2010年8月22日日曜日

ベストセラーときもの(7)    川端康成『古都』



 はじめて身に添わしてみる着物と帯、しかし、これぞというもので装って出た時、見知らぬ人に声をかけられ、褒められるのは楽しかろう。虚栄心がくすぐられて、とばかり思うものでもない。美意識や感性の共有が、思いがけないところで確かめられる瞬間で、人の世にある喜びの滲む時でもある。

 川端康成の『古都』の主人公のひとり、苗子は、時代祭の日にそんな経験をする。着たこともない着物と帯で、御所の蛤御門のかげで人を待っていると、
「お嬢さん、ええ帯やこと。どこでお買いやした。おめしものにもよう似合うて……」
 つかつか近づいてきた中年の商家のおかみらしい人がこう言い、「ちょっと」と、触りそうにして、「うしろのおたいこを見せてもらえしまへんやろか」
 お洒落といいファッションといい、しっかりと見て、受けとめてくれる相手がいないことには話にもならないが、着物ほど、高い美意識と感性を分かち持つ相手を要求してくる衣装も少なかろう。他人の着物姿を愛でること自体、繊細で奥深い文化のあかしといえる。

『古都』には、着物に敏感な市井人たちによって支えられた、こうした美意識のたしかな網の目がある。四季おりおりの景観、それに寄り添うようにして催される京都の行事、そこここの名所などがふんだんに散りまかれ、そのなかに人間模様のうるわしさ、哀しさの湛えられていく絵巻のような小説だが、登場する人びとの感性のいずれもが、着物の柄や意匠、着方のよしあしに張り切っている。そのうえ、水際立った文章と構成の妙が極限まで到った観があり、開花時期の桜の色が、花以外のすべてにも沁みとおっているように、作品の端々にまで着物が匂う。
昭和三十六、七年あたりまでの京都は、こうもあったろうか。それとも、当時の川端にとってさえ、『古都』の世界は、壺中の天地、すなわち、俗世間を離れた別天地のようなものであったか。

 北山の山奥で生まれ、生まれ落ちるや、すぐに別れわかれになった双子の姉妹の話で、京都の町中に捨てられた千重子、そのまま山中で育っていった苗子、ふたりが年頃になって邂逅するものの、事件らしい事件などは起きず、ただ互いの心の深くに、人間の宿命というものへの悟達が静かに下りていく、そんな小説である。あわただしい二十一世紀のいま、読み返してみると、どのページを繰っても、静謐と充実とに心をくまなく浸され、得がたい慰撫の読書時間が続いていく。

 しかし、着物好きや、着物の関係者には、厳しい学びの小説でもあろう。
千重子の育ての父、太吉郎は、中京の京呉服問屋の主で、友禅の下絵も描く。若い頃は、麻薬の助けを借りて抽象的な模様を描いたが、戦後、着物の模様も激変し、優れた図案家たちが減ったなかでは、かえって「思いきった古典調」をと意気込んだりする。しかし、「むかしのすぐれたものが、数々目に浮かんでくる。古代裂や古い衣装の模様や色彩は、みな頭にはいっている。もちろん、京の名園や野山も歩いて、きもの風に写生もしていた」。知り過ぎているのだ。こんな事情から、創作もうまく進まない。苦労して仕上げた帯の下絵も、懇意にしている西陣の織工・大友宗助に見せにいくと、腕の立つその息子・秀男に、「ぱあっとして、おもしろいけど、あったかい心の調和がない。なんかしらん、荒れて病的や」と批評されたりする。
三代続くのがむずかしいという西陣の手織機のなかで、「仕事が顔にもからだにも残っている風」の、この若い秀男もまた、半端でない気むずかしい職人で、千重子を慕い、彼女に生きうつしの苗子を慕う。千重子の幼馴染の友人・水木真一の家も室町の大きな着物問屋で、その兄の竜助は、やがて千重子と結婚することになりそうな気配である。着物の世界の、それぞれの領野の専門家たちの生、感性、思いが、千重子と苗子、この美しい双子の姉妹の生にこまかく織り込まれている。

生業としての着物の業界のむずかしさは、そのまま現代に通じる描き込み様だろう。中京の京呉服問屋とはいえ、太吉郎の仕事は順調でなく、貧乏してでも「静かな南禅寺か岡崎のあたりのちっちゃい家に移って、着尺や帯の図案を」考えて生きていこうかと、いつも思っている。西陣着尺の買いつぎ商社はあいついで倒産し、着尺織物工業組合は八日間もすべての機を止め、減産を試みる。

そんななかで、時分の花かもしれぬが、千重子の、そして苗子の、若さ、美しさが香る。ある晩、寝つかれぬ千重子が香水を散らして床に就いたのち、育ての母がかたわらに身を横たえて言う言葉が、忘れがたい。
「ええ匂いがするわ。若いひとやな」



◆この文章は、若干の修正を加えた上で、「ベストセラーときもの・川端康成作『雪国』」として「美しいキモノ」二〇一〇年秋号にも掲載された。
★また、次の雑誌にも掲載された。
・駿河昌樹文葉「トロワテ」101号(2010年8月)
・THE MAIL 330(17/August/2010)

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