2013年6月18日火曜日

子音字Kの突出

  ー北原白秋の歌について
 





 あくまで、ほとんどの作品を時間をかけて読み終えた上で言うのだが、北原白秋の短歌は大嫌いである。なるべくなら再読しないで済ましたいし、とりわけ幾つかの一連の個所には、二度と戻らないで生をすこやかに終えたいとさえ思う。
 とはいえ、もちろん、あの病的で繊細な感受性の効果や技術的な巧みさを認めないわけにはいかない。そればかりか、暗さや疲れ、倦怠感、方途を失った心の揺曳のさまを適当なところで抑えておいてくれれば、次のような歌には素直に感心しておいてもよかろうとさえ思う。

 ほのかなる水くだもののにほひにもかなしや心疲れむとする

 山羊の乳と山椒のしめりまじりたるそよ風吹いて夏は来りぬ

 前者は、なるほど「かなしや心疲れむとする」で締められるものの、「ほのかなる水くだもののにほひ」のやわらかな爽やかさが十二分に救っており、かなしさも心の疲れも、歌に色を添えうる程度の修飾に留まっている。夏の到来を詠み競うことは、万葉の昔から日本の詩歌では恒例だが、それへのあらたな挑戦として作られた後者は、季節を正確に示す「山羊の乳」と「山椒」を持ち込むことで、都会生活よりもわずかに田園寄りの近代日本の現実的な生活暦を提示し、「しめりまじりたるそよ風」が吹いてくる爽やかな夏の到来をあざやかに定着した。彼自身の俳句「温室の硝子一枚壊れて夏」ほどの面白さには達していないとは思えるものの、それでも、抜きがたい粘着性や曖昧さを招来しやすい短歌形式を白秋なりに駆使した結果、「しめり」けのある軽みをなんとか出し、そこに歌の印象を留めることには成功している。


 次のような歌ともなれば、読者のほうは、白秋のやや複雑な歌い口と技巧にしっかりと気づけるようでなければならない。

 青柿のかの柿の木に小夜ふけて白き猫ゆくひもじきかもよ

 なんということもない歌に見える。夜ふけ、青柿の木の近くをひもじそうな白猫が歩いていく。提示されている情景は、とりあえずはそれだけのように見える。ちなみに、「さよふけて」と読む「小夜ふけて」の「さ」は、語調を整えたり語彙を強めるものに過ぎないので、特段の意味は加わらない。
 しかし、考えてみれば、夜ふけなのだから、柿の実の青さはよく見えないはずである。白い猫の白さも、日中のようにはありありとは見えない。現代のように、夜でさえどこもかしこも照明されているような時代の歌でもない。夜ふけの闇は深く、「青」や「白」は一目瞭然に見えているとは言い難い。
 ここまでのことがすぐに見抜けるかどうか、この歌においては、じつは読者が試されている。白秋の怖さは、不注意な読者や鈍感な読者に見て取りやすい浅い情景を掴ませ、それで満足して済ませてしまう者たちを切り捨てていくところにある。ひとつの詩歌が読者たちのレベルを評価し、差別化し、低レベルの読者にもそれなりのサービスを提供し、高レベルの読者にはむろん、もっと高い詩的興趣の享受を許すのだ。わかりやすい詩興を読みとって楽しんでいる読者を、公然と侮蔑してくるのが白秋という詩人なのである。


 では、この歌の場合、柿の「青」も猫の「白」もよく見えないであろう夜ふけの情景を提示しながら、なおも「青柿」といい「白き猫」という時、なにが起こっているということになるのか。
「青柿」や「白き猫」、さらには「青」や「白」といった概念の層の重なりが発生しているのであり、その概念層における色彩の純粋な点滅効果と干渉効果が発生しているのである。夜ふけに「青」や「白」が見えようと見えまいと、白秋にはじつはどうでもよい。夜ふけの情景など、「青」や「白」を呼び込むための仮の舞台装置に過ぎないからだ。とりあえず、「青柿」に「青」を、「白き猫」に「白」を持って来させる。後は、「青」と「白」の概念に心ゆくまで耽溺すればよい。


猫のことを言うとともに、作者の心情をも語っているかのような「ひもじきかもよ」という表現はどう捉えるのか、重要ではないか… ふつうの短歌読者はそう思うだろうが、もちろん、さほど深いわけでもない一定程度の意味あいと効果は読みとっておくのに反対はしないにしても、やはり、これは短歌の常套の収め方のひとつに過ぎないと済ましておけばよい。いうまでもないことだが、短歌においては、頻出するこうした心情表現を適当にあしらって、正面から真顔で応対しないでおくというのも作法のうちなのである。
こうも考えておくべきかもしれない。もし「ひもじきかもよ」の意義をこの短歌において捉え直そうとするならば、少々めんどうな作業に入り込まねばならないだろう、と。「ひもじき」が持つ一般的な意味を云々するよりも、音声面での検討をし直しておくべきだということになろう、と。


めんどうな作業に、少し踏み込んでみよう。この歌はひらがなで書き直すとこうなる。

あおがきのかのかきのきにさよふけてしろきねこゆくひもじきかもよ

 さらにローマ字で音声面を記述するとこうなる。

 Ao ga ki no
Ka no ka ki no ki ni
Sa yo fu ke te
Si ro ki ne ko yu ku
Hi mo ji ki ka mo yo

 これを子音+母音、ないしは母音のみの日本語の一音ずつに分解し、便宜的にアルファベット順に並べてみるとこうなる。

a
fu
ga
hi
ji
ka ka ka
ke
ki kiki ki ki
ko
ku
mo mo
ni
ne
no no no
 o
ro
sa
si
te
yo
yu
yo

