2014年1月31日金曜日

ライ麦パンや全粒粉パンの“bento”




 ほぼ毎日、近所で買ったパンでサンドイッチをじぶんで作って勤めに持って出る。この数年のあいだにロールパンを使うことが多くなり、裕福な生活でもないから、ひと昼分で100円そこそこに抑えようとも思って、ヤマザキの安物パンをあれこれ買ってしまうことも多くなっていた。ヤマザキのパンに多量の添加物が入っているのは、ヘルシー志向の人びとのあいだでは有名なことだし*そうでなくとも使用材料表示を見れば、小麦粉の次に糖類が来るようなニセモノのパンであることは明瞭なので、わが食生活も地に落ちたものと鬱々たる思いが続いていた。
 先日、新宿駅の地下の神戸屋で夕方の割引きセールに出会った。半額や20%引き30%引きが並んでいて、半分に切った大きな全粒粉パンも安くなっていたのでひさしぶりに購入した。このところ、あまりに添加物の多いパンはなるたけ避けようと思っていて、ランチ用のサンドイッチを作るにもフランスパンのバゲットを使ったりするようになっていたので、ちょうどよかった。バゲットだと、このパンの特性を保つために、ヤマザキのものでさえ乳化剤程度しか危険物が混ぜられていない。乳化剤でもよくないのだし、そもそもバゲットに乳化剤を入れるというのはどういう考えかと思わされるが、これが現代の日本のパン事情ではある。いいパンを買いたくても、忙しい生活の続く日々、近所に店がなければどうにもならないということも、このパン事情には含まれる。(ちなみに、同じようにスーパーで入手しやすくなってきた神戸屋のバゲットの場合は、乳化剤・イーストフード無添加となっている)。

 うちでさっそく食べてみて、ひさしぶりの全粒粉パンはおいしかった。神戸屋のものとて、自主基準の厳しい自然食パンと比べれば原料の点ではいい加減なのはわかっているが、ヤマザキのあれこれと比べれば格段の差がある。少しモサモサした食感は全粒粉パンやふすまパン特有のもので、かつてこういったパンしか食べていなかった頃のことがいっぺんに甦って、懐かしかった。30年前や20年前、米というものを一切食べず、洋食も含めてほとんど日本ふうの食事というものを断ち、完全にマクロビオティックの菜食生活をしていた頃、パンはナチュラルハウスで買ったルヴァンのパンや他の自然食店で買ったライ麦パンやパン・コンプレ(全粒粉パン)、時にはそれらにクルミやヒマワリの種や五穀などを混ぜたものだけと決まっていた。あの頃のことが、全粒粉パンのモサモサした食感から立ち上ったのである。
 1983年の夏、家出をした20代はじめの私は、世田谷でフランス人女性との生活に入った。彼女は徹底した自然食主義者だったので、その生活様式に合わせることにしたのである。住まいは駒場東大のわきの池ノ上にあった。下北沢が近かったので、そこの線路づたいにあったナチュラルハウスでたいていパンは買った。10センチ幅ほどのライ麦パンの塊はずっしり重く、だいたい350円ほどだったように思う。ふたりでそれを一日にひと塊りは食べてしまうし、私のランチ用にもそのパンでサンドイッチを作ったので、だいたい日にふたつほど塊が要る。毎日買いに行く時間もないので、まとめていくつも買っておくこともある。夏の炎暑のさなか、買ったそれらに他の買い物をあわせて家までの20分ほどを帰ってくるのは、なかなか辛かった。井の頭線で下北沢から池ノ上まで乗ってくる手もあるが、豪雨の時などを除けば、ふだんは歩いた。
 ランチには、ライ麦パンだけでなく、パン・コンプレなども混ぜる。これは下北沢にあったサン=ジェルマンのものがよかったので、よくそれを買って帰った。ランチの分量は、だいたい、ライ麦のサンドイッチがふたつ、パン・コンプレのものがふたつか三つという具合だった。私たちはそれをランチとは言わず、ふつうに「弁当」と呼んでいた。フランス人の彼女は日本語ができたとはいえ、母音をのばして発音するのが苦手なフランス人のならいとして、「ベント」と呼んでいた。ベントは、毎日、彼女が作ってくれる。私がじぶんのベントを作ったことはなかった。そこらのスーパーで売っているプロセスチーズやスライスチーズなどは使わずに、フランス製のカマンベールやブリーやコンテや、その他いろいろのチーズを2,3ミリほどに切って中に入れ、やはり無農薬、無添加のフランス製やイギリス製のジャムをつけ、時にソビエト製の、安いがとても旨い蜂蜜をつけたり、ニュージーランドやオーストラリアの濃度の高い蜂蜜をつけたりして挟む。これらをビニール袋に入れて封をし、その上からさらに小さめのスーパーの紙袋に入れて輪ゴムで止めてくれた。
 私たちは1998年に、双方の活動の便を求めてべつに住むようになり、彼女のこうした毎日の“ベント”づくりも終わったが、それまでの1617年ほどはずっとこうした“ベント”ランチが続いていた。その後も彼女は、数分ほど離れた近隣に住む私にたびたびパンを買って持ってきたので、私が今の妻と住むようになった2002623日までは、パンについては彼女の庇護下ないしは指導下にあったようなものだった。

