、そのうちのひとりとして、私はこの院生F君も雇った。いっしょに専修室にいることも多かったため、おのずといろいろなおしゃべりをすることになる。
この時にF君に聞いた話がなかなか面白かった。
F君によれば、教授Yは性的になかなか盛んな人で、よく乱交パーティーを開くのだという。65歳も過ぎて、定年退職の頃の年齢で、再婚した新しい妻に子供を産ませた話は耳にしていたが、その妻と他のカップルとで乱交パーティーをする。
そんな話をどうして知っているのかと聞くと、教授Yを囲んでやっている読書会で、Y自身がよく話すのだという。
「Y先生は、ほんと、スゴイんですよ。やりまくりですからね」
 そういうF君に、昔の助教授Mと女子大生Nの問題があった時、教授Yがいろいろと聞き出しに来たことを話したら、
「それって、ひょっとしたら、Y先生も、Nっていう女子学生を狙ってたんじゃないのかな。あれは、そういう人ですから。もう、セックスだけで生きているような人ですからね」
 と、なかなか激しい論評をした。
そういうF君も、乱交まではしないものの、出会うほとんどの女子学生たちや女性たちに声をかけて誘い続けているという噂の入ってくるほどの、いわば教授Yと同好の士とでもいうべき人物だったので、教授Yとは話が合うところがあったのだろう。一度、冗談まじりに、
「君もY先生のパーティーに参加してるんじゃないのかい?」
と聞いてみたことがあったが、
「いやぁ…」
と言いながら、彼ははっきり語らずに黙ってしまった。そして、ボソッと、
「…とにかく、Y先生はご立派なモノをお持ちです」
ひょっとしたら、本当に参加していたのかもしれない。
F君は、修士論文を書いて修士課程を終えたものの、数年間試みても、ついに博士課程に進む試験には合格できなかった。私たちの大学院の博士課程入学試験はなかなか難しく、試験場には、修士を終えた秀才たちが毎年たくさん並び、そのうちから二人ほど、多くても三人ほどしか合格できないのだから、受験者にとってみれば、そら恐ろしい風景だった。
やめないで、まだ受け続ければいいのに、と勧めたが、もう諦めます、と達筆なペン書きの手紙が来た。F君は文学研究志望というより、小説家志望で、つねに書いていたし、日本の様々な現代作家を広く視野に収めて読んでいて、彼と話すのはそういう点では楽しかった。作家志望の人間には、好きでもない研究を強いられる大学院という場はつらい場所だし、創作家として自立できないからこそ居座ってもいるわびしい場所でもある。彼の手紙には、仕事をしながら創作を続けたい、とあった。創作と研究の並行作業は、精神的にも心理的にも窮屈な思いが募ってやまない。それをきっぱり捨て去るのだという解放感が、この時のF君にはあった。まだ頑張り続ければいいのに、と思う一方、潔く研究を捨て去るF君の勇気に感心もした。
もっとも、F君についてはこの頃、こんな話もあった。何人かの修士課程の女子院生を“やり”捨てたので、彼のまわりの院生たちや教員たちから非常に顰蹙を買っている…
それは、私からは少し離れたところで起こっていて、真偽のほどはわからなかったが、私の専修室で働いてもらっていた女子の院生のひとりから、ある時、
「Fさんはひどい…」
 と急に言われたことがあった。恋愛沙汰であることはすぐ察しがついたので、
「まぁ、男女の間では、いろいろあるよ」
 と紋切り型の軽い慰めを言っておいたが、この女子院生は、胸だけはひどく大きいものの、それほど魅力的な女性とは見えないところがあったので、F君はこの娘にも手を出したのか、この胸のためだけに?…と思った。もちろん、そんな推測が正しかったのかどうかは、わからない。
その後、どこかでF君の名前に出会うというようなことは、起こっていない。本名を隠して、ペンネームで小説家になってでもいるかもしれないが。

指導教授K  11