 これだけでも、すでにkiとkaの使用頻度の突出が見てとれるが、これをさらに子音字と母音字に分解して、使用頻度を調べてみる。日本語の母音のみをまとめて先に示し、子音字はアルファベット順で示す。

aaaaaa
iiiiiiiii
uuu
eee
oooooooooo

f
g
h
j
kkkkkkkkkkk
mm
nnnnn
r
ss
t
yyy

 白秋のこの短歌における音声素を母音字と子音字レベルまで分解し、使用状態を示してみればこのようになる。短歌というものが自ずと要請してくる条件にもよるが、とりあえず突出している部分を見れば、この歌は、母音字系では10O、9I、6A、3E、3U、子音字系では11K、5N、3Y、2M、2S、1F、1G、1H、1J、1R、1Tという特性を持つ。突出している文字から見て、この歌はO、I、K、Aの歌であり、とりわけOとIとKの歌であり、日本語において母音の使用頻度は必然的に増すのを考えれば、なによりもKの歌であるということになろう。11個という特権的なまでの子音字Kの使用頻度は異様といってもよい。
 ここで、結句と、その上の初句から第四句との文字数比較を行ってみる。

〔結句〕
 ひもじきかもよ
Hi mo ji ki ka mo yo

 a
  iii
 ooo
  h
  j
  kk
  mm
  y

〔初句から第四句〕
あおがきのかのかきのきにさよふけてしろきねこゆく
Ao ga ki no
Ka no ka ki no ki ni
Sa yo fu ke te
Si ro ki ne ko yu ku

aaaaa
iiiiii
uuu
eee
ooooooo

f
g
kkkkkkkkk
nnnnn
r
ss
t
yy

 起こっていることは何だろうか。歌全体の文字数と、初句から大四句までの文字数、結句の七の文字数を比較してみよう。

 全体    
 母音字系10O  9I  6A  3E  3U
 子音字系11K  5N  3Y  2M  2S  1F  1G  1H  1J  1R  1T

 初句から第四句 
 母音字系7O   6I   5A  3E  3U
 子音字系9K   5N  2Y       2S  1F  1G           1R  1T

 結句 
 母音字系3O   3I   1A       
   子音字系 2K       1Y  2M               1H  1J      

 このように比較してみる場合、結句「ひもじきかもよ」で加えられたのは、とりわけて2Mと1Hと1Jであり、これは、結句より前にすでに七音使用されていたOがさらに三音増やされたことよりも大きな意義を持つ。母音に関していえば、すでに六音使用されていたIがさらに三音増やされて九音にされることで、十という最大使用頻度を持つOに拮抗するに到った点は大きいだろう。結句「ひもじきかもよ」の意味とは、つまり、Iを増やすことで歌全体がOの独占的母音字支配となるのを防ぎ、他方、特権的なまでの子音字Kの優越は認めるということなのである。Kについては、子音字における徹底的な優位ばかりか、母音字をも含めても頻度11という最高数を許すに到っている。


 北原白秋の短歌とはこのようなものなのであり、このように読まれなければ、全く読めたことにはならない。
彼は、日常のさまざまな生活情景の中に、ある種の雰囲気や形態の領域や系列、とりわけ色彩や音声の領域や系列を、意識の中でつねに抽象的に生き続けていた人だった。言語は彼にとって、概念としての純粋色彩や音声の数量的側面を招来するための契機であり、道具であり、目の前の光景や社会や世界を、ふつうの生活人のようには、おそらく全く見ていなかったし、捉えていなかった。
用いられている母音字の数がどうの、子音字の数がどうのと、そんなことになんの意味があるのかと訝しむような人には、白秋のような高度の抽象詩人の作品の富は、さほど開示されないままに終わるだろう。
問われているのは、それでは意味とはなにか、誰もが知ったふうに使う意味という言葉、その意味とはなにか、ということなのである。ある言語表現を言い替えれば足れりというのでは全くない文芸表現というものにおいて、そこに用いられた色彩系の効果評価や音声面の数値化などの措置もとらずに、意味だの読みだのが始まるとでもいうのか、ということなのだ。

 

2013年6月15日土曜日

土屋文明晩年のゴキブリ歌





 土屋文明を知らぬ者はない。斉藤茂吉から歌誌『アララギ』の編集発行を継ぎ、アララギ派の中心として、20世紀の歌壇に君臨し続けた。1990年に100歳で逝去するが、それまでに、日本芸術院賞、日本芸術院会員、宮中歌会選者、文化功労者、文化勲章などの名誉を与えられ、没後には従三位に叙されまでしている。

