2012年10月7日日曜日

非文章的に、さらには非文的に考えるには




 スーザン・ソンダクの文章の断片が偶然目にとまった。どこからの抜粋かわからない。

「時間は消えていくものだとしても、場所はいつでもそこにあります。場所が時間の埋めあわせをしてくれます。たとえば、庭は、過去はもはや重荷ではないという感情を呼び覚ましてくれます」。

 読みながら、あゝ…、と声にならない声で、批評文や哲学文やその他の論文を読む時にほとんどそうなるように、またもや小さく歎いていた。こんな粗雑な思考を書きとめて、そうして何ごとか考えたと思っている人間たちがおり、それを賞賛したり支持したりする人間たちがおり… こういう者たちによって、思考は無限に劣化されていってしまう、と。

 そういう者たちと違って私がしかるべく思考している、などと言いたいわけではない。思考の困難さにもう何十年とまどってきているか… 私は少なくとも20年ほどは停滞したまま、肉体の舟に方向も定めず乗り続けている。そうしながら、思考のモラトリアムを続けながらも言語の使用法だけは基礎練習として継続すべく、正しく思考せずとも言語配列練習のできる詩歌を弄びながら、どのように考えればいっそう粗雑でない思考が可能になるかと試し続けてきていた…

それにしても、「時間は消えていくものだとしても、場所はいつでもそこに」あるとは、ひどい思考である。時間は消えていかない。「時間が消えていくものだとしても」と思う時点で、すでに無駄な思考が始まっている。ソンダクは、時間の内容物が消えていく、と言っているのだろうか。そうだとすれば表現は粗雑すぎる。言説の中心を支える観念について粗雑な表現を採るようでは、ソンダクの思考はやはり追うに足りない。

「場所はいつでもそこに」ある、というのも間違っている。いま在る場所Aは、一瞬後の場所A´とは異なっており、世界は眩暈的な一回性の法則下にある。あらゆる「場所」は二度とそこにはないのであり、「場所」というものを戻っていく地点、戻っていける地点であるかのように考える通俗的な紋切り型の感傷思考は間違っている。むしろ、時間こそが、時間性を以て在ると考えられるかぎりにおいて「いつでもそこに」ある。

 場所が時間の埋めあわせをするというのも違う。そのように感じることはあるかもしれない。しかし、そのように感じたからといって、それは「場所が時間の埋めあわせをし」たとは言えない。安手の詩的効果を狙った言語遣いでないならば、ここでも粗雑さを指摘しなければならないだろう。

さらに、「たとえば、庭は、過去はもはや重荷ではないという感情を呼び覚ましてくれます」というのは、ソンダクの個人的な感慨である。したがって、否定する必要もないし、こうした表現に到る思考が粗雑かどうかも問題とならない。しかし、私ならば、庭はむしろ、過去の途方もない重さ…というより、「重さ」に囲い込んで限定してしまえるようなものではないどうしようもなさを、またもや沁み入らされる、と言っておきたい気持ちになる。

 これほどまでに間違いに満ち、粗雑な思考の振りによって織られているソンダクの言説が、私にとって、いや、他の人々にとっても、いったいどれほどの価値がありうるというのだろう。もちろん、問題の所在に小さな発火を促して、言葉や、言葉と並走した思考によってではついに意義ある思考をすることはできないだろうと確信している私を、ふたたび問題へと引き戻す効果はあるものの。

 こうしてふたたび、「時間」というものへ、「場所」というものへと引き戻され、そろそろ人類と地球の暮れ方に近づいているかのようなのであれば、私は考えねばならないだろう。現実には詩の一領域である哲学的思弁を採るのであれ、言語を超えたものへのアプローチの可能性を広げるために詩を採り続けるのであれ。

 つねに反省においてのみ出現する時間という概念、それこそが時間を掬いとっているのか、それとも、それこそが時間を取り逃がす原因なのか… 人が「時間」と言う時、人はつねに時間の外にいる。外からしか時間を捉えることはできず… 「いま」と言う時、人はやはり「いま」の外に出てしまっているため、いかなる「いま」も今ではない。「いま」と言う一瞬前に留まり続けることによってのみ、人は時間にじかに接するが、こういう問題を据える時、同時にあるいは準備的に、あたかも哲学のように、言語の問題をやはり整理しなければいけないのだろうか、また、非言語化の探求方法を問わなければならないのだろうか…

 …と、一気に問題群は押し寄せるが、誰のためでもなく、ただ私のためにだけ考えを進ませるには、やはり、断章形式がいいのだろうか。形式的完成の誘惑と欺瞞に引き摺られやすい文章というものをたえず破砕して、非文章的に、さらには非文的に考えるには… 



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