   その頃、私はフランス人女性Hと暮らしており、大学院ではそれに関する話は全くしなかったにも関わらず、このことはどこからともなく洩れ、院生たちに広まるようになった。私としては、こんなことは洩れてもどうでもよいが、Hは実生活について極度の秘密主義者だったので、こうした漏洩を嫌った。秘密主義というより、Hは、いろいろな噂やそれにもとづく背後の動きで物事が進んでいく日本社会の気味の悪さや恐ろしさに敏感だった。彼女は自国フランスの社会を信じているわけでもなかったが、日本社会については遙かに強い不信感を抱いていた。これは、表面的に親日家を装うフランス人たちでも同じことで、日本社会への疑いという点では共通している場合が多い。
先輩の院生Aが電話してきたのは私が家にいない時で、Hが電話に出た。Aは私の名を言って、○○さんのお宅ですかとHに確かめ、彼女が「そうです。いま、彼は居ませんけれども…」と言うと、私になにか用があるわけではなくて、私と同居しているHは誰なのか、と尋ねたという。
プライベートなことに濫りに入り込まれるのを極端に嫌うHは、そんなことがあなたになんの関係があるのか、あなたは誰か、どうしてそんなことを知りたがるのか、などと問い詰めたらしい。Aは、指導教授Kに頼まれて、私とHの関わりぐあいを知るべく電話してきたのだと言った。
電話はこの後も数度あり、私はいつも不在だったが、Hはそのたびに憤慨していた。Aのことはもちろん、Kのことも、最も嫌な日本人のやり口と見なし、警察に言う、とまで息巻くようになった。
大学院で私がKと会っている時に、他の院生のいない時にでも私に直接聞いてくれれば、特に隠しもせずに話したかもしれないのに、Aを介してのこういう妙な調べ方には私も不快感を抱くようになり、Hと暮らしている件については、この後、Kには全く開示しない気持ちになった。
Kがこんなことを調べたがった理由は、ついにはっきり聞いてみることもなかったので、よくわからないが、彼が親しかった他大学の教授ASの差し金もあったかもしれない。当時の日本では主要なフランス語辞典のひとつの編纂者でもあった教授ASの大学でHは教えていて、私も7、8年前の大学生時代、そこに在学していたことがあった。かつて学生だった私と、そこで教員をしているHとの関わりを調べようとしたのではないか、と私は推測する。
私はすでにその大学を離れていて、なんの関係も持っていなかったので、こんなことを調べられる筋合いもないのだが、その大学では昔、O助教授事件というのがあって、助教授と女子大学院生の不倫を原因とする一家心中事件があった。それ以来、その大学ではこうした問題に敏感になるようなところがあった。
私のいた学科でも、私が習った助教授Mと、私のクラスの女子学生との交際が問題となったことがあった。大学の授業の後で、ふたりがどこどこのホテルに入って行ったという話がまことしやかに取り沙汰され、噂された。ヴァレリー専門で、フランスの政治や社会にも関心の深いフランス帰りの助教授Mは独身者だったから、いざとなればすぐに結婚してしまえば、日本の社会の慣習としては問題はすぐに収束する程度の話だったので、そもそも、教員と学生の恋愛や結婚など珍しくもなかった70年代、80年代の日本では大ごとでもないはずだったが、こういうことをさも大ごとであるかのように騒ぎ立てる教授たちというものもあった。
このフランス帰りの助教授Mについては、ルネサンス文学専門の教授Yが、私たち学生に直接聞いてきたことがあった。女子学生のNさんとつき合っている噂があって、よくホテルなんかにも入り浸っているらしいのだが、そういう場面を見たことはないか、ふたりで他のどこかへ行くところを見たことはないか、なにか知らないか、などと尋ねてきた。
私たちは助教授MとNさんのことについて全くなにも知らなかったので、逆に、「へえ、そんなことがあるんですか」と驚き、教授Yはむしろ逆に、私たちに要らぬ噂を拡散してしまったような事態となった。いったい、問題を穏便に収束させたいのだか、それともさらに焚きつけたいのだか、と教授Yの行動を私たちは訝ったものだが、この時の教授Yの行動については、だいぶ後になって腑に落ちたことがある。

指導教授K  10

Kの研究室の不快さを、…などと言うと、不快でしかなかったかのような印象を与えかねないが、もちろん、不快さだけがあったわけではない。いろいろな側面があったうちで、不快と思われた部分の話というだけのことである。