 勤め先では、私の“ベント”は注目の的だった。近所のラーメンの出前をとったり、食べに出たり、食パンのサンドイッチを買ってきたりという人たちの間で、私ひとりがいつもライ麦パンや全粒粉パンなのだから、どうしても人目を惹く。そんなパンを持ってくるわけを話せば、フランス人との生活を話すことになるのだから、なにかと話題にもなる。しかも、ネクタイ着用、ジーンズ御法度という職場ながら、ふつうのサラリーマンのような白ワイシャツにスーツなど絶対に着なかったので、外見もどうしても注目を浴びた。
 私がいつも着ていたのは、カーキ色のシャツだったり、スコットランドから持ってきたようなチェック柄のグリーン、イエロー、ピンクなどの地色の厚手のシャツだったりした。白シャツを来たことはなかったし、ましてや普通のビジネスシャツなど買ったこともなかった。ジャケットには冬ならカラシ色やベージュやこげ茶色のコールテン、夏場なら麻のベージュ色などで、髪の毛は肩までかかる長髪で、耳はいつも隠れているか、ちょっと覗いているぐらいだった。ネクタイは職場に着いてからつけるのがつねだったが、ウールの棒タイや、細身の黒や茶の単色のものなどが多かった。不動産屋がぶらぶらさせているような太いブランド物などは、品がなくオヤジ臭いということで論外だった。
 こうした服装は、彼女の好みにかろうじて合ったもので、彼女は日本は好きだったが、日本人の洋装姿は端から馬鹿にしていたし、男性の装い以上に日本の中年女性のスーツ姿の滑稽さと醜さを馬鹿にしていた。日本人には、着物とまではいわずとも、もっと似合う服装があるのに、どうして欧米のサルまねの服装をしているのかと言っていた。私がスーツを着るなど、もちろん許容するはずもなかったのだ。
 
 1988年に私は大学院に入り、この世で最も嫌いな場所のひとつである大学空間に戻ったのだが、それまでの6年間というもの、職場での希薄な人間関係をのぞけば、私は日本人の交友相手を新たには一切作らず、フランス人をはじめとする欧米人だけとしか付き合わなかった。年によって違いはあったが、一年のうちの半分半分を日本とフランスで暮らし、むこうのフランス人のあちこちの家でのんびりとフランスふうに時間を送ったり、フランスじゅうのなるべくたくさんの教会や聖地を訪ねて廻ったりした。手のつけられないほどの日本嫌いだった私には、この暮らし方は悪くなかった。
 大学院に入ってからも、この嫌日本生活はなおも10年ほどは続くことになる。日本的なるものへの定着や定住を嫌い、浮草であることを旨とする精神はいまだに変わらないどころか、潜行しつゝいっそう激越になっているが、年の功というのは恐ろしいもので、平然と右翼ふうを装った言辞を弄することもあれば、舌の根の乾かぬうちにジャコバン派に戻ったり、やや穏当さを装ってジロンド派を気取るという芸当もできるようになった。社会だのこの世だのは、ようするにどうでもよいのだと学んだのである。

