2010年8月18日水曜日

秋の実朝、良経の秋 ―すぐにも立ち去るさだめの者にとって



 短い夏(2009年の夏)だったが、それでも八月のあいだは夏だという思いがあるためか、からだのうちにも心のうちにも夏があり、夏にむかっている気概のようなものもあった。梅雨がぐずぐず続き、冷夏とも呼ばれたが、思いのうちには、

   水上のこころ流れてゆく水にいとど夏越の神楽おもしろ(壬生忠見)

のような熱が、やはりあった。それが、九月に入るといっぺんに薄らいでしまう。忠見の歌にあった熱はどこへともなく失せて、彼の父の

   夏はつる扇と秋の白露といづれかまづはおかむとすらむ(壬生忠岑)

といった歌の気配に一気に入ってしまっている。

 涼しくなって過ごしやすくなった、とはこの時候の古来のふつうの挨拶のしかただが、夏というものの急な退陣に見舞われると、その移りゆきを少しでも繊細に追おうとして、心はかえって忙しくなる。日本の秋は詩歌の王国なので、秋を詠んだ歌を見直す気持ちが募れば、なおさら。

 そういう時に開く歌集はどれであってもよい。古今がいいとか新古今がいいとかいうのは、その程度の射程で満足していられる幸せな狭さにある者ならではの数えあげで、もう少し広く踏み出したら、選択肢はうんざりするほど増える。結果、どれでも手じかに取れるものを、となっていくだろう。さらに進んだ結果として、古今がいいとか新古今がいいとかいう言い方にふたたび戻ることがある。そういう人々によってこれらの集の名は箔を重ねられてきたわけだが、さんざん他の歌集に遊んできた結果の古今や新古今は、生涯かけた詩歌道楽の遊び人本人にとって、これらの集に含まれないあらゆる詩歌をもひっくるめての、総体的な呼び名のようなものであろう。まるっきり意味あいが違ってしまっている。
 勅撰集がどうのと拘らずに、たとえば天才藤原良経の『秋篠月清集』の、

  さびしさや思ひ弱ると月見ればこころの底ぞ秋深くなる

こんな壮絶な名作を拾い拾いして読んでいってもいいわけだが、これはこれで、また忙しくなっていく。もちろん、藤原定家をはるかに凌ぐ良経のような異様なまでの大才の場合、一首としてこちらの緊張を緩ますものはなく、あの至上の名歌、

  幾夜われ波にしをれて貴船川袖に玉散るもの思ふらむ

  見ぬ世まで思ひのこさぬ眺めより昔に霞む春のあけぼの

  後の世を此の世に見るぞあはれなるおのが火串を見るにつけても

などに幾度となく引かれ、引きとどめられ、四季を通してさまざまの歌を通覧して一夜ふた夜を過ごすということになるわけだが、しかし、忙しくなるというのはそういうことばかりでなく、名歌と呼ばれながらもあまり自分には好ましく見えない歌の数々にもいちいち目をとめて、そうしていちいちの今秋の取捨選択をしなければならないというような、そんなことも含まれてくる。たとえば、古今調全盛期に独自の歌風を保った豪快な異端、曽禰好忠の精神や才気には敬意を払うものの、

  鳴けや鳴け蓬が杣のきりぎりす過ぎゆく秋はげにぞかなしき

にはさほど今秋は惹かれないし、伊勢の

  世の中はいさともいさや風の音は秋に秋そふここちこそすれ

なども、技巧の微妙さには注目しても、さほど立ち止まりたいというほどの歌には感じられない。

 そんな中で、かつてずいぶん読み、なにかわかったつもりにもなり、愚かにも卒業したつもりでいた時期さえあった源実朝の歌などには、ふと立ち止まってしまうことが多い。

  萩の花くれぐれまでもありつるが月出て見るになきが儚さ

  夕月夜おぼつかなきに雲間より仄かに見えしそれかあらぬか

 
 一見、些細なひっかかりを軸に必死で歌体をこしらえたかにも感じられるが、落ち着いて見直してみれば、現実というものの覚束なさに戸惑う若い歌人の心が、詩的な装いもなしに、ずいぶん無防備に曝されている。人が当然のように言動の土台とする世の中のあれこれが、自分にはどうしても確固としたものとは感じられぬ、そんな思いの中から自然に出てくる言葉の、その口ぶりが実朝の独異性を露呈させていて、いろいろと気づかされる気がする。しかし、彼のあの死にざまを知っているからといって、この歌の頃からすでに無の側に魂を置いていたのか、などと思いを先走らせたりすると、