研究室の不快な部分を最もつよく表わすのは、家に何度か掛かってきた先輩の院生Aからの電話だった。
先輩といっても年齢は私と同じで、大学から大学院にストレートで進んで、大学の中だけを生きてきた人物だが、それに対して、私は大学を出てから、自由も好き勝手も通らない様々な職場を経験していて、その期間に蓄えた金で大学院に入ってきている。いくつかの仕事を、いろいろと手管を張り巡らして継続させてもいる。
大学の外を生きてきた人間が、大学から一度も外に出たことのない人物に対して抱く軽侮の念には、普通、きわめて大きなものがある。大学で積まれた学識は、よほど秀でたものでないかぎり、文系の場合はオタクの雑学に過ぎないともいえる。それは使いようによっては他人の役にも立つし、オタクの雑学と呼んだからといってその知識自体を軽蔑しているわけではないが、その人物自身は、やはり、ただのオタクとしか呼びようはない。もちろん、世界史的な知の流れの中に自分の興味や知識を位置づけて、その意義をいつでも滔々と述べることができるような、サルトルやルカーチなみの教養主義的弁舌家であれば、それはそれなりの人間的価値を持つと思えるが、そういう人物は絶えて無くなってしまったのが現代である。
その先輩の院生Aは訥弁だし、訳読の際にも優秀なわけでもないし、才気はないし、会話を交わすにもはっきりしない上、いっしょにいてもつまらないところがあって、大学の枠内でのみやっていられる人物、と私には見えていた。もちろん、彼がどのようであっても、それはこちらの問題ではないのでかまわない。ただ、彼が近づいてくると、とにかくつまらなさの霧をいっしょに引き摺ってくるものだから、私は彼を他の誰かに押しつけて、それとなく場所を変えるようにしていた。
私には、対人関係で、人物の面白さ、発言の才気煥発さ、不思議と滲み出るような魅力の存在だけを重視するところがある。そういう、いっしょにいると必ずなにかを学べるような人たちのことは素直に認め、時間を費やしてでも会おうとする。ところが、それがない人たちには目も向けない。我ながら冷た過ぎると思うところもあるが、私にとって、人は本や映画のようなもので、いろいろな読解のできるテキストであり得る人が好きなのだ。
では、おまえ自身はどうなのか、人のことをそのように扱えるほど大した人物であるとでも自認しているのか、と問い返されれば、もちろん、とんでもない、と答える他はない。私は自分のつまらなさ、魅力のなさ、底の浅さなどを知り抜いている。だからこそ、自分にないものを他人に求め続けるのかもしれない、自分にないものを人から学び続けたい、と答えるだろう。口というのは便利なもので、なんとでも言えるのである。

指導教授K  9

 相手への、そんな当座しのぎの振る舞い方を算段することで、こちらの気分や精神のほうはある程度調節できる。むしろ、私の体のほうこそが、Kの研究室に入ってすぐに、もっとはっきりと抑圧的なものを感じていて、調節がつかなくなっていたらしい。
 修士課程1年生の夏、学期の終わりに研究室のコンパがあったが、それが過ぎてから、翌日か翌々日、便が真っ黒になった。恐ろしいほどツンとくる粘着性の高い便で、二日ほど続いた。コンパで食べた中華料理のせいかと思ったが、もちろん中華料理は何度も食べたことがあり、食後にそんな便が出たことはない。いろいろ調べてみると、血便で、しかも肛門から遠いところでの出血があったものと思われた。おそらく、胃だったのだろう。内臓からの出血など経験したこともないので、少し怯えたが、その後は何事も起こらなかったので、一時的な出血に留まったらしい。
 それにしても、二日ほど真っ黒な血便が続くほどの出血を想像すると、今後大丈夫だろうかと不安になった。中華料理で変なものを食べたとも思われず、理由としては、ストレスが胃に来たのではないかと考えられた。当時、大学院の他、生活や学費を支える仕事を毎日夕方以降続けていたが、その仕事は慣れていたのでストレスが過大だったわけではなく、そうだとなれば、これは大学院のほうの、とりわけKの研究室の雰囲気から来るストレスがいちばん大きいと思われた。自分の意識では、たいしたストレスもなく、仕事も大学院も、自分自身の研究も、創作も、さまざまな読書も、平行してこなしていると思っていたが、肉体はどうやら、自分ではわからないようなストレスを受けとめていたらしい。
