ひさしぶりに法隆寺の百済観音を見て、しばらくなんの感動もなく立っていた。
十年ほど前、何度も足を運んだ時に眺め過ぎたのか、記憶を確かめるように、幾多の災害を経て肌の焼け落ちたような顔や、あの薄い胸や、手から指の一本一本への流れのぐあいなどを見る。新たな発見はまったくなかった。
つまらないわけはない。おおげさな言い方になろうが、音もなく消滅していくような死を決意するべく、奈良や飛鳥に通っていた時期があった。百済観音堂には、それが薄明かりのように消えないでいる。十年前、正面の壁のあたりで、あるいは像の左側のあたりで、訪れるたび、一時間余りも眺めていた。そういう自分の様が見えるし、その頃の時間が去らないでいる。あれから物事がどう動いたか、自分の心や思いがどう流れたか、観音像を見ることはそれらを辿ることでもある。自分にむかって立ち続け、見つめ続ける、それはいくらでもできそうだった。
感動というのではないが、しだいに、感触が来ていた。見ている、百済観音像がある、直面しており、他の時でなく、思い出しているのでなく、今にいる、今なのだ、という感触。見続け、十年前をやがて思いもせず、ものの移り行きなども追わず、ときどき場所を換え、姿勢を変え、戻り、傾き、立ち続けで、見ている。
なんという無表情だろう、と思う。
この観音に、かつてはいろいろな思いを醸成されたというのに、どうしたことか、あれほど豊かに多様なことを語りかけてきていたのが、いま、なにも言っていない。こちらの些細な思念の末節まで吸い出すように、無主張ばかりがある。
おそらく、幾らか、それにたじろぐようだったのだろう、それにしても、人は主張しすぎる、などと思った。つまらない思いだ。つまらないか。つまらないだろうか。みな、くだらぬことを見せつけて生きている。自分はあれだ、これだ、何々を持っている、こんな能力がある、そう示して安心を得ようとするのか、うるさいだけだ。この観音の顔から読むべきもの、ひいては仏教から学ぶべきもの、諸説うるさくいろいろと言うが、主張するな、生きていけ、死ね、というに尽きるのではないか。
ドゥルーズとガタリの『哲学とはなにか』の一節を思い出した。
哲学者は話し合いも議論も好まない。ちょっと話し合おうではないか、などと聞けば、哲学者ならみな逃げ出す。話し合いは仕事を進めはしない、みんな同じふうに話さないからだ。だれかがこんな意見を持っている、ああではなく、こう考えている、そんなことが哲学にとってなんだというのか、直面している問題が語られていないというのに。しかも、問題が語られる時、すでに議論などはどうでもよい、その問題のための文句ない概念を作ることが重要になるのだ。コミュニケーションは、いつも早過ぎるか、遅過ぎる。会話はいつも過多だ、創造ということに照らした場合。……
読書の思い出というのは、遠い昔に吹かれた気のする風のようだ。なにかを読んだとはどういうことだろう。永遠に離れることのできないうるわしい未解決が、吉野の遠山から空に流れていく桜花のように心に漂っている。自分はどこまで来たか、という問いはむなしい。自分なるものほど無数の断絶からなる風景はないからだ。こちらの自分のとりまとめを、世間というものは無理に迫る。しかし、とりまとめようもないのが自分ではないか。反省だの、自己紹介だの、プレゼンだのと、愚かなことだ。そんなことができないところにこそ自分はある。自分はいつもいちばん遠い。言及不能性こそが自分というもので、他に自分などというものはない。
百済観音堂の中にひとりで立ち続けていて、いつまでいるか、いつまでいようか、と思う。いつまでもいることが大事なのではなく、そう思いながら、時間と場所、自分、からだというもののありようの共時をどう受け止めようか、おそらく、そんなことを迷っているのだ。さまざまなものを巻き込んで廻る渦、それをそのままにしておくことを迷うという。迷いだけがいつも答えなのだ。