  世の中は鏡にうつる影なれや有るにもあらず無きにもあらず

と来る。無という言葉を簡単に弄んだり、それで安手の詩的ヒロイズムに耽って得々とするような境遇に、まだ若かったというのに、実朝はすでにない。鎌倉の鎌の偏と、中国で太政大臣、右大臣、左大臣を表す槐の字を併せて題名とした『金槐和歌集』は、実質的には二十二歳までの歌を集めたものというが、それを思うと、詩歌つくりに安易に用いられがちな思考法を繊細に避けて作歌していく詩的倫理のこうした表われには、いっそう驚かされる。
 
  うち忘れ儚くてのみ過し来ぬあはれと思へ身に積る年

なども、どうだろう。歌の華を咲かせたというような、決定的な名歌といったものではない。しかし、生活の中の心の拠りどころを求めようとして言葉に触れる者には沁みる。「うち忘れ儚くてのみ過し来ぬ」は、人間というものの生活の核心を洩れなく表現し、「あはれと思へ身に積る年」で哀歌とも鎮魂歌とも挽歌ともなっている。これ以上つけ加えるなら、他のどんな文学的表現も無駄事と呼ばれかねない。「以上簡潔に手ばやく叙し終りうすむらさきを祀る夕ぐれ」(岡井隆)。これぐらいならば加えてもよいだろうが、この世について、いや、地球滞在に関する言語記述としては、これで、もう十二分過ぎる。もちろん、場合によっては、「大空の斬首ののちの静もりか没ちし日輪がのこすむらさき」(春日井健)などとさらに加えていく手もある。が、この場合、もう、なにも語っていない。ただ、束の間の体験地である地球環境を見る目となっているばかりだ。言うまでもなく、文芸の至高のありようである。

 さらには、次のような歌、

  身に積る罪やいかなる罪ならむ今日降る雪とともに消ぬらむ

 罪という語のこの扱い方はどうだろう。ここに実朝の罪概念の浅さを見たがる仏教家もいるかもしれないが、彼における罪は、事実、「今日降る雪とともに消ぬらむ」といった程度のものでしかあり得なかったのかもしれない。罪という言葉が、権力機構としての仏教が人心を惑わし支配するために用いる妄想でしかないとまでは、彼はおそらく認識していなかっただろうが、この世に生を受ける程度の希薄な罪の持ち越ししか帯びていなかった実朝には、罪という語や概念で束の間の地球体験を暗ませる発想は、ただただ奇異に感じられていたのではないか。罪などという言葉を弄んでいる暇はない。そんな儚い概念の遊びをしている暇はない。「うち忘れ儚くてのみ過し来ぬあはれと思へ身に積る年」なのだから。気を払うべきは「身に積る罪」ではなく、「身に積る年」なのだから。

 あれこれと彼の歌を読み直していると、他人のものであれ、自分のものであれ、「罪」のような概念やそれを捏造して利用する地上権力などを、嫌ったというより、そんなものにつき合っている暇はない、というのが実朝の実状だったと感じられてくる。そう思って見ると、

  大海の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも

  箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよる見ゆ

  もののふの矢竝つくろふ籠手の上に霰たばしる那須の篠原

こういった代表作も、単に万葉調の典型と見て済ましておけばいいのではなく、遅かれ早かれ誰もが去っていかねばならない地球環境を、束の間与えられた人体の感官によって掴んで、少しでも手ごたえ強く経験しておきたいという切羽詰まった衝動の表われと感じられる。生きることが地球体験ならば、なすべきことは、「罪」などの言葉で概念の遊びをすることではないだろう。与えられたものを使って、与えられた場を、できるだけの強度で経験する。和歌という道具が強いてくる限定や限界はあったが、限定というものにつねに無限が隣りあっていることぐらい、詩人が知らないわけもなかった。