 とはいえ、Kの研究室の雰囲気とK自身とを同一視するのは、控えるべきかもしれない。研究室というのは、多数の院生の集まりで成り立っている。それが作り出す雰囲気というのは、K個人のそれとは、やはり異なっている。
大学を卒業した後、私は長いこと大学環境を離れており、もともと大嫌いな場所のひとつでもあるので、それだけでも、院生がいっぱい集まっているところに居なければいけなくなると、非常なストレスを覚える。なにか、無性に気持ちが悪いのだ。
しかも、大学を出て6年も7年も社会で働いてきた人間には、大学という場所は、甘えた人間の集まりにしか見えない。大学院はさらに酷く見え、一度も大学の枠から出たことのない者たちの奇妙な慣れ合い、睦みあい、競い合いの場所と見える。どのような仕事であれ、社会人として生きているということは、住居費、食費、服飾費、キャリアアップのための学習費、交際費、遊興費、各種の税金や社会保険費など、あらゆるものを含めた生活の費用を自分で稼いでいるということであり、バランスを取りながらそうした生活を継続すべく注意し、様々な不満や不公平や不安を抱え込みながら会社や上司に従っていくことを意味する。これは、学校を卒業して普通に働いて生きていっている人間たちには当然のことであり、避けたくても避けようもない生の条件だ。しかし、大学院の院生たちの多くは、こうした経験を、いわば、免除されている。大学を終えても親の家に住み続けていたり、親から生活費を出してもらっている場合もあれば、アルバイトはしつつも、奨学金で資金上の基盤が得られていたりする。これらは、人それぞれの生活のしかたに関わるので、いいも悪いもないものの、やはり、会社組織や上司の決定に基本的に全く逆らえない状態で仕事を続ける他ない経験の有無は、人間の精神に決定的な断層を生む。
会社組織での、すでに短くない勤務経験を経てから大学院に入り、Kの研究室に来た私は、奨学金は貰えるようになったものの、生活と勉強の費用を捻出するために、大学院の傍ら、仕事を続けていたし、続けざるを得なかった。大学院での単位取得のための授業に朝9時から出なければならず、日によってタイム・スケジュールは全く異なるものの、夕方までは出席すべき授業や、大学院での用事に拘束される。夕方からは、複数の進学塾や予備校に働きに行くために、帰宅ラッシュの始まり頃の大混雑の電車を乗り継いで、大学からかなり離れたあちこちの遠方の職場に向かう。それらの場所での仕事が終わるのは22時頃で、場合によっては23時頃になる時もあり、そこから急いで帰っても、帰宅は23時半から0時頃になる。軽く食事をし、翌日の大学院の授業のための予習や様々な準備、自分の研究が始まって、寝るのは早くても3時半頃、たいていは4時過ぎとなる。そうして、7時には起きて、朝9時の教室に出られるよう、慌てふためいて準備をする。
修士課程のはじめの二年間は、このように過ぎていった。論文を仕上げるために三年目も修士課程に残ることにしたが、すでに単位もだいぶ取ってしまったため、朝9時の授業に出る必要がなくなって、もう少し余裕ができたが、夕方以降の仕事は同じことだった。つねに移動、移動という生活で、論文のための文献やぶ厚い辞書やノート類を鞄に入れて持ち歩き、満員電車の中でも読み続ける。恒常的な睡眠不足のため、朝も夕方も夜も電車の中では、ふいに気を失うほどの強烈な睡魔に襲われる。何ページも十数ページも読み進めてきたのに、ふと気づくと、読んでいるつもりだったのが、いつの間にか夢の中に入り込んでいて、全く内容が記憶に残っていないことがたびたびあった。満員の中に立っていて眠ってしまい、膝がガクッと折れてストンと体が落ち、電車の床に尻を付けてはじめて気づくこともよくあった。9・11のワールド・トレード・センターがきれいに崩れ落ちて崩壊していく動画を見た時、電車の中で立ったまま眠ってしまってストンと坐り込んでしまう自分のようだと、真っ先に思ったものだった。