「生物」であり「有機体」である小説は「冒頭から書きはじめる」
これから小説を読みはじめようとする時に、はやくも書き出しの部分で、その作品の読みどころや構造めいたものをほのめかされてしまうというのは、言うまでもなく、ひどく興醒めなものである。
そもそも、小説を読むという行為は、骨組みや肉付きをきれいに腑分けしてみたり、それら相互の繋がりぐあいを縷々と述べて喜んでみることに収斂されるべきではない。読むにつれて、作品の結構があからさまに見て取れてしまうのではなく、見えた、摑めた、と思うや、すぐにもまた茫洋とした掴みどころのない思いに落とされてしまうようでなくては、わざわざ小説を読んでみる価値はない。濃厚な靄の味わいの中、思念と感情との喜ばしき孤立無援と茫然自失とをしばし保たせてくれることにこそ小説のなによりの値打ちはあって、世間によく言われる「読解」なる行為など、反動も甚だしいということになる。
とはいえ、いかなる小説も、結局はテーマパークとしての限界性の中に終始する他ない以上、当然のこと、あらゆる小説の冒頭は、負わされている独自の役割を放擲するわけにもいかない。多量に生産され続ける小説商品の中から選び取ってもらうために、思わせぶりな媚を冒頭で売らねばならないのはもちろん、これから読者に迷い込んでいってもらうことになる言葉の森について、最低限の楽しみを味わってもらうための推奨ルートの入口を示しておいたり、目立たないように腐心された表示ながら、やはり非常口の在り処も示しておかなければならない。
さらに、作者にとってみれば、冒頭なるものは、大きな普請作業を無事に遂行していくエネルギーを汲み上げるための掘削現場でもある。河野多恵子のように、文学作品としての小説を「生き物」とみなす作家にとってはなおさらのことで、彼女の経験的な小説創作作法論ともいえる『小説の秘密をめぐる十二章』(文芸春秋、二〇〇二年)においては、小説が「人形制作のように、マスクやボディや手足をばらばらに拵えておいて、繋ぎ合わせるというわけにはゆかない」ものであり、「嬰児が次第に育ってゆくように、全身的な育ち方をするのである」以上、かならず「冒頭から書きはじめる」必要があるとまで明言されるに到る。
この著書の中では、小説論における礎としてたびたび引用される谷崎潤一郎の言葉は格別の重みをなしているが、彼の『藝術一家言』における以下のような見解、すなわち、「組み立てと云ふと、或る静的状態――或る形を想像するが、形よりは寧ろ力である、緊張し切つた力の持ち合ひである」とか、「藝術は事実の記録ではなく美を創造するのであるから、其処に生み出された美は一箇の生物で――一箇の有機体でなければならず、既に生物である以上それはそれ自身に於いて統一された完全なものであり、部分は全体を含み全体は部分を含まねばならない。部分が成り立つと同時に全体が成り立ち、全体が成り立つと同時に部分が成り立つ」(『小説の秘密をめぐる十二章』より引用。原文では漢字は旧字体)といった見解は、河野多恵子にとっては殊に重要なものであろう。「生物」であり「有機体」である小説を「部分が成り立つと同時に全体が成り立ち、全体が成り立つと同時に部分が成り立つ」ように育んでいくやり方は、河野の諸作品のいずれにも共通する配慮として、比較的、容易に感じ取れるものといってよい。
肩透かしを喰らい続けていく快楽
このようなことを考えながら見てみると、河野多恵子の『秘事』は、現代の小説の中では、やはり絶品のひとつに映る。
タイトルとなっている「秘事」という言葉は、読者の心に謎めいたある種の淫靡さや禍々しさへの期待を呼び起こしがちのはずであるし、この作家のそれまでの作品傾向を知っていれば、そうした先入見はなおさら強まるはずだろうが、主人公ふたりが互いにどう呼びあったかをさっぱりと物語る冒頭の二行にはじまるこの作品は、そんな期待を爽やかに裏切りつつ、すぐに、ふたりの馴れ初めとなった大学時代のエピソードに入っていく。展開ははやく、十数ページも行かないうちに、もう、城崎への新婚旅行。あとは、順風満帆の商社マン夫妻の幸福譚がひといきに最後まで続いていくことになるのだが、冒頭ばかりか、作品全篇にわたって、読者が徹底した肩透かしを喰らい続けていく快楽といったら、おそらく、世界のいかなる小説も及ばないといっても誇張ではない。
いかなる肩透かしか?