 この土屋文明、栄誉赫々として近代短歌の最後の大立者たる生涯の晩年の歌は、たとえば、次のようなものであった。

敷物も代へたのにゴキブリは不思議不思議子等は言へどもまこと出ありく 

背のはげし本の膠はゴキブリの好き餌といへど防ぐ術なし

寝台古りわらやはらかに馴れたればここを城とし籠るゴキブリ

置く毒に中り死にたるゴキブリか後を頼むとわが枕がみ

眠る前の面に来りて散歩するゴキブリを憎む無告の被害者

何の為にゴキブリ我がまはりにはびこるか背のはげ並ぶ本を見るかな

本郷新花町七十年前貸二階に我を攻めしは小形のゴキブリ

食をつめる如き明け暮れの幾月か我とゴキブリ残し世帯主は夜逃

蚊が来なくなりしと思へばゴキブリか吝しみつづける暖房のため

 土屋文明は中期以降、美しいものや情緒を扱うことを意識的にやめたように見え、これら晩年のゴキブリ歌もその延長上にあるので、格別、驚くべきほどのことがここにあるわけではない。
驚くべきことがあるとすれば、自身の生活に取材しつつ、同時に、生活歌に伴いがちなある種の感情の予定調和を、あいかわらず元気に削ぎ落していこうとしている点であろう。短歌をつくる以上、感情も思いも動かねばならないが、土屋文明の感情や思いはつねに暴走し、異形化する。個々の感情や思いは、発現するや脱皮し、古い殻やしがらみを捨てて、未知の感情や思いになり変わろうとし、さらには予想外の関係性を相互に結ぼうとしはじめる。あるいは、―こちらはもっと面白く、推奨されるべき事態であるが―、関係性などもはや顧慮されず、個々ばらばらであろうとしたり、その場その場でなるがまゝであったりする。
土屋文明の作歌の価値は、近代短歌のバチカンというべきアララギ派の中心にありながら、じつに、深く本質的に異端であったところにある。異端の力を自己抑制するのは中心にある者ではなく、いつも、周辺に侍従してご機嫌を窺う者たちなのだが、なるほど、中心に鎮座坐(ましま)していた彼は、端正だの、格調だのといったおぞましい死体趣味的劣等概念に惑わされることはなかった。
美という野卑の極み、あるいは深みとかいう安酒、幽玄だの霊妙だのというアベノミクス並みの三百代言を全面的に敵にまわし、これと乱闘をくりひろげ続けるというのが詩歌の唯一の仕事であるのは、古今、論を俟たない。なぜ美が、深みが、幽玄が、霊妙さが詩歌の敵かといえば、それらが言葉ひとつひとつのエネルギーを必ず曖昧化し、拡散し、霧散させ、意味や音や特定社会との関係でがんじがらめに拘束し切った上で去勢し、つねに、社会と時代のたまたまの愚鈍な主流層の怠惰な快楽意識の称揚に益してしまうからである。「言葉はなにも証明しない」(三島由紀夫『音楽』)ことなど誰でも知っているが、詩歌は、証明する/しないというレベルを言葉に超えさせようとし、意味を云々するレベルをも超えさせ、岩石や重金属よりも堅固な物質として、おそらく人類の精神にとっての唯一無二の実体として変容し切ろうとする。
土屋文明の晩年のゴキブリ歌をことさら大げさに評価する必要はないにしても、美のほうへ、安らぎのほうへ、深みや熟成などといったもののほうへと情けなくも妄りに自身の言葉が陥らないよう、生涯かけて闘い続けた巨大な姿の名残をそこに見てとるのには適していると言えよう。
もちろん、

食をつめる如き明け暮れの幾月か我とゴキブリ残し世帯主は夜逃

構成主義的な技法で作られたこの歌に縫い込まれた複数時間の処理、視点の重層化、「世帯主」なる登場人物に仮託した運動性、残された「我とゴキブリ」の間にふいに出現してしまう同等性の妙味など、たった一首で凡百の小説を凌駕してしまうような達成があっけらかんと挟みこまれていたりもするのだが、もちろん、これもまた土屋文明ならではの醍醐味といえる。









2013年6月7日金曜日

つかのま海に霧ふかし

―寺山修司と富澤赤黄男




マッチ磨るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

  知らぬ者のない寺山修司の有名な短歌だが、これが富澤赤黄男の次のふたつの俳句から合成されたことも、むろん、いうまでもない周知の事実である。

   一本のマッチをすれば湖と霧


   めつむれば祖国は蒼き海の上


  短歌に馴染んだ者や寺山修司から短詩形文学に入っていった者は、つい、うっかりと寺山の力量を評価して終えがちになるが、多量の短歌をすでに読み終え、いまさら寺山修司の歌でもあるまいという者なら、当然のこと、富澤赤黄男の俳句にこそ惹かれる。

 もちろん、寺山の作風がいくらこれみよがしで鼻につくとはいえ、あれも当時としては、いや、いまだに画期的であざやかな作風には違いないのだから、どちらがいい悪いという問題なのではない。寺山が強調したかった部分はなにか、富澤が達成したことはなにか、そんなところにあらためて目がいくということなのである。

  短歌も俳句も、いまだに個人の嗜好をつよく維持しつつ付きあうべき文芸形態であり続けているから、私の今の好みにもとづいて言わせてもらえば、寺山と富澤とでは、富澤赤黄男のほうが詩的には清々しい達成を遂げている、と言っておきたい気もする。もちろん、清々しさとは、こってりした料理の後で清涼感ある飲料を口が求める、そんな程度の精神の感官の欲求に従って云々してみているほどのことではあるが。

どういう達成かといえば、ようするに、捕捉した世界がひろいということである。「一本のマッチをすれば」や「めつむれば」によって、心身に拘束されて世界経験をせねばならぬ人間存在の条件と詩作上の視点の位置をしっかり明示し、その上で動作と時間性を導入しつつ、一句目の場合は、そこに「湖と霧」を加えることで、潤いを湛えた自然、世界のひろがりと距離的に確保された明瞭さ(=遠くまで続く清澄な湖面)、世界の限りなさ、見わたしや理解し尽くすことの不能性(=霧)を確保している。
二句目においては、「祖国」という永劫変わらぬ限定作用をもたらす人事概念を読み込んだ上で、「蒼き海の上」によって、人界を外れ、超えた、清浄な、自然界と地続きに展開していく抽象世界へとなめらかに読者の精神を走らせていく。
二句とも、確認するまでもない詩歌上の最高度の達成であって、しかもこれが十七音程度で成されてしまっている点、世界の古今東西における詩歌史上での日本俳句の優位を物語ってもいる。

