花毎に黒蝶何か告げてをり薔薇園に小さき乱おこるべし
富小路禎子
歌人の三国玲子は、昭和六十二年八月五日早朝に飛び降り自殺を遂げた。入院中の病院六階の非常階段の窓からだったという。
何か呼ぶけはひと見れば水芭蕉ひとつ寂びたる帆を掲げゐし
この歌人の自殺を知らぬままに、どこかでこの歌を目にして読んでいた。いい歌だと思い、心惹かれてきた。死について、あるいは耳にしていたかもしれないが、一九八七年頃、私の周囲にはもっと身近な死が溢れていた。事故死も自殺も多かった。そうした知らせの中に紛れてしまった可能性がある。女流というものに格別の関心もなかった。避けていたのではなく、女性たちが女流ということを持ち上げ、それを楯にして議論は勇ましく、うるさくさえあった。女歌の再考にしても女流の新たな展開にしても、女性たちに任せておく他なかった。
遺歌集『翡翠のひかり』(昭和六十三年)にあるこの歌を詠んでから自死するまで、三国玲子がどれくらいの時間を生き延びたのか、わからない。死への歩み寄りを読みとろうと思えば読めなくはない歌ではある。しかし、「寂びたる帆」を掲げている「水芭蕉」は、荒涼な心境の中でふたたび力を得ていく表象にも思える。来るべき作者の死によって、読解を偏らせてしまっていい歌ではない。
死への傾斜ということでは、むしろ、ひとつ前の歌集『鏡壁』(昭和六十一年)のほうにこそ色濃い歌が見出される。
ノブ引けば全き闇なるわが住処浄めの塩はみづからに振る
一揺れして昇降機止まりぬこの中に柩が立つてゐるかも知れず
わが鬱を払へとばかり高鳴るや遠世ながらの駅鈴ふたつ
すぐそこに「死」が見えてゐし夜は去りてバラの切口火に燻しをり
生活の其処此処に口を開けている暗いもの、底知れぬ恐ろしさなどを引き受けて、これらの歌は重い魅力を凝縮させている。薄闇のなかを伸びていく古い廊下の艶を見せられるように感じる。死への傾斜、死への歩み寄り、そんなふうにひとくちに言って済むものではない。生の只中にあることに目を凝らしていけば、こういう境域はだれも避けえないはずである。死、衰微、滅び。格段の深みと充実を意識と表現にもたらすこの境域には、独特の闇黒があり、静寂があり、寒さがあり、孤独がある。何によっても支えられずに、ひとりでその中に立っていなければならない時がある。人によっては、其処でわずかにバランスを崩す。そうして肉体が損なわれることもある。世間ではこれを自殺と呼ぶのだが、もちろん、大げさに受けとめるべきではない。その人が行おうとしていた凝視のしかたに注意を向け続けるのが、残された者の常の課題である。
自殺した芸術家の作品に触れつつ、ともすれば、自ら死を選ぶ人の徴を探そうと見入ってしまうことがある。だが、ある人が生の最期を自死で締めくくったからといって、先立つ長い歳月の中のカードの一枚一枚が、そうした結末に向けて切られていたわけではない。自死の決断は突然、脈絡なく来たかもしれず、そうであれば、あらゆる作品は、自死の影の及ばない日向で見つめられ直さなければならない。
それでも猶、死の選択や覚悟を嗅ぎつけようとしてしまっているとすれば、知らず知らず探ろうとかかっているのは、あらかじめ表われうる自死一般の兆候であるに違いない。本当に知ろうとしているのは、作者の死の秘密などではないだろう。未だ生の側にあると安んじているこちらの自死の可能性をこそ、他人の死で計ろうとしているのではあるまいか。
大正十三年生まれの三国玲子は、中城ふみ子が登場した昭和二十九年に第一歌集『空を指す枝』を刊行している。青春時代を戦争と戦後の時代によって乱された世代に属している。働く女性の生を一貫して問い続けた女流歌人、と概観されることが多い。
働きて更に学ばむ鋭心にて吾は帰り来つ東京に来つ
遂げざれば直ちに死する烈しさを遠き世のごと読み憧れき
手触れつつ眠らむ胸のふくらみのかなし何時の日に燃ゆる心ぞ
うつくしく人は結ばれゆくものを裁ちあやまちし吾は湯に来つ
第一歌集の中のこれらの歌には、快い一途さこそ見出されるものの、死への傾きなどというものはない。一途さというものの危うさ、などと知ったふうなことをすぐ口にするのはどうかと思う。性格の傾向のひとつひとつは、人生の出来事をじかに招来するものではない。
