2014年1月31日金曜日

文身(いれずみ)について



 人類学では、いれずみに「刺青」よりは「文身」の表記を当てるらしい。個人的にはあまり興味を持たないまゝ今に到り、実社会で流行っていると聞いてもピンと来ない。温泉に行ったりして、「刺青の方お断り」とあるのを見る時など、そんなものかと思う程度だ。現代日本におけるいれずみが、「文身」でなく「刺青」でしかないところから来る反応といえる。

 しかし、東南アジアの部族にあっては、文身をちゃんとしたかどうかは、死後の成仏に大きく関わってくる。
 インドネシアのボルネオには、マハカム河畔にクレマンタン諸族が暮らしているが、彼らは生きているあいだに文身を施さないと、死者の国への旅路は容易ならぬことになる。なかでも、ロング・グラッド族の女などは、八歳から指の裏に文身を始め、月経の始まる頃には指の分身を完了している必要がある。さらに手の裏から手首とひろげていくが、足にも同時に施していく。十八歳から二十歳には腿の前部にかかる。腿の後部は急がなくてもいいらしいが、これが他の部族カヤン族となると、女は子供を生む前に腿の文身を終えていなければならない。
 文身をしてもらっている時期のロング・カヤット族の女は、文身師のために、毎日、黒い鶏を一羽ずつ殺さなければならないともいうから、なかなかの物入りである。こんなにまでして、どうして文身をするのかというと、死後の振る舞いが大きく制限されることになるためだ。
 テラン・ジュランという河が、彼らの死後の世界にはある。文身を完了した者はその河で水浴でき、河底から真珠を拾うことができる。しかし、文身が未完成の者は、川岸に立っていなければならない。文身のない者ともなれば、岸に近づくことも許されない。
 文身を施した者だけが死者の国にすみやかに入っていくことができるという考え方は、マハカム河の諸部族だけでなく、東南アジアではかなり広く分布しているという。民族学者、文化人類学者の大林太良によれば、ミクロネシアのギリバート諸島でも、北海道のアイヌや琉球列島、中部インド、メラネシアでも見られるらしい*

 文身は、ともすれば装飾行為として捉えられやすいが、文化人類学ではこれを身体毀損の一種として扱う。学問の面白さは、こうした意外な捉え方を持ってきて、一気に思索の射程を拡張したり転換したりするところにある。こうした観点変更のおかげで、文化人類学は、東南アジアから太平洋にかけて分布しているオーストロネシア語族が、なんらかの身体毀損の風習を守った者のみが死者の国に入れるという考え方を共通して保持しているという発見に到った。文身はもちろんだが、耳朶に穴を開けた者のみが死者の国に行けるとか、鼻に穴を開けた者のみがとか、いろいろな身体毀損の風習が各地で推奨されているのがわかった。
 ドイツの民族学者レオ・フロベニウスは、こうした身体毀損は部族の標識となるものであり、同じ部族しか受け入れられない死者の国へは、この標識を持たない者は入れないと考えた。したがって、生前に標識をつけるべく、しかるべき身体毀損を行っておく必要があるというのである。
 大林太良は、しかし、フロベニウスを批判している。同じ部族に属するというだけでは足りないので、部族の中でも、一定の人生段階から次の段階へと通過儀礼を済ませた者のみが死者の国への入国許可を得られるのではないのか、というのだ。
 大林のこの考えは、文身がふつう、男女の成熟祝いとして行われるという事実にもとづいている。子供の段階を終えた者にのみ文身などの身体毀損は施されるのであり、これは通過儀礼を経たことを証明する標識でもある。こうした標識を持った者だけが死者の国に入るのを許可されるというのは、つまりは、生前に一定段階以上の社会的地位を得、しかるべき役割を果たした者のみが許可されるということであり、此岸の社会でのありようがそのまま死後のありようを決定していく、ということにもなっていく。
 この方向で試論していけば、文身は、社会的分化と身分分化をすでに備えた社会でなければ維持されない、ということにもなろうか。

これがさらに進んで、確固とした身分制度ができあがった社会では、文身はどうなっていくのか。
むしろ影をひそめていくかに思われるのだが、そうした社会の構成員たちは、文身とは違ったべつの標識を身に帯びるようになっていくと考えるべきように感じる。
 だとすれば、現代日本で、いれずみが「文身」でなく「刺青」でしかなくなっているという現状は、文身を充たしていた機能自体が、べつのものによって置き換えられ終えていることを如実に示していると見てよいかもしれない。置き換えられた先は服飾全般であるかもしれず、宝飾品であるかもしれない。車、住居、会員制クラブや、家系、婚姻関係、クレジットカードのグレードなどであるかもしれないが、もっとも顕著なのは、数字の桁数で示される預金残高かもしれない。
もちろん、当局によって把握されうるような預金残高などでなく、どこからも不可視の財こそが至上の究極の文身となるであろうことは想像に難くない。とすれば、この列島族のうちの最高位の人間は、なんら標識めいたものを身につけずに、無個性に、飄々と街を歩きまわっていくはずであろう。



*大林太良『葬制の起源』(角川書店1977、および、中公文庫1997)による。



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