創作活動が戦前戦中戦後にわたった俳人である富澤赤黄男にとって、「祖国」はさまざまな時期のさまざまなイメージの「祖国」であったろう。もちろん、いちばんイメージの強かったのは戦争機械の「祖国」であり、それを支えさせられる中途半端な近代を強いられた民の「祖国」であり、混乱と滅亡の「祖国」であったに違いない。「めつむれば祖国は蒼き海の上」という表現は、そうした「祖国」の救い出しに成功した結実である。言語に助けられて距離の伸縮を自在にあやつり、想像の中に俳句的眺望を開けば、「祖国」は「蒼き海の上」に浮かぶ静かな、ひそやかな謎をなおも秘めさえする自然の列島に戻る。そこでは住民さえまばらな様子ではないか。これほどの救国、愛国を私は目にしたことがないが、まさに詩的言語によってのみ可能な行為といえる。この世に今ある人間は、なにもこの世だけを、ひとつやふたつの地平だけを生きているのではない。世界や宇宙のはてなき全容をふくめて、界とよぶべきものは、目の前に煩わしく展開されるいわゆる現実や現代なるものの他にも、多様無数の展開を持つものであり、富澤赤黄男はそうしたべつの界へとわずかに出てみることで、「祖国」なるものへの処し方を見事に示したのである。

寺山のほうは、富澤に比べれば、はるかに「祖国」への愛は少ない。「身捨つるほどの祖国はありや」という反語表現は、もちろん、すぐに否定的確信を導いてくる。そんな「祖国」などない、という強い確信から来ている表現であり、この思いからしか今後の思想も言動も始まらないという動かしようもない事実そのものでもある。
「マッチ磨るつかのま海に霧ふかし」が描出するのも、富澤が採った「湖」よりはるかに広大な「海」にもかかわらず、まったく見通しのきかない「海」であり、その広大無辺さが人心に希望や未来として機能しない「霧ふか」い「海」である。この「霧」にしても、富澤が描いた爽やかな「霧」とは違う、どこか汚れのような、べたついてくるような「霧」である。かりに晴れたところで、ろくな海面が見えるわけでもなかろうと思わされるような「霧」なのだ。
もちろん、あまりに安易に、人に感傷的な明るさや希望を見させがちな「海」のような語や、やはり感傷的な浪漫性を喚起しがちにさせる「霧」のような語、また、愚劣な集団幻想をいつまでも燃え上がらせ、個人的な不満の簡便な解消先として用いられ続ける「祖国」のような語を、寺山がいちいち注意深く否定し、見切り、断罪しながら作歌したのを忘れてはならないので、寺山にくらべれば驚くほど富澤が素朴に「湖」も「霧」も「海」も用いてしまっていることの、その安易さ、安直さをも見ておかないわけにはいかない。寺山の場合は、たとえば次のような歌におけるほど、「海」を毀貶せずにはおかないのである。

灯台に風吹き雲は時追えりあこがれきしはこの海ならず

 富澤赤黄男が1902年(明治三十五年)生まれ、寺山修司が1935年(昭和10年)生まれという大きな世代差ももちろん影を落としていよう。複雑な屈折や乱反射を含みながらも、富澤が「祖国」なる語の周囲に発生する高揚を経験したことがあった一方、寺山の「祖国」体験は、狭量いっぽうの軍国化と窮乏と虚偽と腐敗と崩壊のそれであった。「身捨つるほどの」ものでありうるのは、より大きな寛い身体や精神となりうるものでなければならないが、そんなものでありうる「祖国」など、寺山の経験にはありようもなかったはずである。

それにして、なお、「マッチ磨るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」とはよく言ったもの、言い得たもの、とも思う。
「身捨つるほどの祖国」などとは、詩歌上のレトリックとしてさえ、口が裂けても言いたくはなかったかもしれないのに。戦後派に不可能だったあっけらかんとしたこんな言語表現が彼に可能だったのは、もちろん、「マッチ磨るつかのま海に」分厚くふかく浮び出る「霧」のほうこそをみずからの身体となし得る見とおしを、寺山がつけていたからである。ともに言葉にすぎない「祖国」と「霧」は、ともに空虚であり、本来なんの内容物も持たないがゆえに、もし使用者の側が容易に自我なるものの感傷的な根をこれらの語から引き上げるすべを獲得しさえすれば、じつはいかようにも置き換えが可能である。そもそも、厳しく現実的に考えれば、個の精神にとってはふかい「霧」程度のものでしかない「祖国」ではなかったか、という発見もあったであろう。ここには、吉本隆明の共同幻想論にそのまま通じるものがある。いかなる場合であれ、詩人や歌人、俳人とは、徹底して言葉を信じない種族たちなのでもある。信じないから、言葉に使われるということがない。言葉を使う種族は、言葉になど使われてはならないのである。

 「霧」のほうこそをみずからの身体となすこと。これは演劇的人間の行動原理でもあろう。やがて演劇へと向かうことになった寺山が、腎臓病でのながい闘病中に、すでに一首一首を舞台上のスポットライトの当たった部分のように鮮やかに演出して作っていたというのは、どこかわかり易過ぎる危険な構図なのだが、この構図の善し悪しはともかく、いずれにしても彼の作歌の底には、自分の《今》や《ここ》でないあらゆる概念やイメージを瞬時に自分の身体とすることのできる、もっと注目すべきすべが、能力があった。この能力の起動時、もちろん、自分などというものは即座に括弧つきの「自分」となり、他のあらゆる概念やイメージ同様、いくらでも取り換え可能なパーツに過ぎなくなるのである。


