土屋文明の歌には長いこと関心がなかった。つまらないものの極北に位置する歌のように捉えていたきらいがある。
細より尾根を横行き冬野の道教へし娘を上村老人覚えてゐる(「続青南集」)
知事筆を揮ひて家持の歌碑を立てり泥を飛ばしてトラック往反す
巣のはたに羽根試みる燕の子別れををしむは人間の我が妻(「自流泉」)
文明の名を隠して歌人たちに見せれば、きっと拙い歌と判定されよう。心の動きに通じる表現がなく、歌のありようはごつごつとして美しくない。言葉の選択にも、繋げ具合にも工夫の余地がいくらもありそうだ。
しかし、久しぶりに多くの近現代短歌を集中して読むうち、さすがに食傷ぎみになったところで新鮮に感じられたのは、なによりも土屋文明のこうした短歌だった。
故郷や歌仲間を訪ねての旅行詠が多いので、おのずと挨拶を兼ねた歌となることが多いうえ、地名や地方独特のものの名も頻繁に詠み込まれる。多くの歌人ならば、第三者である読み手がわかりやすいようにと最低限の配慮をして、作歌に到った状況が理解しやすいような角度をつけるとか、なにかしら説明の役割をするような工夫を加えるとか、固有名詞を使い過ぎないといった措置を施す。文明は違う。彼の作歌の場面に立ち会ったのでない限り、なかなかわかりづらいような情景の切り取り方で、ぶっきらぼうに歌い始め、歌い終える。読み手の多くは、うんざりするほど短歌の韻律に浸っているだろうから、自分の歌でまで、わかりきった韻律を今さらながらご丁寧に踏襲するまでもあるまい、といった趣でもある。言葉の生硬さはそのまま、仮名のやわらかさを生かそうなどといった配慮もなく、思いついた言葉をそのまま並べて、よりよい用語選択をしようなどという気も感じさせない。
もちろん、文明がこのように考えて作歌したかはわからないが、作品からはそう見える。繊細な言葉づかいを旨として、微妙な幽玄の世界を紡ぎ出す歌人たちとは、あきらかに違う場所にいる。
こうした文明の作風は、短歌の魅力に惹かれ始めた若者や、いわゆるポエジーを求めて詩歌に接する人々にとって、そうわかりやすいものとは言えまい。詩や歌を求めずに短歌形式を履行し続けるというところに、文明の真骨頂はある。だいたい三十一音程度の容量に収めるべく、漢字や仮名を並べていけば、短歌の姿などできる。それでよかろう。五七五七七の韻律にしても、どの読み手の意識の中にも深い澱を成していて、ふつふつと醗酵しているはずなのだから、新たに作られていく文明の短歌がわざわざ律儀にそれを纏い続ける必要はない。そのうえ、どのような言葉であれ、言葉はすべて、そもそも架空の器、絵空事、この世ならぬ何ものかではないか。それで十分ではないか。というより、それだからこそ、そこからいかに詩や歌を排除するかが重要となる。もともと詩歌そのものである言葉を、言葉ならぬ次元での生存を強いられている我々のものに、いかに堕とすか、いかに鍛えるか。言葉ばかりではない。思いや感慨というものも、もし注意しなければ、いかに安易に詩や歌に流れやすいか。言葉も思念も、けっして甘えさせてはならぬ理由は、たしかに存在するのである。詩歌に対する根本的な疑いという点で、明治二十三年に生まれて東京帝大の哲学科心理学専攻を卒えた土屋文明と、明治三十二年生まれのフランシス・ポンジュの戦前戦後の歩みとに、大枠での類縁性を感じてしまうのは誤りだろうか。
立ちかへり立ちかへりつつ恋ふれども見はてぬ大和大和しこほし(「続青南集」)
老あはれ若きもあはれあはれあはれ言葉のみこそ残りたりけれ
富の小川佐保川に合ふところみゆ二川静かに霧の中に合ふ
年々に若葉にあそぶ日のありてその年々の藤なみの花
望の夜の月はいでむと水の音の静けき山の下をてらしぬ (「自流泉」)
ゆふがほの葉下にのびて覚束な豆の花には露のしたたる
もちろん、『アララギ』の最後の巨人として、こうした歌も交じる。万葉の音韻に連なる大きな息吹に、子規の新鮮さも流れ込んで、心地よいいい歌である。初期より文明に顕著な、詩歌ではどうにもならぬ生活や人生の困難や不如意への視点を芯とした次のような歌にも、多く、よいものがある。
貧と窮と分ち読むべく悟り得しも乏しき我が一生なりしため(「自流泉」)
消極に消極になるを貧の慣はしと卑しみながら命すぎむとす(「青南集」)