「罪」ありとされた者にも、ないとされた者にも、ひとしく鮮やかに経験されるもので地球は溢れている。ならば、「罪」とはなにか。ツミ、ツミ、と鳴き、あるいは他の概念のあれこれを鳴き、社会を構成する人びとというものは、あゝ、浜の千鳥のようなものではないか。

  朝ぼらけ跡なき波に鳴く千鳥あなことごとしあはれいつまで

 地球滞在への、あらかじめの辞世と見てもよい歌だろう。人が時代と呼び、文化と呼び、あるいは価値あるものと呼ぶようなものを、彼は「跡なき波」と言っている。「あなことごとし」、まぁ、大げさなことよ、仰々しいことよ。この言葉が、千鳥と人間の対照を保証している。どんな概念を鳴こうとも、人間の鳴き声も「あなことごとし」としか、他の存在からは受けとめられないだろう、と。
「あはれいつまで」という結句は、声聞や縁覚が抱く現世理解から菩薩的な境位への踏み出しにも見えるが、もちろん実朝にとって、そうした仏教的な身振りなどどうでもよい。千鳥も人も、どこからか生を受けてやって来て、いつか去っていく。ひとしきり千鳥をやらされ、人をやらされて。あはれいつまで。あはれいつまで。

 この、永遠でなどないとわかり切った上で記される「あはれいつまで」には、甘えはない。自分もそこに含まれる以上は感傷でもなく、どうにもできない以上は慈悲でもない。そもそも、千鳥たちに「罪」などない。人間にも「罪」などない。ならば、慈悲などという言葉の必要とされる余地もないではないか。ただ来て、ひとしきり鳴き騒ぎ、やがて消える。そこにはいかなる「罪」の入り込む余地もなく、救わねばならない何ものもない。「あはれいつまで」は慨嘆でさえなく、消えるとわかっているものについて、それが単にいつまで継続するのかと、実朝の思考が機械的に反応したというに過ぎない。そうした場合、想定される継続時間をどう評価したものか、どう評定したものかと、いわば技術的に思い迷う時に、人は「あはれ」に類する言葉を洩らす。そもそも、もののあはれとは、評価や評定の困難の麗しさ、その時の快楽のことと決まっている。人間は、そうした評定不能の快楽に達しようとして、文化的と呼ばれる営為に向かうだけのことでもある。
 この歌に宗教性があるとすれば、「朝ぼらけ」の中で、「跡なき波」も「鳴く千鳥」も捉えているところだろう。「朝ぼらけ」という環境の中にすべてを展開させているところに、善悪も楽苦も包み込む仏のひかりを詠み込んでいると、言おうと思えば、言えなくもない。しかし、仏などというものを持ち出さずとも「朝ぼらけ」は環境として展開するという、この奇異、この原因なき根源と現象の一致のほうが、実朝の思考にはふさわしいように思う。「朝ぼらけ」ひとつ取ってさえ、仏という概念の弄びでは解明できない。そんなところにこそ、逆に、存在というものの底知れぬ可能性を見出し、最広義の救いを感知するような意識を、実朝の歌のもろもろは垣間見せているような気がする。世界はつねに仏や神を超えている。思えば常識というべきであろうが、実朝は強度の常識人として、宗教や社会という非常識に対峙したと見るべきであるように思う。
 端的にいえば、人々の感想や意見、好悪、判断のすべてはもちろん、いかなる概念や観念に至るさえ、やはり妄想と呼ぶ以上のものではないと、はっきり断じ続けること、その一点においては迷わないこと。世の中のすべては、人々のこうした思いの無限の全方向への堆積や展開に過ぎない。思いの堆積や展開にはそれなりの構造も歴史もあり、面白みも味わいもあろう。しかし、束の間この地上に滞在してすぐにも去っていく定めの私に、それがいったい何だというのか。この世の思いは、この世の人々に任せる。忘れるな、自分よ、そもそも私は、この世の人でなどなかったではないか。
 実朝よりは長く地球に滞在したとはいえ、三十七歳で早逝した藤原良経ならばこう歌うだろう。