 「自分」などというものは、どこの誰の「自分」であれ、アントナン・アルトーのいうCsO、器官なき身体にまったく達していない表層的なとりあえずのラベルに過ぎない。そんな「自分」たちがわさわさと、もさもさと語ってやまない喜怒哀楽や個人史など、もちろん一顧だにする必要もないのだが、世俗的には冷酷とも見えるかもしれないこんな態度からのみ、もちろん、はじめて言語表現の界は始まろうとするものでもある。
   



2013年2月17日日曜日

愛しあう者どうしの衰退の姿について

―ユゴーによるシャトーブリアンとレカミエ夫人、
およびシャトーブリアンによるスタール夫人とロッカ





ヴィクトル・ユゴーVictor Hugoの『見聞録Choses vues』の1847年2月12日の項に、前日11日に死去したシャトーブリアン夫人のことが書かれている。

「シャトーブリアン夫人が2月11日に亡くなった。
 痩せて、潤いがなく、黒く、ハシカの痕がひどく目立ち、醜く、慈善的ながら優しくはなく、宗教的ながら知性的ではない人だった」(1)。

シャトーブリアン夫人Madame de Chateaubriandにはいささか酷な記述で始められているが、この後の部分をすこし読み続けてみよう。

「シャトーブリアン氏とともに、あまりにきちんと生きてきた人だった。私がごく若かった時には、シャトーブリアン氏に会いに行くたび、彼女のことが怖かった。彼女にはひどく悪く迎えられたものである。
 シャトーブリアン氏は1847年はじめの時点で麻痺状態であり、レカミエ夫人は盲目になっていた。毎日、3時に、シャトーブリアン氏はレカミエ夫人のベッド脇に運ばれる。この光景には心を打つものがあり、悲しいものだった。もう目の見えなくなった女性が、すでに感じることのできなくなった男性を探し求め、彼らの手が出会うのだ。神よ、祝福されてあれ!生が止まろうとする時にあって、なお、彼らは愛しあっている」(2)。

 19世紀前半のフランス文壇で、まさに一世を風靡したといえる大作家シャトーブリアンChateaubriandと、後にその愛人となった美貌のレカミエ夫人Madame Récamier、このふたりの老後をスケッチしたこの描写は、短くとも鮮烈で、さすがにユゴーならではの印象深い記録となっている。
 かつてロマン派の淵源となるバロック文体を創始してフランス文学を革新し、エスプリの極を体現し、ナポレオンの元に政治家としてのデヴューを遂げ、王政復古の後には大使や大臣を歴任していくことになった著名人が、齢80歳に達した今、麻痺に陥っている。著名人や各界の実力者が集うサロンを構えた美女も盲目となっている。このふたりが、なおも、日々、決まった時間に逢瀬を重ね、互いの体に触れあおうと手を伸ばしてさぐりあう様は、確かに事実でもあったのだろうが、ユゴーによる劇化の演出が一瞬のうちに施されて定着された記述でもあったに違いない。やはり稀代の詩人、劇作家、小説家、政治家であったユゴーの、日常的な創作能力の発揮を見ておくべきところかとも思える。

 しかし、ここで対象となっているシャトーブリアンその人がかつて記した文章の中に、もちろん対象こそ違え、やはり、衰えた男女を描写した光景が見出されるのだとしたら、ユゴーの才能はむしろ、発明のそれというより、模倣のそれと捉え直すべきかとも思われてくる。シャトーブリアンによる『墓の彼方の回想Mémoires d’outre-tombe』の第3部第29巻には、病床に就いた晩年のスタール夫人Madame de Staëlの様子を描いた次のような部分がある(3)。

「ある朝、私はロワイヤル通りの彼女の家に赴いた。窓の鎧戸は三分の二ほど閉ざされ、ベッドは寝室の奥の壁に寄せられていて、左側だけしか通れなくなっていた。ロッドから下がるカーテンは引き寄せられ、枕元でふたつの柱を成していた。スタール夫人は枕で体を支えて、半身を起していた。私は近づき、目がすこし暗闇に慣れると、病人の様子が見えた。ひどい熱が彼女の頬を赤くしていた。彼女の美しい目が闇の中で私をとらえると、『こんにちは、私の大事なフランシス。苦しいけれど、あなたを愛する妨げにはならないわ』と言った。彼女が差し出してきた手を握りしめ、キスをした。頭を上げると、寝床の逆のふちの通路のところに、なにか白く痩せたものが立っているのがわかった。それはロッカ氏だった。顔はやつれ、頬はこけ、目は濁り、形容しがたい顔色をしていた。死にゆくかのようだった。それまで彼に会ったことは一度もなかったし、後で再会することもなかった。彼は口を開かず、私の前を通る時にお辞儀をした。足音がまったく聞こえず、影のように遠ざかっていった。ドアのところでちょっと立ち止まると、雲のように頼りないこの人物はベッドをふり返り、スタール夫人に暇を請うた(4)。ひとりは立って青ざめている。座っているもうひとりは血で赤らんでいるが、その血はまた下がろうとしており、心臓で氷りつこうとしている。黙って見つめあうこの亡霊ふたりには、ゾッとさせられるものがあった」(5)。

