2010年8月25日水曜日

吉田拓郎のタラッとさ加減

                応答する反論はどれも、もとの論が何についてのものか
               という、一緒にいる存在にすでに「共有」されている理解
               に、もっとも近いところから直接に起こる。
                     (ハイデガー『存在と時間』、細谷貞雄訳)



 昭和四十九年、森進一が第十六回レコード大賞を受賞して『襟裳岬』を歌った際、後ろには作曲した吉田拓郎と作詞の岡本いさみが立っていた。喜びのためだろうが森はいささか放心気味で、ときに緊張気味にさえ見え、岡本も居心地の悪さや恥ずかしさに耐えて、それなりに威儀を正してちゃんと立っている。 しかし、腹のあたりで少し体を捻じくらせたようにして立っている吉田拓郎の姿はどうだろう。ジーパンにジージャン、どこに出ようとけっして体をピンとさせず、ダラッというか、タラッというか、場に合わせるということをしない若い男が、逆に、誰よりもしっかり其処にいるというふうに見える。いま風にいえば、KY(空気読メナイ)とでもいう言葉を持ち出せばいいところだろうか。KYこそ人間が人間たる最低条件でしょう、といった雰囲気。

 久しぶりにこの映像を見ながら、いわゆるバブル期以降から現在に至るまでの日本が失った最たるものはこれだったのかな、と感じた。七〇年代まで、当然のようにどこにもいたこんな姿、その場の雰囲気にはとにかく合わせないし、すぐにフケるし(いなくなること、ずらかることをこう呼んでいたものだ)、うるさく声を張り上げたりはせずともNOを表明し続けるといった連中の姿(高校の生徒会などはどんな場合であれ反対の嵐で、なにひとつ決まらなかったのを思い出す)。八〇年代が進むにつれてこれはだんだんと消えていき、平成に入ると、マニュアルを見よう見真似してでも流行や風潮に先ずは従っておくという柔らかなヒットラーユーゲント隆盛の時代となった気がするが、一九五九年生まれのぼくには、森進一の背後にタラッと立つ吉田拓郎の姿は懐かしく見え、頼もしく見えた。ぼくにとって小父さんたちや兄ちゃんたち、お兄さんたちに当たるこういう上の世代のタラッとさ加減に、思えば、ぼくはずいぶんと支えられてきたし、彼らのこんな雰囲気があったからこそ、それを取り込んだり、それに反発したりしながら振舞い方を自然に作り上げてきたのだろうと感じる。八〇年代に次第にこうしたタラッと系が消えていくにつれ、たぶん、良かれ悪しかれ行動規範のように自分の中で機能していたものを、ぼくは失っていくように感じていた。その後の日本社会は、奇妙というか、おそろしいまでにストレートに場の雰囲気にあわせる人間を良しとするコードに領されるようになり、ぼくには気持の悪い、居心地のすこぶる悪いものとなった。

 世代論は誰でも知っているように粗雑で嘘っぱちだし、ひとりの人間が自分の世代を代表して何ごとか語れると思い込むのも愚かしい限りだが、ぼくら五〇年代最後生まれの日本版“失われた世代”、ないしは沈黙の世代は、他の世代にはない重荷をずいぶん背負わされてきた、と言ってみたい時が多い。ぼくは愚かなので、自分の世代を代弁してひとしきり考え込んだり語ったりするのはけっこう好きなのである。

 インチキが多分に含まれるのを承知で概括してみれば(くどくなるのを承知で言い添えておくが、インチキというのは大好きで、もうワクワクしちゃうのである)、ぼくらの親たちや先生たちにあたる三〇年代生まれ世代は、現在の七〇歳代半ばあたりの人々で、この世代というのは品行方正志向がつよく、自分たちを新しい人間と思いたい一方で人間関係においては古い秩序の信奉者であるし、倫理や思考様式は小市民的かつ保守的で、子供や学生が反抗的であるのを根本的に認めない。高度成長期の真ん中で生きてきて、同じサイクルや方法論を継続していけば世の中は回っていくという信仰が抜きがたい。もっとも、終戦時に十代はじめだったため、根本の世界観には案外融通のきくところもあるので、いま目の前にある現実を信じ込んでいるわけではない。案外と気弱なところもある。