小説なるものが一般に依拠しがちな、なんらかの負や欠落の要素から物語の運動が始められるべきだという、執拗にひろく共有されてしまっている思い込みへの肩透かしである。
小説の読者というものは大抵、作品を読みはじめる時点で、すでに読者たる教育を厚く受けてきてしまっている。小説本を手にするや、物語の出発点として、なんらかの欠落の要素や、負の要素、悲劇などを当然のように待ち受けてしまいがちになるのが、他ならぬそうした小説教育のさびしい成果である。教育である以上、当然それは偏向しているわけだが、『秘事』が手厳しいのは、近代小説の発展過程において十二分に根拠も必要もあったはずでありながら、そろそろ根本的な見直しを図るべき時期に来ているこうした通念に対してである。
主人公夫婦の三村清太郎と麻子には、見事なまでに、いかなる不幸も悲劇も起こらない。学生時代からなにかのコンプレックスに悩んだ経緯もなく、家庭環境の複雑さに苦しめられたわけでもなく、なるほど、職場での清太郎にはそれなりに煩事は絶えないらしいとはいえ、作中であえて語られねばならないほどのものではない。結婚当初、まだ戦災の後遺症の残る関西でよい住居を見つけるのに多少の困難があったとはいえ、鉄筋ビルの社宅に移った後は、シドニー、東京本社、ロンドン、ニューヨークへと続いていくことになる転勤生活のどこでであれ、不自由ないどころか、快適な住まいを与えられている。欧州総支局であるロンドン支店では要職に就き、その後のニューヨークでは米国法人社長、帰国後は五十三歳で常務取締役に就任するのだから、出世という点でも申し分ない。麻子は虚飾のない有能な妻というべきだし、ふたりの息子にしても、その嫁たちにしても、相和して幸せな一家を形成しうるだけの資質を、みな十二分に発揮している。
このような設定は、ともすれば小説の退屈さを保証しかねないものというべきだろうが、『秘事』においてなにより大問題なのは、描かれていく主人公夫妻の物語が非常に面白いという点にある。トルストイはかつて、『アンナ・カレーニナ』の有名な冒頭で、「幸福な家庭はみな似かよっているが、不幸な家庭の場合、不幸さはそれぞれ異なっている」と書き、「不幸な家庭」や「不幸」なるものの説話論上の優越性を主張したものだったが、『秘事』で河野多恵子が敢行しようとしたのは、トルストイの時代には看過されがちだった「幸福」の、また、「幸福な家庭」の、説話論的潜在力を真っ向から開拓する行為だったというべきだろう。そもそも、「幸福」がみな似かよっているなら、「不幸」もみな似かよっているはずなのであり、近代以降の文学において真に問題とされるべきは、「不幸」の場合にいっそう開花されやすくなる傾向のあった説話論的感性の本質の探求にこそあったはずである。
読むにしろ、作り上げるにしろ、説話の快楽というものは、端的にいえば、作品を織り上げる各要素のあいだの落差の配分加減から生じてくる。「不幸」が好まれがちだったのは、落差づくりという点で効果的かつ安上がりだったからで、これを安易に乱用する傾向は、小説の興隆期だった十八世紀よりも、小説商品が過剰に生産されるようになった十九世紀後半にこそ顕著になった。あらゆるものが商品視されて過剰に供給される傾向の極まった現代においても、小説におけるこうした流れは変わらないのだが、やはり説話の快楽についての考究や認識にはそれなりの深まりが見られたためだろう、「不幸」に頼らずとも、落差を発生させたり、その按配を工夫したりするケースは多く見られるようになってきている。考えてみれば、そもそも近代日本文学そのものが、日本独特の感性とあいまって、説話論的落差に関するこうした微妙な発生の研究の場であったともいえそうで、試みの先見性においても成果においても、森鴎外の晩年の史伝が群を抜いているのは明瞭であるし、その後の志賀直哉の諸作品や谷崎潤一郎の『細雪』などばかりでなく、いわゆる私小説のうちの良質のものは、おしなべて、こうした落差研究の成果であったとさえ言えそうである。
河野多恵子の『秘事』がこうした落差研究の最新の、また最大の成果のひとつであることは疑いのないところで、ここで作者は、幸福の中でのさまざまなエピソード間の微妙な落差を用いながら、全篇を通じて読者を飽きさせずに導いていくという離れ業を成し遂げているのである。
呼称という問題、しかし主役を割り振られることはなく