 フランス人の伴侶は2010年に死んだので、今となっては“bento”にまつわるすべてが終わり、細々とした瑣事のすべてが消滅し去っている。そうなってみると、あの“bentoを彼女が最後に作ってくれたのはいつ頃だっただろうか、といった小さなことも、逆につよい関心事となって思い出されてくるが、これがどうにもはっきりとしない。大学院に入ってからは学食の貧相な食事をとって済ますことも多くなり、「あんなものでは身体を壊すから…」と彼女は“bento”を持たそうとしてくれたが、日頃の無添加・自然食生活に慣れ過ぎた私には、学食のあのジャンクフードもちょっと楽しいところがあって、拒むことが増えた。作ってくれたり、拒んだりというのをくり返すうちに、どこかの時点で次第に“bento”の習慣は消えていったものと思う。

 ただ、“bento”にまつわる本当に最後の思い出は、はっきり覚えている。それは私のためではなく、彼女自身のための“bento”で、その頃住んでいた世田谷の代田からそう遠くない松陰神社や上町の代官屋敷、馬事公苑などのほうへいっしょに散策に出た時のことだった。ごく近隣どうしとはいえ私たちはすでに別居していて、その日、私は彼女の家まで出向いて、合流してから出かけた。2001831日の、暑過ぎず、天気のよい午後のことだった。
 途中のコンビニのごみ箱に、彼女は家から持ってきた小さなごみの包みを捨てたが、その後でどこかのベンチに座って、いざ“bentoにしようとなった時、リュックサックから出てきたのは小さなごみの包みだった。同じような包み方をしていた“bentoのほうを捨ててしまっていたのだ。
 輪ゴムで止められていたスーパーの小ぶりの紙袋の中からポリ袋が取り出されると、そこに小量の生ごみが入っているのがわかった。
「まったく…、なにをやってるの…」と彼女に言いながら、18このかた一度も変わることのなかった彼女の“bentoの包み方が、そのままそこにあるのを見た。「弁当とおなじ包み方をしてるんだもの、これじゃ、間違うよ」と、慰めとも批難ともつかぬ言葉を続けながら、あんなにも長かった私たちの“bento”の時代が、すでにもうすっかり終わってしまっていて、二度とくり返されることもないだろうことを、私はそのとき、はっきりと確かめていた。



(注)
*「添加物は品質を向上させるために使用するもの」という社是を持つヤマザキのパンには、世界中で使用が禁止されている食品添加物の臭素酸カリウムが使われている。日本では残留が確認されないことを条件に食パンへの使用が認められているが、国際的にも国内的にもこの物質の発がん性は認定済みで、日本でも食パン以外への使用は禁止されている。
臭素酸カリウムはパーマ液の2剤に使用される物質で、1剤でタンパク質の分子結合を切り、2剤で再結合させて髪に形をつけるが、同様のことをパンで行い、少量の小麦粉をふくらませて、パーマのように食パンの形を保つのだという。ヤマザキの食パンの柔らかさは、パーマ液の効果ということになる。 
 臭素酸カリウムは食パンを焼くときの加熱で分解され、臭化カリウムになるが、これはイヌへの抗てんかん薬として使われている。ネコに用いれば死んでしまうという。微量なら人体へのリスクはないが、摂取を重ねてこれを蓄積した場合には問題が生じ得る。
もともとヤマザキは「無添加でいいもの作れるはずないだろ!」と社長がカツを入れるような会社で、「機械で作るのに向かせたり、製品の老化(ぱさつき)を抑えるために添加物を入れる。たとえば、ダメージに弱い生地を強くするために、乳化剤を入れる。ガンガン入れるから、自然食志向の人はやっていけません」という社員の話も洩れ聞こえている。
ちなみに、ベーカリーカフェのVIE DE FRANCEはヤマザキの子会社が運営している。どうりで…の味と食感ではないか。
パンにかぎらず、なにを買っても食品添加物ばかりという時代だから、いまさら驚いてもいられないとはいえ、西日本新聞社のブックレット「食卓の向こう側」には、福岡県内の養豚農家でコンビニの弁当やおにぎりを母豚に毎日3ロずつ与えた事例が紹介されている。
豚の妊娠期間である114日後のお産で、死産が相次いだというもので、生まれた子豚も奇形や虚弱体質ですぐに死に、透明であるはずの羊水はコーヒー色に濁っていた。
回収業者が持ち込んだ期限切れのコンビニ食を与えたものだが、腐ってはおらず、農家の主が「ちょっとつまもうか」と思える品だったという。「公表するとパニックになる」として、西日本新聞社はコンビニ名の報道を控えた。





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