2010年8月18日水曜日

松島記

 

   松島には二、三歳の頃に行き、小さめの船で島めぐりをした。
 曾祖母がいっしょだった。
 写真が何枚か残っていて、杖をついた和服の曾祖母と私が写っている。いつも先代歌右衛門のような髪型をしている人で、なぜ男のような髪をしているのかと私は訝っていた。
 松島へはその後、中学の修学旅行でも行ったが、瑞巌寺に寄ったという記憶しかない。映像的な記憶がなく、瑞巌寺という名だけが残っている。
 そのためか、私にとっての松島は、つまりは曾祖母との場所でしかない。
 幼かった私が、曾祖母とふたりだけで島めぐりをしたはずはない。両親もいっしょだった。写真も、父が撮ったものが残っている。しかし、松島という名から浮き上がってくる思い出の中には、杖をついた曾祖母だけがはっきりと見えて、他はぼんやりしている。
 父方にとっても母方にとっても、私は最初の孫だった。それを意識させられて育っていった私は、血縁のうちでもっとも私から歳の離れた長老である曾祖母を、他方の極として強く意識したらしい。曾祖母と私の年齢差のあいだに、両親も祖父母も叔父たちや叔母たちも、皆が収まってしまう。自分と曾祖母という両極のあいだに、生存する血縁者たちの皆が入ってしまうということに、子供なりの驚きと、ある種の任務のようなものを感じていた。片方の軸、片方の極を自分が担っている。むこう側は曽祖母が担ってくれている。約七十歳年上の長老が生存している中で、自分がまだ幼いままでいられるという安堵感があった。

 ひさしぶりに松島へ行ったのは、出向いた遠刈田温泉に近い場所にあったからである。帰京する日、夕方までの時間が空いた。仙台市内を見てまわってもよいが、松島も懐かしかった。幼時、父の転勤で仙台に住んでいたので、どちらを見るにしても、多少はセンチメンタル・ジャーニー染みたものになる。
 雨がちだったが、松島に行くことを選んだ。曽祖母の思い出もあったが、歌枕ということもあっただろう。日本三景のひとつである松島には、詩歌に関わる書籍ではつねづね出会い、わかり切ったつもりでいつも無感動に処しているが、自分にとっての松島とはなにかとなると、答えどころか、そのよすがとなる実体さえ意識の中には見い出せなかった。
 どうせ、という思いはあった。有名な歌枕の地に心を高ぶらせる純心は、すでにない。観光地には飽いている。近くに来たから見ておく、見直しておく、それだけの思いだった。

 松島海岸駅に着くとかなりの降りだったが、遊覧船のチケットをすぐに買って、迷いもなく乗船場に向かった。来たからには多少の雨でも島めぐりをするつもりだったし、雨の松島が悪かろうはずもない。昔の船とは比べものにならない、マリンイーグルという高速遊覧船に乗った。
 船内に入ってしまえば、雨は気にならない。窓ガラスに雨筋が流れ、松島湾の風景も、遠くの島々の風景も少し歪んで見える。それがよかった。
 走り始めてからは雨は小ぶりになり、やがて止んで、曇り空ではあるが、島めぐりにちょうどよい天候となった。

 めぐる島々の風景は美しかった。
 かたちのさまざま、潮に抉られたぐあい、隆起部分の層の色あい、あの島この島の遠近が、たくみに心を楽しませ、みごとに計算された巨大水園に遊ぶようである。
 芭蕉が『おくのほそ道』に記したところを引くのは芸がないが、「島々の数を尽して、欹つ(そばだつ)ものは天をゆびさし、伏すものは波にはらばふ。或は二重にかさなり三重にたたみて、左にわかれ右につらなる。負へるあり抱けるあり、児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹きたわめて、屈曲おのづから矯めたるがごとし。そのけしき窅然(えうぜん)として、美人の顔(かんばせ)を粧ふ(よそほふ)。ちはやぶる神の昔、大山祇(おほやまづみ)のなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、ことばを尽さむ」という描きようには共鳴せずにはおれない。
 もっとも、松島を実際に見直せば、芭蕉のこのあたりの記述の、多少の高ぶり過ぎや表現上の怠惰、紋切り型への余りの譲歩は鼻につく。不遜な物言いとはわかっているが、詩文における時代や趣向、主義の違いは、尊敬する俳聖への従順をも崩さずにはおかない。

 芭蕉は、先の箇所に続けて、雄島について記していくが、この島がまた、殊のほか素晴らしかった。
 趣に富み、中を辿る小路のあちらこちら、見える海の遠景、近景、寄せる波の音の響きも美しく、残る石碑や墓石のどれも苔寂びて心惹く風情で、おそらく、日本の美観の中でも指折りの場所と言えるだろう。日本人の心にすっと落ちて来るような、岩や緑、水、明るさと影の妙が、心憎いまでに見事に配分されている。「造化の天工」が凝縮された場所である。
 来て、ゆるゆると見てまわる、それだけで満ち足りる場所というものが本当にある。そういう場所を求めて人は旅をするのだろうと思うが、松島の雄島もそのひとつであった。完璧なのである。もう少しこうであったら、という欠損や過剰がない。
 この島については、芭蕉は賛辞を弄せず、このように記すばかりである。
「雄島が磯は、地つづきて海に出たる島なり。雲居禅師の別室の跡、座禅石などあり。はた、松の木かげに世をいとふ人もまれまれ見えはべりて、落穂・松笠などうち煙りたる草の庵しづかに住みなし、いかなる人とは知られずながら、まづなつかしく立ち寄るほどに、月、海にうつりて、昼のながめまた改む。江上に帰りて宿を求むれば、窓をひらき二階を作りて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ」。
 現代ではもはや見られないさまで、雄島については、芭蕉の記述そのものが、島のひとつの魅力を担って、風景の多層化に一役買っていると言ってよい。水際まで降りて釣りに興じる裸の若者や、湾内に望まれるボートの白い船体などに重なって、いにしえの世捨て人たちの影が心象として蘇ってくる。

 曽祖母とは、雄島にまで来ただろうか。
 記憶はまったくないのだが、老女が杖をついて巡るには、やはり楽ではない場所であっただろう。島めぐりをして、その他はどのようにしたのか。瑞巌寺には詣でたか。五大堂や福浦島を廻ったか。
 曽祖母が来なかったはずの雄島に来て、雨あがりの、やや蒸す空気の中をのんびり歩いて廻ることで、途切れて止まっていたなにかを、ふたたび始めるかのようにも思えた。あたかもお盆の時期で、もう滅多に思い出さなくなっていた人のことを、このように懐かしく思うというのも、偶然ではないようだった。
 
 私はひとりではなく、妻を伴っていた。
雄島をめぐりながら、素晴らしい、素晴らしい、とくり返す私の気持ちを、妻はすっかり共有はせずに、渋すぎる、渋すぎる、と、いささか不満らしい様子だった。
 それでもよかった。
 松島の島めぐりをしながら、また、雄島の中をめぐりながら、曽祖母と妻とを、私ははじめて結んだように感じていた。
 会わせた妻を、曽祖母は受け入れた、という感触があった。


◆芭蕉の引用は新潮日本古典集成『芭蕉文集』(富山奏校注、一九七八)による。
◆この文章は次の雑誌にも掲載された。
・駿河昌樹文葉「トロワテ」99号(2010年8月)。
・THE MAIL 329(16/August/2010 by Masaki SURUGA)。




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