主人公の三村清太郎は、妻のことを「〈麻子〉または〈あんた〉」と呼び、妻のほうでは「彼の名を呼んだことはなく、専ら〈あなた〉」と呼んだ… こんなふうに、『秘事』の冒頭で真っ先に語られるのは、三村夫妻が互いにどう呼びあったかということなのだが、この部分が、作品の核心をなす何かにじかに繋がっていく記述として受け取られてしまうという危険は、先ずはないと言っていいだろう。
大学時代のエピソードへと、すぐにスムーズに記述が移っていくことで、冒頭から作品の本質を見てとろうとするような堪え性のない不躾なまなざしは軽々とかわされ、作品の雰囲気や方向を決めることになる大切な五ページほどの分量の最初の部分は、いかにも平穏に、何ごともないかのように語り終えられる。その部分の最後に、じつは、ふたりの間の呼称に関する記述がふたたび出てくるが、語り出しで触れたエピソードにかたちの上での小さな終わりをつけておく常套的な手法として受けとめられるため、特別に目をつけられることは、やはり少ないだろう。
しかしながら、主人公夫妻どうしについてのみならず、息子たちをはじめとする他の登場人物たちの場合も含めて、作中に何度となく呼称についての記述が出てくるのに気づかされると、はたして、特に注目すべきほどのこともないと見えた冒頭の呼称の話に、本当に特別の機能がなかったと考えておいてよいのか、訝られてくるようになる。そればかりではない。『秘事』以前での最も注目すべき大作といえる『みいら採り猟奇譚』(一九九〇年)で、いささか風変わりとはいえ、やはりこの上なく幸福だったといえる一組の夫婦の間での呼称の問題が執拗に追及されていたのを思い出せば、もはや呼称の問題は看過できないものとしてくっきりとした輪郭を備えるに到り、あらためて冒頭から、呼称についてのあれこれの記述に注意し直しながら、この作品を読んでいかなければならないと思わされることになる。
ところが、『秘事』という作品の心にくさは、多少なりとも注意深い読者が気づくこんなモチーフに、けっして、決定的な主役を割り振ったりはしないという点にこそある。呼称の問題が、『秘事』の中で、また、河野多恵子の近年の作品世界全体の中で重要な太い縦糸のひとつであるのは確かなことながらも、作品の中心をなすテーマとはいくらか距離を保ったまま、解釈の多様性を保証されたままに放り出されて、それ自体の説話論上の系を進んでいくのである。
諸作品を通じての作者の創作の「秘事」に深く触れる、疑いようもなく重要なモチーフを提示している冒頭、それにもかかわらず、作品の核心をみだりに露呈してしまうことの決してないような〝外し〟の施された冒頭というのも、じつに稀な、貴重な造形というべきだろう。
「不幸」という粗い装置なしに小説を成功させる「秘事」
そもそも、この小説が『秘事』と呼ばれること自体には、さしたる謎があるわけでもない。
結婚前、妻の麻子は交通事故に遭って頬に傷を負う。清太郎が麻子と結婚するのは、彼女が「感じがいい」からであり、「ほんまに気持ちがいい」からであり、「何ともいえず好き」だからに過ぎないのだが、事故で生じた頬の傷は、清太郎が「義侠心や責任を感じて結婚」したのかもしれないといった憶測を周囲に生む。が、麻子がそう思ったかどうか、小説はついに最後まで明らかにはしない。きっとそう思ったにちがいない、などと清太郎が確信するわけでもないが、もし彼女がそう思っていたら、との推測を彼はつよく持ち続ける。ここから、もっとも親しみあい、睦みあっていて、この上なく近しいふたりの間に、底の知れない不通の部分、ディスコミュニケーション部分が生まれることになる。しかもそれは、他のなによりも強く即応し通底しあう感応能力を、比類なきコミュニケーション能力を持ったディスコミュニケーションなのである。
単に否定しようとするためでさえ、ひとこと口にされれば、頬の傷を過剰に意識しているかのような印象は生まれてしまう。だからこそ、けっして言葉にされてはならない。驚くべき幸福維持の機能を持つ、方法的とも呼ぶべきこうした輪郭明瞭な曖昧さをしっかりと互いの関係性の中心に置いて、相互に応えあい続けていく清太郎と麻子の心情の共鳴の妙は、繊細微妙であるとはいえ、むろん、少しも「秘事」でなどない。
そればかりか、彼らの鮮明な幸福は、「不幸」という粗い装置なしに小説が成功しうるための「秘事」をも、かなり明るく照らし出しているというべきなのである。
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