人を悪み人をしりぞけし来し方もおぼろになればまぬがるるらむ
続き来る集り来る不仕合の中に立つを見て居るのみの我等なりけり
農に堪へぬからだなりしを長らへて伝へ聞く農の友多く亡し
ふらふらと出でて来りし一生にてふらふらと帰りたくなることあり
生みし母もはぐくみし伯母も賢からず我が一生恋ふる愚かな二人
母に打たるる幼き我を抱へ逃げし祖母も賢きにはあらざりき
乳足らぬ母に生れて祖母の作る糊に育ちき乏しおろかし
寺を出でて冬の日しづかに歩みゆく妬みも無けむ生きてゐることは(「続青南集」)
文明はたびたび山上憶良に立ち返って歌っており、憶良の思想や態度に多大の共感を抱いていた。貧しく弱い立場の者たちの実生活を思う憶良の心に、わが身を以て同調していく姿勢が見える。自らも豊かでなかったように歌っているが、帝大を出て教職にあった文明が貧窮者そのものであったわけもなく、あくまで官人であった憶良と、その点でもいくらかは重なるものがあったかもしれない。ともあれ、あくまで貧の側に身を寄せつつ作られるこうした歌に、ひとりの歌人としての文明の特徴があるのは論を待たない。
しかしながら、ここまでの歌風ならば、土屋文明はふつうの歌人に留まる。まるで、無頓着な〝踏みはずし〟(モーリス・ブランショの評論集の題名を思い出しつつ、発語しておきたいような気もする)を重ねていくように、独特の表現上の手触りを求めつつ、あるいは、あれやこれの、詩歌らしいなにものかの手触りを微細に避けつつ、この二十一世紀の言語表現に荒れ野を指し示すがごとき先達として、彼はこのように化粧直しをして立ち現れるのである。
国ノ守山上ノ憶良綿すくなき衾思ほゆ時すぎし海水の宿 (「青南集」)
テグスに代るナイロンも上等は惜しむといふ茜さす夕凪の海に向ひて
葵藿の葵ははたしてフユアフヒなりや否や苗を収めて来む春に見む
葵藿の葵をヒマハリとする博士等がまだ絶えないのも仕方がない
船ゆかずなりたる水は竪川も横川もなべて浮く木の溜め場
この河岸に力つくしてあげし飼料或る時は藁在る時は甘藷澱粉糟
木綿織らずなりし真岡の町出でて田圃道には箕直しが歩いてゐる
過ぎし人々いかにか山の湖に上り来し別して明治四十二年左千夫先生(「続青南集」)
下り立ちて川見る時に嫗来て橋の上よりごみを投げ込む
時雨来む七尾の海に能登島に乗らむ船待つ牛乳を飲みて
病なく灯炉に臭き患ひなくうつらうつらに椅子にまどろむ
原爆をまぬがれし与茂平亡きことも赤電話して知る関係なき菓子店に
「原爆」の語を用いた詩文に、しかもこの短さで、これほど想像だにしない世界へと突きやられたことは、私にはない。「与茂平」や「赤電話」と付き合わされては、「原爆」にとっても意想外の迷惑だっただろう。しかも、「関係なき菓子店」に到っては、「原爆」にまったく呑み込まれてしまわない、強烈な事態の出現が起こったというべきである。原爆を「まぬがれし」与茂平なのに、その彼が「亡きこと」、そのこと「も」、という連なりの憎いまでのひねり具合が、したたかなどというのでは足りない土屋文明の歌境を滲み出させる。続く「赤電話して知る関係なき菓子店に」という下の句には、たゞたゞ馬鹿正直に驚愕を露わにしておくのが、おそらくは礼に適った態度というものであろう。
文明が一九九〇年に百歳で長逝してからというもの、短歌は、善良なる律儀な韻律短歌に戻ってしまったのではないか、あまりに安易な〝詩〟の摘み取りに堕したのではないか、そう訝しく思える時がある。文明が拓いた微妙な〝踏み外し〟の小径には、ふたたび雑草が生い茂ってしまっていて、すっかり見失われてしまっているのではないか。
雑草の中にこの小径を探るのならば、おそらくは食傷することもないのだろう。もちろんこの小径は、文明から始まったものではなく、遅くとも南宋の時代の陸游の頃、すでに、はっきりと認識されていた詩の道のひとつだった。「俗人猶愛するは未だ詩と為さず」と、陸游の『朝飢えて子聿に示す』にはある。人間と同じく、愛される詩歌など、つまらない。先人たちが高度に風通しをよくしておいてくれたはずの詩や歌という概念を、ちまちました喜怒哀楽で埋めようとするのも、いい加減にしておいたほうがいいだろう。
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