一途さといっても、ここに見られるそれは闇雲に突き進むようなたぐいのものではない。これらの歌には、まっすぐに進んでいこうとする心を阻むものが詠み込まれている。一途なのは「憧れ」だけで、現実の自分は一途には進めないのが痛感されている。妨げとなっているのは、おそらく、生活の現実であったのだろう。ひとりの文学者の本質は、生活の現実にではなく、その人の「憧れ」のほうに存する場合が多く、現実という舞台に展開できない「憧れ」を大きく抱えざるをえない人の作品こそが成長していく可能性を秘めているものだが、三国玲子の場合、こうした可能性は、結晶度の高い整った歌として表われるばかりでなく、字余りの顕著な、甚だしく韻律の乱れた歌として露呈してくることがあった。
苺の匂する紅溶きてゐる明るくならむ優しくならむ君の言ふやうに
すでに第一歌集にこんな歌が見られるが、それ以降の歌集にも次のような歌が見られる。
フォークダンスの輪は眼下に動きそむ若くあらば楽しきや今若くあらば
(『蓮歩』昭和五十三年)
その毒を知らずその快を知らずニコチアナ・トメントシフォルミスの淡紅の花
(『晨の雪』昭和五十八年)
韻律にすんなりと合わせて幾らも詠える作者が、なめらかに読み過ごさせない歌をあえて作る時には、短歌から生活の側へと、生きるためのぎりぎりの糧のようなものを引き摺り出すような作歌をしているものだ。生を歌にするのではなく、歌を生にする。音ひとつ立てずに、韻律をたっぷりと壊しながら、ひとつの歌から次の瞬間の命を汲み出すような生き延び方というものもある。
こういう人が愛に向かっていく時、次のような歌が生まれる。
めぐりあはむ一人のために明日ありと紅き木の実のイヤリング買ふ
あざやかな乳首と思ひつつ着替へしぬ鋭き女と言はれ来し夜を
ただ一人の束縛を待つと書きしより雲の分布は日々に美し
怠け者の手と何時も呼ぶ君の手の中に眠らんその夜をば待つ
(『花前線』昭和四十年)
整った韻律の中に、「雲の分布」などという「鋭き」表現がことの他美しく収まって、奇跡的な一首となった。作者自身の感情と思想と生活の整いの奇跡が、ここには、そのまま刻印されている。
「めぐりあはむ一人のために」や、「ただ一人の束縛を待つ」といった表白は美しく、胸を衝かれる思いがする。しかし、危うい。純粋と呼ばねばならないだろうか。幼い、と言ってやることこそ必要ではないのか。愛についてのこうした見方の行く末は、恐ろしく感じられてならない。人間の体も、心も、「めぐりあはむ一人のために」など出来ていない。「ただ一人の束縛を待つ」心身は、それまでに他の複数の体と心を経なければならないこともあろう。三国玲子は、こんなところに未来の自死を準備していたか、などと思いたくもなる。
もちろん、間違った愚かな勘ぐりというべきだろう。「ただ一人の束縛を待つ」という表現の背後には、あるいは、誰とでも容易に蕩けていこうとする心身への認識があるのかもしれない。自己の意志で人工的な境界線を作ろうとしているのではないか。
このあたりに、男性的とも言えそうな決然とした感情の整理を感じる。誰もが当然のように三国玲子を女流とみなし、彼女の歌を「女」の歌と見るのだが、他の多くの女流と同じように、三国の作歌の方法は、くっきりと線引きをし、境界を定め、生の手ごたえを得ようとするものとみえる。これは「男」のやり方ではないのか。「めぐりあはむ一人のために明日ありと紅き木の実のイヤリング買ふ」といった対象確定、決意、行動は、遠い昔、「男」に求められてきた様式をなぞっているように感じる。戦後の新しい時代に「女」であろうとし、それを詠おうとするのは、遠い「男」になっていこうとすることではなかったか。「女」として生きようとするのは、そのまま、避けようもなく「女」でなくなっていくことであったのを、愛をめぐる三国玲子の歌は証明しているのではないか。
それらに比べて、次のような歌になると、ふいに三国玲子の「女」は戻ってくる。
ボーボワールの声鋭けれわれは生きてつひに日本をいづる日なけむ
(『噴水時計』昭和四十五年)
