2012年10月20日土曜日

レンアイと「性交」のドサまわり

     ―高橋源一郎『性交と恋愛にまつわるいくつかの物語』について




いまは昔、純愛文学をあつかって論評する企画に呼ばれたことがあり、その時に割り振られて手こずった作品のひとつに高橋源一郎『性交と恋愛にまつわるいくつかの物語』があった。
気取って文学に接していたい人たちなら、とりあえずは眉をしかめたくなるようなお下品なえげつない作品集ではあるが、世間の猫かぶりを暴くのを身上とするこの作家らしく、狙いはけっこう純情であり、生きとし生ける人間の誰もが避けようもない性の21世紀的現実を侘しく、せつなく、ちまちまとした卑小な光景そのままに露呈させる中短編集となっていた。『さようなら、ギャングたち』で登場以来、この作家の身上は、実体から乖離させた言葉こそが持つ機能をフルに生かし、小説の既成服を果敢に脱ぎ続ける文芸ストリッパーたるところにあると思われるが、AV俳優になっていく「短小で包茎の引きこもりの男」と「ブスでデブの冴えない女」、幼児性愛者の欲望の微妙さ、チンパンジーがセックスを続ける前で少女と出会う「終わった」男など四話からなるこの本も、そうした持ち味のいかんなく発揮された作品集だった。

 読者と世間を舐め切った捨て身のいい加減さがよく発揮された高橋源一郎の書くものは嫌いではないし、なにより、下品なものやえげつないものは大好きなので、それなりに楽しんで読んだものの、困ったのは、この本に溢れた侘しい貧相な現代日本の性の現実に、「純愛」というテーマをどう接続してもっともらしい論評をでっちあげるかだった。
  誰もが知るように、文芸の企画ものの批評や論評など、単なるもっともらしいでっちあげの産物以外の何ものでもない。儲けたくて、ついでに世間を騒がせたい、耳目を惹きたいという貧乏な出版社と編集者と文芸趣味の幾たりかが集まって一場の泡の夢を見る。そんなところに文芸ものの批評本などはでっちあげられていくのであり、これはこれで、いかにも貧相な、侘しい、蛍光灯の下の血色の悪い面々のようなえげつなさに満ち満ちた企てで、高橋の描いた蛍光灯的性交風景といかにも近似しているのだが、まあ、これは別の作家に別の本として描いてもらうべき課題だろう。
その企画では、まず作品の中から特徴的な部分を引用し、その後、作品全体の紹介もすれば、面白味の提示もしつつ、かつ、批評にもなっているような字数の限られた文を書くということになっていたので、ともあれ、こんな引用から始めたものだった。東南アジアで児童買春に明け暮れる男を描いた小説の一部である。

〈もっとも最近、わたしの相手をしたのはT**という九歳の少女だった。わたしはその街にいた一週間の間、ずっとT**と一緒だった。わたしは途中で相手を変えたりはしない。
残念ながら処女ではなかったが、何人かの候補の中でいちばん気に入ったのがT**だった。T**はなかなか情熱的だった。誰に教えられたのか、セックスの前には、必ず、わたしの顔を両手ではさんで見つめ、セックスの最中には、やはり両手でわたしの背中を軽く叩いた。それが癖のようだった。
T**は、小さく、細く、六歳ぐらいにしか見えなかったが、穴の具合はきわめて良かった。極楽だった。滅多にないことだが、精神的だけではなく、わたしは肉体的にも大きな満足を得た。
夜に一度、夜中に一度、挿入した。欲望に果てはないようだった。 
 明け方、わたしはまた、T**を抱いた。T**は、いつものように、わたしの顔を両手で挟もうとした。しかし、わたしはそれを許さなかった。わたしは、小柄なT**の軀を裏返し、後ろの穴に挿入しようとした。それでも、T**は、なんとか軀をねじって、わたしの顔を両手で挟もうとしているようだった。おそらく、それはT**にとって、欠かすことのできない儀式の一つだったのだろう。わたしは、T**の腕を押さえて、髪を掴み、後ろから強引に挿入した。わたしは、T**の怯えた顔をはじめて見た。自分が欲望の対象となるということがほんとうはどういうことなのか、その時までT**は理解していなかったのだ〉。
                                    (『性交と恋愛にまつわるいくつかの物語』)

 見事な個所で、幼児娼婦とのセックスの際に起こりそうな場面のうち、暴行というほどの荒々しい行為などなしに表出される残虐さがよく描き出されている。「わたし」の顔をはさんで見つめることから始めることで、相手の挿入・射精行為を性行為に昇華し、さらにはおそらく、自分と相手と神とを結ぶものとしての聖なる行為にまで高めようとするT**の意思をいとも簡単に無視し、逸らし、こちらの欲望の排泄穴に単に肉が付き、手足が生え、頭が乗ったという程度の器機として「わたし」はT**を扱う。ここに、「わたし」のいっそう強烈な高次の快楽が弾けるであろうことは想像に難くない。相手の感傷を、文化を、祈りを、あらゆる過去をひそやかな身振りで破壊し去ること以上の快楽は人間存在には他にないからである。
  
