2014年1月31日金曜日

ドラマテイック・シチュエーション





          Nul orietur.
           Arthur Rimbaud : L’éternité



 『トゥーランドット』の原作などを書いた18世紀のイタリアの劇作家カルロス・ゴッチは、物語の基本プロットは26通りあると言っており、ゲーテなどはそれほどはないという意見だったらしい。他方、ドラマティックなシチュエーションということになれば、20世紀初頭のフランスの作家ジョルジュ・ポルティは36通りあると言っている。彼の『36のドラマテイック・シチュエーション』*によれば、それらは次の通りである。
  
   哀願
   救助
3  復讐
4  近親者の復讐
5  逃走
6  苦難
7  残酷な、または不幸な渦に巻き込まれる
8   反抗
9  戦い
10 誘惑
11 不審な人物、あるいは問題
12 目標への努力
13 近親の憎悪
14 近親間の争い
15 姦通から生じた惨劇
16 精神錯乱
17 運命的な手ぬかり
18 知らずに犯す愛欲の罪
19 知らずに犯す近親の殺傷
20 理想のための自己犠牲
21 近親者のための自己犠牲
22 情熱のための犠牲
23 愛するものを犠牲にしてしまう
24 三角関係
25 姦通
26 不倫な恋愛関係
27 愛する者の不名誉の発見
28 愛人との間に横たわる障害
29 敵を愛する場合
30 大望
31 神に背く争い
32 誤った嫉妬
33 誤った判断
34 悔恨
35 失われたものの探索と発見
36 愛するものの喪失

 いかにもシステマティックな分類の好きなフランスふうの数え上げだが、こんなふうにはっきりと分類され命名されてしまってみると、物語やドラマの好きな人は心中穏やかならざるものを感じるかもしれない。まるで、長くもない修辞の付いた数のかぎられた名詞で人間の運命の全要素を数え上げてあるタロット占いの教習本のようで、物語やドラマが盛り込みうる劇的状況にはこれら以上の可能性は一切ないのだと枠づけされてしまっている印象がある。

 しかし、この36の分類には、じつはさらに絶望的な意味あいが加わり得る。ドラマ性のある創作物のすべてがこれらの要素のみで作られるということは、読み手や観客、鑑賞者、享受者、消費者である人間たちにとって、結局、これらの要素だけしか「劇的」なるものとして感得され得ないのだということを示しており、「劇的」なるものへの感受性における人間の限界がこれらの36の要素によってくっきりと浮き彫りにされていることになるからだ。
 いや、自分はこれら以外にもドラマティック・シチュエーションを挙げることができる、感得することができる、と主張し実践したとしても、他のほとんどの人間たちがそれに共鳴してくれないならば、制作者-享受者の相互的な関係は形成されず、維持もされず、遅かれ早かれ、忘却されていくばかりとなる。

 絶望の度合いは、これに留まらない。さらに言えば、あらゆる点でドラマティックなものを追求するべく運命づけられている人間精神の内実は、ようするに、これら36の要素が描く円陣の外に踏み出ることができないのであり、そういう精神が織り成すところの人間社会、通時的であれ時系列的であれ、人間の活動のすべてが、つまりはこれらの組み合わせに過ぎない、ということにもなるからである。長短、波乱平穏とりまぜて、いかような人生を生きたとしても、それを満たす経験のうち、忘れがたい特筆すべきようなものとしては、これら36の要素の範囲を超えることはないのである。
 
 いや、ドラマティックでない、静かな、なんら特別なところのないような生はありうるし、そうした生の深みというものがありうる、と言われるだろうか。
 たしかにありうる。しかし、そうした生は、劇的なるものへの根深い志向性に汚された人間社会によっては、いつになっても真っ当に評価されないであろうし、正しく記録されたり尊いものとして記憶されることもないだろう。人間社会は、そうした生に「平凡な」とか、「なんら特別なことのない」とか、「格別の面白味もない」といった形容辞を振り分け、ドラマティック・シチュエーションに恵まれたり翻弄されたりした生をあくまで特権化し続け、語られるべきものとして称揚し続ける。そうして、いかにも知恵深い賢明なしぐさででもあるかのように、たくみに平凡で平穏な生を脇役へと退けながら、「幸福な家族はみな似通っているが、不幸な家族にはそれぞれの不幸というものがある」**などと小説を開始したりし続けていくことだろう。
 
こういうものでしかない人間精神に、また、その具現化でしかありえない人間社会に、どこまでつき合い、どこで離れるか。やはり、究極の問題はこんなかたちで現われて来ざるをえないはずであるが、もちろん、人間性の底の底までを侵食し尽くしているドラマティック・シチュエーションの呪縛は、われわれがこんな思いを抱くやいなや、すぐさま「逃走」や「反抗」や「大望」にわれわれを分類し整理し去ろうとするだろうし、場合によっては「精神錯乱」をも適用してこようとするだろう。こんな「残酷な、または不幸な渦に巻き込まれる」状況を、かりに幸いにもうまくすり抜け、包囲網の外に逃げおおせたかに見えようとも、待っているのは「失われたものの探索と発見」であったり「救助」であったりするのだろうし、そこまでの全過程は「目標への努力」としてまとめられてしまうことだろう。
ドラマティック・シチュエーションの呪縛とはこれほどまでのものであり、われわれの思考のすべて、判断のすべてに到るまでが侵食されつくしているのである。



*Georges Polti : Les Trente-six situations dramatiques (1912)
**トルストイ『アンナ・カレーニナ』




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