もう行こうと思う、行く。遠い自分が下す、不可思議な決断。わたしとはだれか。笑うべき問いだろうか。どうして、いつもこんな問いが浮かぶのか、百済観音をふたたび後にする、こんな時にさえも。結局、自分はなにもわかっていない、わからない、そう結論するのはいかにも賢そうだし、謙虚にも見えるが、誤っている。問いの浮かぶところに、問いとともにあるべきだ。もし自我というものがあるのなら、それは問いだろう。問い、迷い、言及不能性という自分。意識と非意識の宇宙のひろがりのなかで、かりにも中心の役を担ってくれるものは他にはない。
百済観音の安置されている部屋は、多くの仏像が陳列されているべつの部屋に続いていく。そちらへ向かうところで、もう一度、観音の顔をふり返る。Un visage semblable à tous les visages oubliés*.忘れられたすべての顔に似た、ひとつの顔。ポール・エリュアールのそんな詩句が浮かぶ。百済観音の顔がそんな顔だと、安易な結句をつけたいのではない。エリュアールの詩句が浮かび、自分はなにかを見ようとここを再訪したのかと思い、前世のような十年前を思い、十年の時間やものの流れを肌に感じる、それだけだ。
今日は、他の仏像を見ずに退出することにしよう。観音堂を出てしばらく行くと、見事だがあっけらかんとした姿の大きな松があり、べた塗りされたような緑の松葉をつけている。日本の景物には、なぜつまらない松が多いのかと昔はよく思った。つまらないのではない、よけいな思いを洗うためにそれらは配されている、そう思うようになったのはいつからか。祭りのふんどし姿の男たちの尻、風呂屋の富士山の絵。それらは、現代に蔓延する無用の感受性を洗うという点で一致している。主張するな、生きていけ、死ね。どれもが、じつは、明瞭にこう示しているのではないか。
法隆寺を出て、洒落っ気のない蕎麦屋にでも入ろうか。安普請のアルミサッシの扉を開けて、木目に汚れのつまったベニヤ椅子か、ビニール椅子にでも座って。
二〇〇〇年に『アナタノ ナクサレタ ムスコサン ダレ? ダレノコトデスカ?』**という詩を書いた。法隆寺にバスで来て、その車中、途中から乗り込んできた背の高い、象のように皺だらけの長い顔の老婆に席を譲ろうとし、断られたことがあった。立とうとする肩を、老婆の手で押しとどめられた。その際のことを、ありのままに書いた。フィクションではない。死んだ息子の墓に供えるのだと、花を持っていた。息子は八〇歳で亡くなったと言い、「まだ若いのに…」と嘆いた。老婆は、少なくとも九〇いくつ、百歳以上にも達していたのかもしれない。親よりも早く死んで、本当に親不孝者、あなたも元気でね、ずっとね、若くて死んではいけないよ、と言われた。老婆は、法隆寺の横の寺に向かい、こちらは法隆寺に入った。百済観音を見た時、ああ、あのおばあさん、と思った。もちろん、似ているところがあるという程度だったに違いない。しかし、死ぬつもりだった。老婆と観音のかすかな類似も、心に響いた。
忘れられたすべての顔に似た、ひとつの顔。そういう顔もあってよい。仏像の顔とは、そういうものだろう。その顔があり続けることによって、消えていったすべての顔が忘れられずにある。だから百済観音を再訪した、というわけではない。しかし、百済観音がそんな顔を持っている、それはそれでよかった。
あの時の老婆の年齢を思えば、今も元気で息子の墓参りをしているとは考えづらい。しかし、それがなんだろう。あなたも元気でね、ずっとね、若くて死んではいけないよ、と言われた。この言葉がそのまま残っている。いつか、あの老婆のように、象のように皺だらけの顔を持つに至った時、あなたも元気でね、ずっとね、若くて死んではいけないよ、と、自分より若いだれかに言う。かならず、言う。生き続ける意義はある。ただこれだけを言うためでも。他のことはなにもできなかった。あなたも元気でね、ずっとね、若くて死んではいけないよ。これだけはできる。これだけは伝える。
*Paul Eluard : Belle et ressemblante in LaVie immédiate(1932)
**『アナタノ ナクサレタ ムスコサン ダレ? ダレノコトデスカ?』(駿河昌樹詩葉『ぽ』2号、二〇〇〇年四月)
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