  おしなべて思ひしことのかずかずになほ色まさる秋の夕暮

 思えば、この秋の夕暮れの前にまっとうに言葉を失うことこそ、もっとも滞在時間を無駄にしない逝き方の秘訣であった。この世の誰の一刻一刻も、この世からの立ち去りの瞬間にだけ向ってまっすぐに飛ぶ。はたして、誰がこの世の人だというのか。
 良経の歌に呼応するように、実朝はこんなふうに歌っている。

  流れゆく木の葉のよどむえにしあれば暮れての後も秋の久しき

 暮れるのは、暮れるさだめにある者たちばかりである。「暮れての後も」久しい「秋」とは、あらゆる存在者たちの盛衰を支える世界の基盤を表わす。しかし、「久しき」と言っている以上はそれとて永遠ではない。「久し」と永遠とは異なる。終わりのある途方もない長さ、それを「久し」という。「久し」い「秋」もまた、いずれ暮れるのだ。

 こんな歌を詠む実朝は、仏教思想の模範的な習得者とも見える。しかし、独特の概念体系を拵えて、それを地上権力と成す宗教家たちの身振りは彼には無縁で、そもそも宗教の力を借りずとも万人にとって常識であったはずのものを、ただ真率に、誰にも見覚えのある自然の光景そのものの内に語るだけのことだ。否応もなく政治権力の中枢に組み入れられた彼にしてみれば、地上権力のどうしようもない捏造ぶりなど自明のことだっただろう。仏、菩薩、慈悲、あほらしい。そんな表象を捏造して、いったいどれほどのことが語り得るのか。すぐにも立ち去るさだめの者にとって、地上のそのような表象とはなにか。観音が本当に天上へ導いてくれるとでもいうのか。ならば問う、仮に観音が現われたとして、その表象が真の観音である判別は誰がつけ得るのか。真我を真我と判じ得るものはなにか。仏を、仏以下の魂がどのように仏として判別し得るのか。仏と自称して無数に出現し得る邪霊や心理構造の妄想生産過程の偽りを、いかに識別するのか。そもそも、安寧を求める心的怠惰の反映でないとすれば、天上や涅槃とはなにか。地上への我々の来訪の理由とはなにか。それとも、来訪と呼ぶような移行は存在せず、すべての場は同一にして「此処」なのか。迷いから悟りに至るプロセスを語る物語は、どのような欲望から捏造されたものか。なぜ物質界の経験を強いられているように感じられるのか。生老病死をありのままに過ごしていって、なにが悪いのか。

 すぐにも立ち去るさだめの者にとって、という視点は、そのまま、あらゆる地上の社会的営為に対する厳しい批評となるものだが、百花繚乱に見えながらも王朝から中世の和歌の数々は、概してこの点では視点を共有していたといえる。背後に仏教思想があったのは疑いないところだろうが、詩歌行為が本質的に反宗教行為であるのを思えば、一首一首に巧みな抵抗と否定が内在していたと見たほうがよい。

 もちろん、詩歌は思想でもなく、概念をめぐる闘争の場でもない。詩歌行為の不敗のとりとめなさは、それらの狭域をおのずと溢れ出る。というより、そういうものをのみ詩歌行為と呼ぶのだ。

 この地上滞在についての認識、とるべき態度、そうしたことがらについての結論など、はじめからすべて出ている。ただ、まだ此処にいる。此処を去るとわかっていながら。ふたたび、藤原良経の歌、

  手にならす夏の扇と思へどもただ秋風のすみかなりけり

 此処にいながら、あらゆる意味での此処に執着しない人々、執着しようにも不可能なのを知っている人々が、まさに「秋風のすみか」たる詩歌を、このように残していく。詩歌のすべてを、総じて「夏の扇」と観じるのも、思えば正確な美しい喩えではないか。それを「手にならす」ことを詩歌行為という、これもまた、正確この上ない認識と言ってよい。



◆この文章は次の雑誌にも掲載された。
・駿河昌樹文葉「トロワテ」94号(2009年9月)
・THE MAIL 277(5/September/2009 by Masaki SURUGA)

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