 いっぽう、ぼくの叔父たちや兄たち、近所のお兄ちゃんたちや先輩たちの中で目立つのが四〇年代生まれ世代、なかでも全共闘世代と団塊の世代で、これはぼくから見れば、とにかく親や先生たちの三〇年代生まれ世代やそれ以前の世代の価値観や生活感とズレている人たちで、前の世代にたいしてけっこう露骨な反抗もするし、思いきった無視もクサシもする。ぼくの親類には、全共闘世代も団塊の世代もいたので、幼年時代からぼくはさんざんそういう光景に接してきた。子供ながらに、これらの世代の異議申し立てや柔らかさ(それはもちろん狡さでもある)には助けられたし、生活環境を楽にしてくれるところのある態度の体現者だとも思ってきた。

 ぼくら五〇年代最後生まれ世代の場合は、三〇年代生まれ世代を親や先生に持つ手前、表面的には秩序尊重、品行方正と見せる必要があり(そうしないと昔は殴られた)、四〇年代生まれ世代を先輩や兄ちゃんたちとして持ったがために、内面的には反抗や逸脱を当然のこととして成長していくようになった、――こんなところが世代の基本的な性格構成につながったのではないかとよく思う。表面的には既成秩序を尊重し維持するように見えるので、四〇年代生まれ世代から見れば苛立たしく、嘘らしく、保守的にも没個性的にも見えるようだが、内面では眼前の秩序をほぼ百パーセント否定しており、これっぽっちの尊重もしていない。嫌いなもの、尊重しないものを平然と維持し、採用し、使用し続けられるところが、四〇年代生まれ世代にはまったく理解できないらしい。(例えばぼくは、職場で自分がもっとも嫌悪するスーツやネクタイをよく利用してきたが、嫌いだからこそ自分が身につけて、それを世の中に見せつけるという心理がここには働いている。これはどうやら相当にひねくれていると見えるらしく、なかなか理解されない。服装にかぎらず、ぼくが外面的にも内面的にも――内面などもちろん外面でしかない!――身のまわりに置いているものは、ほぼどれも嫌悪するものばかりである。このひねくれ具合、ねじくれ具合というのは、歴史的文化的にぼくらの世代の中にのみ畳みこまれた襞のようなものと言えるのではないか)。

 四〇年代生まれ世代による、準備不足もいいところの大小さまざまの革命の試みがことごとく失敗してきたのを見ているので、完全に機が熟するまでは右左含めての古典的網羅的な見識を吸収するのに努めつつ、あくまで保守派の皮をつねに被り、内部ではしかし、すべてに飽き飽きしていて、すべてを覆す準備を進めている。――なんだか『危険な関係』を書いたラクロの精神のようだが、こんな部分が五〇年代最後生まれ世代にはあるように感じる。高度成長以前からの日本を見てきているので、日本が先進国に成り上がっていくカラクリのインチキさも体で掴んできており、現代日本の生活様式だけによって生活観や世界観を拘束されるということがない。いっぽう、幼時から高度成長の波の最先端に乗ってサーフィンさせられてきて、昨今の環境問題や金融危機による資本主義の黄昏にまで付き合いが続いてきているので、第二次大戦後の恩寵的欺瞞的平和と物質的繁栄のAからZまで、ほぼ見尽くしてきている。つまりは、選択肢のうちのひとつが五〇年代以降の日本において展開されたにすぎないものとして現代日本史を見ており、この歴史的事実をべつに重要だとも思わないし、もはや見飽きた風景に過ぎないとの思いが強いがために、これまでの時代を残そうとなど露ほども思っていない…… どうも、こんなところが多分にあるように思えてならない。

