2010年8月18日水曜日

ベストセラーときもの(4)  山崎豊子『花のれん』



 最近あいついで映像化された『沈まぬ太陽』や『不毛地帯』、あれも面白いには違いないが、大阪商人の世界、ことに船場を扱った初期の作品の、えぐるような手だれの描き込みもさりながら、いつも漂っているこっくりぬっくりした味わいには格別のものがあって、あれに触れるたび、山崎豊子はすごい、と思う。明治から太平洋戦争前後の船場のこととなると、大阪の人でさえ、もう実感をもって思い描くことはできないそうだが、『暖簾』だの『ぼんち』だの『花のれん』だのから見えてくる船場は、人間の気持ちの密な、豊饒な生活空間であったように感じられる。

 もちろん、心のほつれのあちこちを繕ってくれるぬくいうれしい茶のような大阪弁の妙とあいまって、ということもある。商売あがったりの呉服屋をやめて寄席(こや)を興す『花のれん』のヒロインの多加は、満員の客席にさらに客を詰め込む際、「どうもえらい狭うてすんまへん、お一人さん挟んであげておくれやす」と言う。「坐らせてやってくれと云うとむうっとするが、挟んでやってくれと云うと、不思議と少し横を空けてくれる」と作者は加えるが、大阪弁で言われているからこそでもあろう。江戸弁が滅ぼされた廃墟に掘立小屋のように作られた寒いさむい標準語は、とかく人工的でしゃっちょこばり、空虚にもわざとらしくもなりがちだが、大阪の言葉は無形文化財の域に達している。他の土地の人間であっても、あれを聞いたり読んだりしていると心の無数の襞が甦ってくる。こまかく、やわらかく、心の隙間にくっついてまんべんなく埋めていくような言葉。化学繊維ののっぺらした普段着に慣れた目を、手をかけてこまかく織られた絹物のきものにしばらく向けてみる時などにも、思えば、同じような心の繕いが起こる。

 そう、きもの。きものといえば、初期の山崎作品での扱いというのは、浮き立ち過ぎず、しっかりと生活の中に織り込まれ、いかにも生きている、息づいているという感じがある。ごてごてと描写することはなく、要所をわきまえた提示のしかただが、決定的な瞬間をとらえる名手の写真のように読者の心に焼きついてくる。『花のれん』では、遊びにしか能のないダメ夫が花街で飲んだくれているのを引き取りにいくところから本格的なきものの描写が始まるが、「多加は、大島に、繻珍の袋帯を締め、畳表の履物をはいて出た」というさっぱりした一文が、このヒロインの意気も覚悟も、このあとの生き方さえも、十分に伝えてしまっている。

 遊び人の夫の気質にぴったりあった寄席(こや)経営の仕事に邁進していく多加の、この後のさまざまなきもの姿を追っていくのが、まこと、『花のれん』では楽しい。仕事が軌道に乗ってきた頃も、「相変わらず地味な縞御召で丸髷の結い直しも自分でして、髪結い賃も惜しむほどであった」彼女だが、夫が生来の遊び癖からふらふらし始めるようになると、もっと気を惹こうとして「俄かに呉服屋時代の経験を生かして小紋の御召や結城などを上手に買い整え、家ですませていた丸髷も髪結いへ行って結い上げるように」したりする。「一にも二にも勤勉、努力、節約(しまつ)」という船場商人となった多加の、生活の転変のいちいちに、そのつどふさわしいきもの、着かたが添うてくる。

 しかし、若い妾のところで夫が急死し、その弔いに臨む際の多加は、「ふさわしい」を超えた、決意のきものを選び取ることになる。嫁入りの際に無骨な父が持たせてくれた「真っ白な重味のある綸子に、墨色で陰紋をぬいた白い喪服」。吉本興業の創業者をモデルとしたという多加の運命が、近代日本の一大興行師のそれへと弾けていく、もっとも重要な山場となる瞬間である。

 船場の商家には「夫に先だたれ、一生二夫に目見えぬ御寮人さんは、白い喪服を着てこころの証をたてるしきたり」があったという。手渡しながら、父は口ごもりぎみに、「お前が小学校へ入った年に死んだ母親が、もし将来、船場へ嫁ぐような縁があったら、何をおいても白の喪服だけは、持たしてやっておくなはれと、これだけ頼んで死によったもんや」と多加に伝えてもいる。

 つまりは、亡き母の思い、父の思い、そして船場の御寮人さんたる女の心意気と「ど根性」までがこのきものには流れ込んでくるわけで、こうなると、きものももはや、たんなる日用品ではなく、しきたりの具でもなく、ファッションや趣味の対象でもなくなってしまう。多様な意味と歴史と思いの重層化された只ならぬ存在となるわけだが、こんなふうにきものを描き上げてしまった小説家というのも、当今、山崎豊子以外にはなかなか見当たらない。



◆この文章は、若干の修正を施した後、アシェット婦人画報社「美しいキモノ」二〇〇九年冬号にも掲載された。
◆次の雑誌にも掲載された。
・駿河昌樹文葉「トロワテ」96号(2009年11月)
・THE MAIL 295 (24/November/2009 by Masaki SURUGA)

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