『第二の性』の作家の名が出てきているからではない。「鋭」い声の「ボーボワール」は、ここではじつは「男」の位置を担っている。女性の状況を認識し、告発し、女性の権利の代表者のひとりのようになった「ボーボワール」は、そうなったことによって「女」ではなくなっているのだ。この歌は、「われは生きてつひに日本をいづる日なけむ」によってこそ「女」を取り戻している。これは一見、限界の認識とも、方途のなさとも、諦観とも受け取れる表現だが、古来、優れて「女」の性質に満ちていた「日本」を「いづる日なけむ」と表白した時、二十世紀の女権論より遥かに深刻な「女」の発見に、おそらく三国は近づいていた。現在の自分の居場所を出ない、出るまい、そう決意するほど強い生というものはないが、ここにこそ「女」と呼ばれる生がありうる。この歌では、まだ認識は両義的だったとも見えるが、後年、次のような歌で、フォークランド紛争の際のマーガレット・サッチャーを断罪し捨て去った彼女は、確実に深い「女」の認識の道を辿っていっていたと言うべきだろう。
画面より「鉄の女」の声ひびき東のわれの今日のをののき
(『鏡壁』昭和六十一年)
妻にして母にして一国を負ふ者が撃て撃て撃てと叫びて止まず
「ボーボワール」やサッチャーのような「女」のあり方、あるいは「女」の捨て方に背を向けて、古代や自然を見つめるようになっていった三国の内的な歩みが健やかなものでなかったとは、思われない。
雨ながら稚き緋桃の照るところ陶のをみなの立つにあらぬか
(『鏡壁』昭和六十一年)
黒暗のそこひに沈む大歩危の湍ちを恋へどただに過ぎたり
たぐりゆく古代はいよよ解きがたし夜空仄かにしろがねの富士
(『翡翠のひかり』昭和六十三年)
彼女の心にはこうした歌が並んでいくのであり、はじめに引いた歌、
何か呼ぶけはひと見れば水芭蕉ひとつ寂びたる帆を掲げゐし
(『翡翠のひかり』昭和六十三年)
これも、この流れの中に作られていったものだった。いずれの歌にも、居合わせた場所の「何か呼ぶけはひ」に対して、丁寧に、ちょっとのショックも生まないように、そっと答えようとする心が染み渡っている。自然のひとつであるべき自らの肉体を、病院六階の非常階段の窓から眼下のテニスコートにやみくもに叩きつけうる人の歌ではない。
ちょっとしたバランスの崩れの結果の、たまたまの自死。そう見なしておくべき理由というものは、三国玲子の自殺の場合にはやはりある、そう私には思える。あるいは、非常階段の窓の外からの「何か呼ぶけはひ」を感じ、それに答えたものか。律儀なまでに敏感な、やさしい自死であったかもしれないと想像するのは過ぎるか。
富小路禎子は、この三国玲子の死に際して、このような歌を詠んだ。
闇空の広きにのがれゆきし魂鳥に憑き花と化し命継ぎゆけ
(『吹雪の舞』平成五年)
昭和二十四年に発足した女人短歌会の会員として、四十年には馬場あき子や大西民子らとともに月例研究会を開いていたふたりだったので、富小路禎子には、三国の魂が宙を飛んで突き刺さってきたかのようだったかもしれない。平安貴族の歌の家の末裔として、しかも、貴族の廃止された戦後の没落生活を正面から受け止めるという厳しい運命にがんじがらめにされて生き、詠ってきた富小路は、他の理由もあるとはいえ、とりわけ、この三国の死を契機として作風の大転回を遂げることになった。
「鳥に憑き花と化し命継ぎゆけ」というのは、三国玲子の歩みを正確に読みとっていなければ詠まれえない表現である。「女」など疾うに詠わなくなっていた三国の歌心を受けて、「鳥に憑き花と化し」としている。「闇空の広きにのがれゆきし魂」は、なるほど、暗く寂しい印象をもたらすかもしれない。しかし、この「闇空」は喪の悲しみなのではない。「何か呼ぶけはひ」に敏感になり、それへの目をいったん開いた者たちは、闇の重要性を知るようになるがために、進んで「闇空」のほうへ向かうようになる。肉体を持たない霊的な師たちは、重過ぎ、粗雑すぎるものとして光を忌むという話がインドにはある。光や明るさを称揚するばかりの鈍い感性の終焉していく地点に三国玲子は居り、富小路禎子はそれを正しく見定めていたというべきだろう。肉体の命が終わったり、太陽が矮星化してやがて消滅したりと、それぐらいでは揺るがぬ境位へと染み出ていった魂があったのである。
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