 大げさなことも言いたくないし(本当はそういうのは大好き)、概括的なことばかり言い続ける気もないが(本当は幾らでもある)、社会や生活様式や街の変質こそを常態として受けとめてきたぼくらの世代の多くは、いま目の前にある日本社会をそのまま維持していきたいなどとは、これっぽっちも思っていないのではないだろうか。ある物については現在のかたちがいいと思うが、別のある物は五〇年代のかたちのほうがいいと思ったり、他のある物は八〇年代はじめあたりのかたちがよかったと思ったりする。こんな見方をすべてに対して採る五〇年代最後生まれ世代は、おそらく社会のあらゆる面をなるがままに放っていくだろうけれども、仮に改革に本気で着手せざるを得なくなった場合には、ずいぶんと選択基準のまちまちなゴッタ煮的社会構成を行う可能性があるかもしれない。とにかく、あれでもいいし、これでもいい、これがダメなら、またあれにかえてもいい、というのがこの世代の根本精神なのである。それはハード面だけのことではなく、政治制度から価値観、倫理に至るまで同じ。つい昨日まで続いてきたもの、培われてきたものをあっさりと立ち切って、まったく別の社会や国家を平然と打ち立てる、かと思うと、またすぐに元に戻してみたりするのではないかという気がする。いま現在、あたかも主流のようになって生起している社会や文化の様態をまったく認めておらず、面白いとも価値があるとも思っておらず、先行世代や後に続く世代の価値観や感性をまったく認めてもおらず興味も実はまったくないという点では最右翼の世代なので、いずれそう遠くないうちに、歴史に残る文化断絶を目に見えるかたちでも惹き起こすかもしれない。事実、ぼく自身、憲法改正は当然のこと、国名を替えたり、政治制度を完全に変えたりという発想をごく当然のものとして持っている(これは右傾化云々とは関係がない。天皇制そのものの排除のために憲法改正が必要だというまでのことである。改正のポイントがまるで違う)。選択・変更がいつでも可能なものとしての生活上のノウハウの厖大な蓄積は日本列島居住民にとって重要だと思うが、社会を一定規範に嵌め続けるものとしての文化の伝承などどうでもいいし(ローマ人に対するフランク族、あるいはノルマン人のようであること)、合理的かつ理性的な国家実験を早くやりたくてうずうずしている。左翼でも右翼でもなく、日本ジャコバン派なのだといつも自称してきたが、ようするにこの六〇年ほど日本を拘束してきた偏見(それを未だに文化だとか呼ぶ戯けた人々がいる)を、そろそろ本気で丸ごと捨てる方向に行きたいものだと思っているわけだ。この六〇年ぐらいの間に起こったこと、作られたものは、どれもあっさりと放棄され、破壊されてよい。人類はそういうものでしょ、この時代だけ歴史のこの基本性質を逃れるというわけにはいかないし、これから当然のように戦争も大災害もまた起こるし、引き続く大量死の時代も戻ってくるでしょ、と、ヨーロッパ保守主義から学んだ口ぶりを使ってたしなめておきたい気もする。

 せっかく吉田拓郎のタラっとさ加減の話だけをしようと思って書き始めたのに、「たしなめる」などという身振りにまで至ってしまうというのは、老いも勝ってきたということなのかもしれない。歳はとりたくないものです、という石川淳の言葉が、そろそろ実感をもって響くように確かになりましたわナ。

 というわけで吉田拓郎に話を戻す(「というわけで」というのは、いつもながらに論理のインチキをやるには便利な言葉である。どんな哲学的思考でも、緻密さを気取る世間のマネジメント思考でも、「というわけで」的インチキ無しには思考は決して進まない。思考というもの自体が、どこまでもインチキなものなのである)。彼が作曲した『襟裳岬』に、岡本いさみという作詞家は北の地方の物語や雰囲気をイメージ付けしたわけだが、この曲はどうやら、もともとタヒチのフォークロアだったらしい。Youtubeでこの点を指摘している人たちがいたので、ちょっと調べてみるうち、Tahi Tia Maiという曲が見つかった。聴いてみたら、たしかに『襟裳岬』そのものの曲である。フランスの歌手AntoineがこれをアレンジしてAttends-moiという曲にもしているが、この歌手も吉田拓郎と同じく、パクった口だろうか。インターネットには、Emma Terangiという女性歌手がこの元歌を歌っているのが無料で聴けるサイトがある。彼女の歌い方にもアレンジがされているのかもしれないが、それでも、ポリネシア風の『襟裳岬』が聞こえてきて、なぁんだ、と思わされる。当時の吉田拓郎に一面において代表されるような、ぼくの小父さんたちや兄ちゃんたちやお兄さんたち世代の内実というのは、じつはこんなものだったのか……

 どんな文化も借り物に次ぐ借り物だと言ってしまえばそれだけのこと、レヴィ=ストロースふうにブリコラージュと言い換えてみたって、実質が大きく変わるものでもないだろうが、カラオケで情緒たっぷりに『襟裳岬』を熱唱する中高年日本人たちを思うと、このペラペラさ加減と融通無碍さに、あらためて驚嘆させられる。換骨奪胎とか、無から有を創り出すとか。そう言い換えるインチキさもまた、もちろん大いに好むところではある。


◆この文章は駿河昌樹文葉「トロワテ」92号(2009年4月)にも掲載された。

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