 例の文芸企画においては、ともあれこの引用で、読者の心に、衝撃と、劣情と、興味とが起こることを期待しながら、「純愛」というあらずもがなのテーマになんとかムリに結びつけるべく、次のような作文にとりかかったものだった。

〈概して「性交」にまつわるディティールを迂回しがちなのが、とりあえずは「純愛」というものだろう。もちろん、夫婦の「純愛」や、一定期間にわたって安定した関係を継続させている男女の「純愛」の裏には、慎ましやかで謙虚な「性交」があるはずなのだが、露骨にはそれに触れないことによって、「純愛」なるものの雰囲気というのは醸し出されてくる。
 しかしながら「純愛」が、虚栄に満ちた自意識と、性欲に突き動かされ続ける肉体とを備えた個人どうしの間に発生するものである以上、「純」という形容にはどうにも相応しくないような、後期資本主義的気晴らしとでも呼ぶべきレンアイが絶えず付きまとってくるのは自明のことであるし、「純」どころか「レンアイ」からさえも逸れて「性交」へと突き進む欲動も、人心の内で、つねに虎視眈々と祭りの機会を狙っている。ならば、あえて出発点を「純愛」に置かず、レンアイや「性交」に置いてみたら、現代日本の人間像はどのような姿で網にかかるか。なにより、あまりと言えばあまりの「純愛」の欠落によって際立つ高橋源一郎のこの小説集は、そんなプランにもとづく企てに見える。
 この企てに取り組む高橋には、ひとつ、はっきりとした姿勢がある。レンアイも「性交」も、物語的キレイさや快適さや夢想を保証してくれがちな大空へは、けっして飛翔させないということだ。もちろんハーレクイーンさせず、『愛のコリーダ』もさせず、退嬰的な心地よさへと誘うピンク映画路線も否定する。いわば、既成のドラマ性によって安易に救済されてしまうような道をかたくなに禁じて、徹底してレンアイと「性交」にドサ回りをさせようとするのだ。この小説集が、とりあえずの名前をつけられた作中人物たちの物語集である以上に、大文字のレンアイと「性交」という主人公ふたりを、達成も栄光も悟りも当面ありえないであろう過酷な探求の旅へと押し出した瞬間を記念する、一見時代錯誤的な、しかし実際にはいかにも現代にふさわしい寓話となったのは、このためなのである(いつの間にか現代が、寓話によってのみかろうじて把握されうる時代になってしまっていたのを、我々は失念しがちであるが…)。
「性交と恋愛にまつわる」領域が、イメージの氾濫とナンデモアリの言説の洪水(もちろん、いずれにも偏向と操作がふんだんに施されてしまっているが、唖然とするほどワンパターンではある)、積む金額に応じていくらでも「射精」と「挿入」が可能になってしまったこの時代(「性交」とは所詮「射精」と「挿入」のことに過ぎないではないか云々といった感慨へと導く強力な思考誘導付き)にあって、われらがヒーローふたり、レンアイ君と「性交」さんは、とうに追放されていたエデンの園へ戻ろうとするのか、それとも、覚悟をきめて未知の新たなステージへ到ろうとするのか。「性交と恋愛にまつわる」領域の地勢学に多少とも通じる者の目には、どんな道が辿られるにせよ、遠からずレンアイと「性交」が、ふたたび「純愛」という磁場に足を踏み入れざるをえないであろうことは、火を見るより明らかなことというべきだろう。
「不幸が極まった時、神は不在として現われる」とシモーヌ・ヴェイユは言ったが、現代における「純愛」の事情、そして、まさに日本文学の現代を意味する「高橋源一郎」における「純愛」の事情は、ここに言われる「神」によく似たところがある。お定まりの既成の純愛物語レシピを書庫からさがし出し、今の社会から集めてきた都合のよい素材を伝承通りに組み立てて、「はい、純愛、おひとつどうぞ!」などと読者に手渡すようなことを、もちろん高橋はしない。頭脳がよほどシンプルにできているのでもないかぎり、誰もが疑いなく等しく構造的に奪われているはずの「純愛」を、賢明にも誠実にも馬鹿正直にも巧妙にも、彼はそのまま不在として扱うのだ。不在であるものがどれほど強烈な引力を持つか、そして、ありとあらゆるモノが溢れかえっている世界で、不在であるものこそ、じつはどれほど強く希求されているか、読者は思いもよらぬところで、不在学のオサライさせられることにもなる。〉

 レンアイや「性交」の実地修練の渦中にある人たちには小むずかしい言辞もあるだろうが、そこは文芸企画ものにありがちなふりかけ程度の味つけに過ぎないから、まぁ、御愛嬌といったところか。いま振り返って読み直してみて、あまり修正箇所が認められない気がするのだが、これはこれで、脳の老いとでもいうものだろうか。
 高橋源一郎を持ち上げ過ぎなきらいもあるが、そこはそれ、文芸企画ものの慣例ということで、もちろん、フィクションに過ぎない。
言葉なんて、嘘を、いや、フィクションを言うためにだけあるんだものネ。詩歌、小説、評論、批評、論文、報道… どんなかたちを表向き採るにしたところで。



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