 シャトーブリアンがスタール夫人の病床で出会った「ロッカ氏」とは、ジャン=アルベール=ミシェル・ロッカJean-Albert-Michel Roccaのことで、ジュネーヴの名士の息子として生れ、軽騎兵隊少尉としてプロシアとスペインへの遠征に参加し、1808年に重傷を負って帰国した経歴がある。スタール夫人に恋し、愛人となって、1812年からは彼女の旅行に随行するようになる。それでも、彼らの関係は1816年10月まで表沙汰にはならなかった。1817年7月14日にスタール夫人が亡くなった後、おそらく彼女の葬儀や整理もひととおり済んだ頃だろう、1818年にロッカは肺病で亡くなっている(6)。
 シャトーブリアンのこの記述は、『墓の彼方の回想』のこの巻に付された日付によれば1839年のものなので、ユゴーが『見聞録』にシャトーブリアンとレカミエ夫人のことを描いた8年前のことになる。両者はもちろん異なっており、同一の構図とはいえないものだが、それでも先に指摘したように、かつて赫々たる盛名をはせた人物が衰え、愛する同士で衰退の日々を凌いでいる様を描いている点では共通している。

 このふたつの記述の比較検討は、シャトーブリアンとユゴーの視点の違いや、人物描写の際の力点の置き方の違いを知る上では有効な契機となりうるだろう。たとえばユゴーは、観察者である自分と対象であるふたりとの間のやりとりに関わるような描写を一切排除しているのに対し、シャトーブリアンのほうは、描写対象であるスタール夫人からの言葉が観察者である自分にかけられていることや、ロッカが自分にお辞儀をして通っていくことなどを描き込むことで、観察し語る主体と、観察され語られる対象との間の、相互的なコミュニケーションの存在を明示している。描写対象と自分との関係の設定におけるこうした差が、たんにふたりの作家の特性の違いから来るものなのか、ふたりが属している文芸上の方法の風土の違いから来るものなのかなどと考えると、考察すべき問題は末広がりに大きくなっていく。
作家があえて何かを描き込むという場合、それが事実であるかどうかという認識ばかりでなく、そうあってほしい、あり続けてほしいという理想の提示ともなっている場合があるので、シャトーブリアンが描いた観察主体と被観察客体との間の相互的コミュニケーションの存在は、彼の文学的イデアのあり方にまで及ぶ問題性を提起してくる。ふたりの作家を比較しての問題ばかりでなく、ひとりの作家に範囲を限ってさえ、多様な問題群が一時に発生してくることになる。

それらの問題のいちいちについては、ここでは準備がないので、後の検討に委ねたいが、ひとつ気になるのは、ユゴーが、シャトーブリアンの『墓の彼方からの回想』のこの部分を模倣したのではないか、模倣とはいわずとも、少なくとも脳裏に浮かばせながら、かつて盛名をはせた人物の衰退のクロッキーの仕方としてシャトーブリアンが作り出したやり方を、あえてシャトーブリアン自身に向けて描写してみたのではないか、という点である。
もちろん、『墓の彼方の回想』はシャトーブリアンの1848年の死ののちの発表であり、1847年時点のユゴーが、晩年のスタール夫人についてのシャトーブリアンの記述を読んでいるはずはない。しかし、シャトーブリアンによる回想録の朗読会において、ユゴーがスタール夫人についての個所を聞いていた可能性は少なくないであろうし、この印象深い挿話を伝聞のかたちで耳にしていた可能性も少なくないだろう。個人的に何度も会っていたユゴーに、シャトーブリアン自身が物語っていた可能性はさらに高い。
 ここで言うユゴーのシャトーブリアン模倣、あるいは、シャトーブリアンの方法の援用というのは、こうした可能性のうちのいずれかを通してユゴーが受容することになったであろうスタール夫人晩年の描かれ方に由来する、意図的ないし無意識的な行為のことである。

 こういう場合の人物クロッキーにおいては、なるほど、描き手の誰もがおのずと嵌っていくような生来的な形式が人間の精神活動にはあるものかもしれない。
 また、ユゴーがシャトーブリアン方式のクロッキーを採用したからといって、とりたててユゴーにとって非となる行為であるわけでもなく、先行者が顕著なかたちで使用した記述上の方法を適切に援用して対象を処理した、と見ておけばいいだけの話ではある。
そうではあるものの、シャトーブリアンにおいて顕著だった描写方法を、あえてユゴーがシャトーブリアン自身に適用したのだとすれば、ここには、ユゴーの心理の微妙なわだかまりの存在を見ておかないわけにはいかないだろう。
少年時代以来、模範でもあれば目標でもあり、もちろん乗り越えるべきライバルともなったシャトーブリアンへの複雑な思いが、老いさらばえたこのヒーローを目の当たりにして、何人たりとも老病死を避け得ない人間の条件への瞑想とともにいっそう深まったであろうことは否定しようもない。「生が止まろうとする時にあって、なお、彼らは愛しあっている」という感慨の叙述は、シャトーブリアンには見られなかったものであり、約14年後の『レ・ミゼラブル』完成へと向かっていくユゴーの、人間というものに向ける眼差しの独自の進展が現われている個所とさえ見てよいだろう。
この時期、ユゴーは『レ・ミゼラブル』の前身となる『貧民たちLes Misères』(『悲惨』とも訳せる)を執筆中で、すでに、ジャン・バルジャンJean Valjeanならぬジャン・トレジャンJean Tréjeanという主人公を造形していた。1829年の『死刑囚最期の日Le Dérnier Jour d’un condamné』や、やはり死刑制度を告発した1834年の小説『クロード・グーClaude Gueux』の流れにある文学営為で、社会正義と人間の尊厳との合一への彼の志向の受け皿となる作品系列である。
1845年に彼が惹き起こした不倫事件も、人間の業を自分に引き寄せて抱え込んだ上で外部の他者たちを見るという目を深化させたに違いない。不倫現場に警察が踏み込んでの逮捕劇で、貴族院議員であったユゴーにとっては大事件だった。彼自身は議員の不可侵権によって救われたものの、不倫相手のレオニ・ビヤールLéonie Biardはサン・ラザール監獄に2か月拘置されることになる。わが身にまったく非のないような清廉潔白な糾弾者ではない、というところにユゴーという人物の精神の醸成の秘密はあったが、『レ・ミゼラブル』に向かう先行作品を執筆中の彼にとって、自ら惹き起こしたこの事件の影響は大きかったというべきだろう。サン・ラザール監獄で囚人の生活の実情に触れざるをえなかった点も、後の大作に多くの現実的な素材を提供したに違いない。

