2014年1月31日金曜日

古代ギリシャ劇における悪趣味形態

  

 芸術においては、どの分野においてであれ、古典との継続性を匂わせる伝統的な趣きや上品さは、つねに特権的に扱われがちである。もちろん、既得権益者らのおずおずとした模倣的な借り物の美意識の器として、それらがこの上なく便利に使えるためであり、これは言うまでもなく人類史上の常識でもあるし、美意識上の根源的なブランド志向が人類には宿命化されているということでもある。寄らばブランドの蔭というのは、100パーセント、凡庸で愚鈍な連中がすることで、これには古今東西例外がない。ちょっと気のきいたフランスの上流階級の中年女には、わざとヴィトンの大トートを持ってジャガイモだの玉葱だのアーティチョークだのを買いに出る者もいる。もちろんヴィトンのバッグにじかに汚れものの野菜を入れてくるためで、ヴィトンなどにはそんな使い方こそ似合うと見せつけるためだ。ブランドものはつねに執拗に馬鹿にし、皮肉な態度で扱い、下に下にと落としこまねばならない。そうしないと図に乗って来るのである。どんなにみごとな技芸が織り込まれていようとも、たかだか工芸品や商品に生身の変転きわまりない人間の価値観が支配されてはいけない。その点、古寺よりも売春婦のほうこそが真の文化として尊重されるべきであると喝破した坂口安吾の価値観に、どこまでも沿っていくべきであろう。

 馬鹿な上品ぶった伝統主義者らと美について話す場合には、古代ギリシャ劇はなかなか格好のネタになる。能も歌舞伎もいいですし、もちろん、ラシーヌも素晴らしいですが、私の場合、古代ギリシャ劇が好きでしてね、と持ちかければ、日本のお上品馬鹿は、「古代」や「ギリシャ劇」という単語にポワ~ッとなって、たいして知りもしないあれこれの悲劇の名前を必死で挙げ、どれも深遠な人間の宿命を捉えていますなぁ、などと言いはじめる。
 ええ、個々の作品もさることながら、と私は話題を変え、それよりも私に興味深いのは、ギリシャ劇のあの上演形態なんですよ、と進める。ほら、古代ギリシャでは、悲劇を三本上演し、その後にサチュロス劇や喜劇を上演したでしょう。あれが素晴らしい、人間性をみごとに看破した形態だと思うんです…
 ははぁ、そうらしいですね、お能の上演と共通していますよね、とお上品馬鹿は返してくる。悲劇である能にくわえて、かならず狂言を上演するというやつですね、と。サチュロス劇などという古代演劇タームが、彼のお教養の急所にズバッと刺さって、教養話にしっかり馳せ参じなければ、と、まぁ、いい調子になってくる。
 もちろん、古代ギリシャ劇におけるサチュロス劇や喜劇は、お上品ぶるな方々にはなかなかの難物である。サチュロス劇は、ディオニソスの従者サチュロスふうの格好をした合唱隊が登場して、猥褻な話題やおちゃらかしを連発していく悲喜劇であり、喜劇のほうは、おならのジョークから始まり、糞便を投げあったり、勃起を見せあったり、巨乳の揉みしだきをしたりという、下ネタと徹底した悪趣味のオンパレードの場となる。これらが謹厳かつ悲壮きわまりない悲劇と同じ舞台に載るところに、私の言う「人間性をみごとに看破した形態」たるギリシャ劇の精神があったのである。
 こうした悪趣味大全の場は、はやくから「文化」を気取る連中によって苦々しく映っていたようで、文化の側に我こそありといった連中による抑圧は古代から行われた。演劇に関するアリストテレスの著作でも触れられておらず、ちゃんとした演劇としては早々に絶滅させられたらしい。
もちろん、絶滅されたかに見えた側は、「文化」の光の射し入らない場末で古代劇の伝統を守ろうとしっかり切磋琢磨しているものの、敵もさるもの、他方の「文化」の側は、なにかと形骸化した形式主義に走ろうとの熱い情熱を燃やし続けながら、既得権益大企業が出資する大劇場や、ことあるごとに巧妙に社会的落差や差別を発生させようと躍起の国家による国立劇場、あるいは文化的虚飾と粉飾の最大の推進場である大学などで、原発の御用学者たちさながらに大きな顔をし続けている。

そういえば、お上品馬鹿にむけては、古代ギリシャ劇だけでなく、シェイクスピアを差し向けるのもよいだろう。たとえば、『ロミオとジュリエット』の次のような場面。

サムソン (…)とにかく俺は暴れて見せる。ところで野郎どもの喧嘩がすみゃ、ついでに女もただではおかぬ、急所を一番、刺し貫いてくれるぞ。
グレゴリ 女の急所だと?
サムソン そうよ、女の急所、生娘のあそこ、――どうなと勝手におとりなさい、だ。
グレゴリ なるほど、ピリッと痛いなァ向う様だな。
サムソン 俺の抜身がおっ立つわけだ、ピリッと来るなァあたりめえだ。なにしろ俺のは相当の逸物だかあな。
グレゴリ まあ、魚でのうて幸せよ。魚じゃ、どうせまず塩ダラってところだろうからな。(…)

威勢のいい中野好夫訳だが、これでもシェイクスピア原文よりはまだ穏やかで、たとえば「急所」の原文はmaidenheadなので、もろに処女膜、処女性の意味だし、「相当の逸物」はa pretty piece of fleshで、大男の意味と相当に大きなpenisの意味がかけてある。
お上品馬鹿が、シェイクスピアも素晴らしいですな、と返してくれば(返してこないわけがない)、ここぞとばかり、シェイクスピア下ネタ大全を浴びせかけるのも、なかなか古典的な戯れなのではある。





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