2012年10月18日木曜日

圓地文子の欲望と快楽

―圓地文子*『女坂』について



白川行友のようなひどい夫には、近ごろの小説の中では、なかなかお目にかかれなくなった。
自分の妾にするべき娘を妻の(とも)に探しに行かせるとか、妻と妾と一緒くたに住まわせるとか。いやいや、その程度に留まってはいない。もうひとり新しい妾を増やしたり、息子の嫁とも関係したり。それも過ちとか、一度や二度の出来心などというものではない。この嫁が七人も子どもを生んで死んでいくまで、馬鹿息子にこれっぽっちも気取られることなく、相思相愛の肉欲にじっくりと耽ったりもするのである。

妻の側から見れば、こんなふうになる。
「行友の好色にこれまで幾度となく苦い塩を嘗めさせられながら、(とも)はまだ行友の中に自分と同じ道徳が保たれていることを信じていた愚かさに愕然とした。息子の嫁という越えてはならぬ筈の関を行友は平気で踏み破っている。行友にとっては女は一様に雌に過ぎないのだ。そう思ってみれば、美夜は須賀よりも由美よりも遥かに魅力に富んだ若い雌にちがいない……それにしても、倫は須賀や由美を行友が愛しはじめたころに味わった嫉妬とはまるで性質のちがってしまった煮えるような憤りによろけながら、須賀の訴える声をきいていた。それはもう夫婦としての愛でも憎しみでもなかった。須賀や由美やいや当の美夜さえも背後に囲って手に負えぬ雄の行友に立向う烈しい憤りであった。(『女坂』)

自分の好色を満たすために、封建君主もどきの我儘放題を、これでもかというぐらいの直球勝負で披露してくれるこの男は、『四谷怪談』のお岩さながらの苦悩を妻に強いる酷薄な色悪として、まさに近代の伊右衛門として、これまでは見られてきた。
それはそれで、当然のことというべきだろうが、しかし、ここまでやってくれる男を造形せずにおれなかった圓地文子の欲望というものに想いを致してみると、「過去の日本の家の内部の暗い場所に生きた女達の生命」**を描き出したかっただけとは思えない。小説創作は、時代の運命や悲劇の告発だけのためになされるのではないのだ。こんな男に一方的に蹂躙される女の運命をつぶさに追って描くのは、やはり、それが快楽であればこそである。

かりに行友が、妻思いの聞き分けのよい夫であったとすればどうか、考えてみればよい。そういう彼が、出来心から不倫を犯してしまったとでも想定してみようか。なにもかもがぶち壊しになるのである。『女坂』における圓地文子の快楽は、そんなやわな男性存在からは生まれないのだ。

 なんらかの激越なものとの接触と交渉なしには、存在さえ知られず、掘り当てさえできないような深部というものがある。この作者の求めるのは、幾多の過酷な体験をそのまま溶解と鋳造の過程としつつ、来るべき女の不動の自我を練り上げることなのだ。
しかも、残虐も異常も日常的であったかのような中世などにおいてではなく、あくまで近代日本の、どこまでも平穏な日常の中でそうした激越の海を航海するとなれば、激越なものは、なんとしても人間関係の中に、とりわけ、男女のそれに求められねばならない。補助線としてエミリ・ブロンテの『嵐が丘』を思い出しておけば、じつは酷似した基本構造を持っている『女坂』が、いかに純愛小説と呼ばれてしかるべきものであるか、わかりやすくなるだろう。というより、これによって、「純愛」という曖昧この上ない言葉の中に、強度や激越さという要素を開拓するべきであったと、遅まきながら気づかされるのだ。
同じ性質の自我などというものは一つとしてなく、ましてや、男の自我と女の自我の懸隔は容易に擦り寄れるようなものでなどない。そういう二つの自我の永遠のせめぎあいを純愛と呼ぶべきだったのに、この数百年ほど、我々は忘れてしまっていたのだ。
ことによったら、数千年にもわたる忘却だったかもしれない。


*圓地文子 一九〇五~一九八六年。浅草生。国文学や江戸文化に通暁。戯曲から小説に転じた。近代日本の女性たちの運命を、日本古典の様々な女性像と通底させつつ形象化。

**『女のひそひそ話』



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