身体の麻痺したシャトーブリアンと視力を失ったレカミエ夫人について、1847年にユゴーによってなされたクロッキーは、こうしたユゴーの精神状況下になされたものであり、老いさらばえたシャトーブリアンとレカミエ夫人も、あるいは、『レ・ミゼラブル』に結実していく壮大な人間劇の人物群の一部として、また、哀れな人々(レ・ミゼラブル)の一部として、ユゴー自身には見えていたかもしれない。シャトーブリアンの『墓の彼方からの回想』が、彼自身の《私moi》や時代の変遷、出会った人びとたちの多彩な人間劇であるのをすでに超えて、人間というものの悲哀そのものを考察対象としていたように、ユゴーの『レ・ミゼラブル』が人間そのものの条件の宿命性や悲哀を最大のテーマとしていたことは疑いようがないが、自分の最大の作品のテーマに、同じように「人類」を設定せざるをえなかったふたりが、かたや観察と描写の主体として、他方は被観察対象として定着されることになったという点で、ユゴーの『見聞録Choses vues』の1847年2月12日の項は、特筆すべきページとなったと言えるだろう。
壮大な人間観察記録の集成でもある『墓の彼方からの回想』の著者シャトーブリアンその人が、ここで被観察対象として定着されているということは、観察者・判定者がいやおうなしに観察され判定される側となり行き、主体の特性を行使することに長けた存在がついに客体となって生と精神の衰退に向かっていくさまそのものでもある。観察、考察、価値判断、ナレーション、編集にわたる多様な文学問題が集結し、露わに裂け出た特別の文学的瞬間が、ここにはある。





註
(1)Victor Hugo « Choses vues 1847-1848», édition d’Hubert Juin, Gallimard,folio,1972, p.47-48.
ヴィクトル・ユゴーの『見聞録Choses vues』は、彼の多層的な長い人生の過程で記録された厖大な量の日記、回想、ノートなどから編集されたもので、編集は彼の死後に遺言執行者たちによってなされている。編集行為やその形体を考える際、ユゴーのみによるテキストとは言い難く、様々な文学的問題を含み持つテキストで、扱いには注意を要する。だが、ここでは便宜上、煩瑣な検討にわたる部分への目配りは省略する。
(2)op.cit., p.48.
(3)シャトーブリアン『墓の彼方からの回想Mémoires d’outre-tombe』の部や巻の構成は、諸版によって異なる。ここではモーリス・ルヴァイヤンMaurice Levaillant とジョルジュ・ムリニエGeorges Moulinierによる1951年のプレイヤード版の第Ⅱ巻を使用。Chateaubriand « Mémoires d’outre-tombeⅡ», édition de Maurice Levaillant et Georges Moulinier, Gallimard,Bibliothèque de la Pléiade,1951.
(4)op.cit.,p.214.原文は « Arrêtée un moment à la porte, la nueuse idole frôlant les doigts se retourna vers le lit pour ajourner madame de Staël »。イタリックの個所は原文でもイタリックになっており、シャトーブリアンがル・トゥルヌールLe Tourneur訳『オシアンOssian』から引用したもの。nueuse idoleは16世紀のフランス語表現を借りたもので、プレイヤード版p.1078の註によれば、fantôme inconsistant comme un nuageに相当するとある。ここでは、これを生かしながら、ajournerを「日延べする」=「日をおいてからの次の再会を約する」と解釈して意訳した。
(5)op.cit.,p.214.
(6)op.cit.,p1422, Index alphabétique des noms propres contenus dans le texte des  Mémoires d’outre-tombeに依拠する。



2013年1月1日火曜日

言-寺としての「詩」の景において…  また、詩論のかわりに、詩論はたぶん、永遠に逸れながら…





 詩論を書くつもりだったが時間がとれずに…、といった文言が、詩人の長尾高弘さんからのメールにあった。

きっと面白いものになるだろうに、と思ったり、「詩論」というふうに構えると書きづらくなるかもしれない、と思ったりした。
こういう思いは、もちろん、すぐに自分に跳ね返る。詩論かぁ…、とつぶやいているうちに、いろいろと思いが繁茂しはじめる。でも、いまの自分の場合、「詩論」というふうに構えて考え出すと、あまり面白いところや美味しいところには抜けていけそうにないな、とすぐ思う。こういうテーマは、すこしズラしたり、他のものにかこつけて考えたりしたほうが旨みが出やすい気がする。

