詩論を書くつもりだったが時間がとれずに…、といった文言が、詩人の長尾高弘さんからのメールにあった。
きっと面白いものになるだろうに、と思ったり、「詩論」というふうに構えると書きづらくなるかもしれない、と思ったりした。
こういう思いは、もちろん、すぐに自分に跳ね返る。詩論かぁ…、とつぶやいているうちに、いろいろと思いが繁茂しはじめる。でも、いまの自分の場合、「詩論」というふうに構えて考え出すと、あまり面白いところや美味しいところには抜けていけそうにないな、とすぐ思う。こういうテーマは、すこしズラしたり、他のものにかこつけて考えたりしたほうが旨みが出やすい気がする。
過去にはたくさんの詩論があって、つらつら思い出すに、どれもそれなりに面白いし頷かされるが、どれも不十分に見えるのも事実なので、屋上屋を架す気ならともかく、ちょっと違うアプローチをしないと難しいだろうな、と思う。
難しい、というのは、自分の身に添わない議論に陥って終わることになりがちかな、ということだ。よく学校でやらされるような「抒情詩ですか?叙景詩ですか?」といった形式論をたくさん準備してみたところで、あまり意味があるとは思えない。にもかかわらず、「詩論」という構えは、人をそちらの不毛地帯のほうへと引きずり込みがちになるのだ。
「抒情詩ですか?叙景詩ですか?」という構えなど、一種のナンセンス行為としては面白いが、エネルギーの無駄な使い方としてはなかなかのものだ。
「情」を通ってしか「叙景詩」は出現しようがないので、あらゆる「叙景詩」は「抒情詩」の集合に含まれるし、いっぽう、「景」というものを、意識がとりあえず自分の外のものとして触れる全情報と見れば、「叙景詩」でない詩などありえない。漢字をはじめとする文字自体が、そもそも詩人には「景」であり、生成論において「情」と「景」ははじめから分けて考えることはできない。
詩の読者の立場に立つ場合にもいっそう問題含みで、読者は、遠山や桜や海を見るように詩の文字づらを見るところからしか、詩を読みはじめようもないのを思えば、読む行為を支える「情」が文字づらという「景」に出会って、表裏一体のべつの審級の「情」に溶け込んでいくはずで、そもそもからして豪勢な精神と物質の混入現象の豊饒さのなかに読者は投げ込まれている。吉増剛造さんの長編詩などは、そういう認識が深まっていなければ出現しようがないものだ。
行為と呼んでしまえば狭め過ぎてしまう読書という現象、あるいは事態、事件とさえ言ったほうが好都合かもしれない生起を構成する「景」の構造や環境には、さらに、文字づら以外の物質的なすべてのものがいやおうなく侵入し、これについて思考しようとする者を絶望的なまでの惑乱に巻き込んでしまう。このあたりのことについては、たとえばル・クレジオが、奇跡的な傑作『愛する大地』のプロローグであんなにみごとに触れていたし、1980年前後にNHKの映像作家だった佐々木昭一郎が、『赤い花』や『四季・ユートピアノ』などで、人が読み、書き、聞くことの環境依存性を映像によって印象深く追って、「景」と「情」の一体の場において発生する構造と環境のどうしようもないまでの問題性の深さ広さへの認識を、つよく喚起し続けていた。もちろん、たびあるごとに、読書する人物や本のページを写し出すゴダールやトリュフォー、(…ゴダールの場合など、そもそもからして、過去の書物からの引用によって映画の主軸が支えられている…)、光と影と水と廃墟や崩壊の予感とともに本を提示し続けるタルコフスキーの映像なども、読書についての安易な見方につよくNONを放ち続けてやまない。
すぐにこんなふうに射程の広がってしまう「抒情詩ですか?叙景詩ですか?」には、哲学の経験論と認識論などの問題群にそのまま続く問題構造があるわけで、学校での安易な詩分類教育は、詩の生命も、読書の生命もひどく損なってしまう。偏向教育どころか、人間破壊の場とでもいうほかない。
こうしたことはさておき、「詩論」というものを、詩の解剖にむかうような散文行為でなく、一瞬後の新たな詩を発火させるような散文行為と考えるならば、現在時点でのそれは、なんというか、だらだら、ぬめぬめ、れろれろ…と煮え切らない、はっきりしない言表を積極的に励ますようなものであるべきように感じる。
安永蕗子は短歌を啖呵だと言い、たしかに、短歌の場合ならばそういう見解にも一理も二理もあると思えるが、詩というものは啖呵でなどあってはならず、今の時代にあってはなおさら啖呵の真逆にむかうべきものであるように思える。
宇宙論における超ひも理論や膜理論ではないが、ああでもなくこうでもないが、あれもこれも俎上に載せて繋げている《場》のような、ドゥルーズでいえば存立平面のようなものであり続けるべきである、と感じる。いろいろな議論や価値観のどれかの立場にかたよって立ってしまうのでなく、どれにも通じている言表のとりあえずの(…決定的ではなく、断じて堅固ではない…)お盆、台地、網の目などのようなもの。できれば、意識や正気にもかたよってしまわず、それらの外とも自由自在に行き来できる言語装置。ガタリは「コギト以外の存在の仕方は意識の外に基礎を置く」と言い、《ひと》が否応なく非・人称であり、前-個人であることを強調したものだし、レヴィナスは「存在と違うものへ移ること、存在とは違うしかたで。違ったしかたで存在するというのではなく、存在するというのとは違って。存在-しない、というのでもすでになく」と書き、こうでも書かなければ、ナチス政権下に失われた多くの知己や親族たちのことを「存在」の語の圏域などによっては掬いようもなかったからでもあろうが、…震撼させられるような、高度に詩的なこうした思弁での哲学の作り直しに到る他ない切実な要請にも逸れないように、と思う。
というのも、ここに人類の現在があり続けているからだし、そういう現在と言表行為とは切り離しようもなく、…漢字で「詩」という景をとらえることから詩に接するほかない日本人の場合、言-寺としての「詩」の景に目を瞑るわけにもいかぬがゆえに、供養の、祈りの言葉を言-寺という建物において発し、発するとともに、同時になにひとつ言葉を発しないままに瞑するに至る方向性もまた、細くてもつよい手で、捧げ持っていかなければならない…
そんなことを、とりとめなく、思う、…詩論のかわりに、詩論はたぶん、永遠に逸れながら…
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