過去にはたくさんの詩論があって、つらつら思い出すに、どれもそれなりに面白いし頷かされるが、どれも不十分に見えるのも事実なので、屋上屋を架す気ならともかく、ちょっと違うアプローチをしないと難しいだろうな、と思う。
難しい、というのは、自分の身に添わない議論に陥って終わることになりがちかな、ということだ。よく学校でやらされるような「抒情詩ですか?叙景詩ですか?」といった形式論をたくさん準備してみたところで、あまり意味があるとは思えない。にもかかわらず、「詩論」という構えは、人をそちらの不毛地帯のほうへと引きずり込みがちになるのだ。
「抒情詩ですか?叙景詩ですか?」という構えなど、一種のナンセンス行為としては面白いが、エネルギーの無駄な使い方としてはなかなかのものだ。
「情」を通ってしか「叙景詩」は出現しようがないので、あらゆる「叙景詩」は「抒情詩」の集合に含まれるし、いっぽう、「景」というものを、意識がとりあえず自分の外のものとして触れる全情報と見れば、「叙景詩」でない詩などありえない。漢字をはじめとする文字自体が、そもそも詩人には「景」であり、生成論において「情」と「景」ははじめから分けて考えることはできない。

詩の読者の立場に立つ場合にもいっそう問題含みで、読者は、遠山や桜や海を見るように詩の文字づらを見るところからしか、詩を読みはじめようもないのを思えば、読む行為を支える「情」が文字づらという「景」に出会って、表裏一体のべつの審級の「情」に溶け込んでいくはずで、そもそもからして豪勢な精神と物質の混入現象の豊饒さのなかに読者は投げ込まれている。吉増剛造さんの長編詩などは、そういう認識が深まっていなければ出現しようがないものだ。
行為と呼んでしまえば狭め過ぎてしまう読書という現象、あるいは事態、事件とさえ言ったほうが好都合かもしれない生起を構成する「景」の構造や環境には、さらに、文字づら以外の物質的なすべてのものがいやおうなく侵入し、これについて思考しようとする者を絶望的なまでの惑乱に巻き込んでしまう。このあたりのことについては、たとえばル・クレジオが、奇跡的な傑作『愛する大地』のプロローグであんなにみごとに触れていたし、1980年前後にNHKの映像作家だった佐々木昭一郎が、『赤い花』や『四季・ユートピアノ』などで、人が読み、書き、聞くことの環境依存性を映像によって印象深く追って、「景」と「情」の一体の場において発生する構造と環境のどうしようもないまでの問題性の深さ広さへの認識を、つよく喚起し続けていた。もちろん、たびあるごとに、読書する人物や本のページを写し出すゴダールやトリュフォー、(…ゴダールの場合など、そもそもからして、過去の書物からの引用によって映画の主軸が支えられている…)、光と影と水と廃墟や崩壊の予感とともに本を提示し続けるタルコフスキーの映像なども、読書についての安易な見方につよくNONを放ち続けてやまない。
すぐにこんなふうに射程の広がってしまう「抒情詩ですか?叙景詩ですか?」には、哲学の経験論と認識論などの問題群にそのまま続く問題構造があるわけで、学校での安易な詩分類教育は、詩の生命も、読書の生命もひどく損なってしまう。偏向教育どころか、人間破壊の場とでもいうほかない。

こうしたことはさておき、「詩論」というものを、詩の解剖にむかうような散文行為でなく、一瞬後の新たな詩を発火させるような散文行為と考えるならば、現在時点でのそれは、なんというか、だらだら、ぬめぬめ、れろれろ…と煮え切らない、はっきりしない言表を積極的に励ますようなものであるべきように感じる。
安永蕗子は短歌を啖呵だと言い、たしかに、短歌の場合ならばそういう見解にも一理も二理もあると思えるが、詩というものは啖呵でなどあってはならず、今の時代にあってはなおさら啖呵の真逆にむかうべきものであるように思える。
宇宙論における超ひも理論や膜理論ではないが、ああでもなくこうでもないが、あれもこれも俎上に載せて繋げている《場》のような、ドゥルーズでいえば存立平面のようなものであり続けるべきである、と感じる。いろいろな議論や価値観のどれかの立場にかたよって立ってしまうのでなく、どれにも通じている言表のとりあえずの(…決定的ではなく、断じて堅固ではない…)お盆、台地、網の目などのようなもの。できれば、意識や正気にもかたよってしまわず、それらの外とも自由自在に行き来できる言語装置。ガタリは「コギト以外の存在の仕方は意識の外に基礎を置く」と言い、《ひと》が否応なく非・人称であり、前-個人であることを強調したものだし、レヴィナスは「存在と違うものへ移ること、存在とは違うしかたで。違ったしかたで存在するというのではなく、存在するというのとは違って。存在-しない、というのでもすでになく」と書き、こうでも書かなければ、ナチス政権下に失われた多くの知己や親族たちのことを「存在」の語の圏域などによっては掬いようもなかったからでもあろうが、…震撼させられるような、高度に詩的なこうした思弁での哲学の作り直しに到る他ない切実な要請にも逸れないように、と思う。
というのも、ここに人類の現在があり続けているからだし、そういう現在と言表行為とは切り離しようもなく、…漢字で「詩」という景をとらえることから詩に接するほかない日本人の場合、言-寺としての「詩」の景に目を瞑るわけにもいかぬがゆえに、供養の、祈りの言葉を言-寺という建物において発し、発するとともに、同時になにひとつ言葉を発しないままに瞑するに至る方向性もまた、細くてもつよい手で、捧げ持っていかなければならない…

そんなことを、とりとめなく、思う、…詩論のかわりに、詩論はたぶん、永遠に逸れながら…