とはいえ、もちろん、
ほのかなる水くだもののにほひにもかなしや心疲れむとする
山羊の乳と山椒のしめりまじりたるそよ風吹いて夏は来りぬ
前者は、なるほど「かなしや心疲れむとする」
次のような歌ともなれば、読者のほうは、
青柿のかの柿の木に小夜ふけて白き猫ゆくひもじきかもよ
なんということもない歌に見える。夜ふけ、
しかし、考えてみれば、夜ふけなのだから、
ここまでのことがすぐに見抜けるかどうか、この歌においては、
では、この歌の場合、柿の「青」も猫の「白」
「青柿」や「白き猫」、さらには「青」や「白」
猫のことを言うとともに、作者の心情をも語っているかのような「 ひもじきかもよ」という表現はどう捉えるのか、重要ではないか… ふつうの短歌読者はそう思うだろうが、もちろん、 さほど深いわけでもない一定程度の意味あいと効果は読みとってお くのに反対はしないにしても、やはり、 これは短歌の常套の収め方のひとつに過ぎないと済ましておけばよ い。いうまでもないことだが、短歌においては、 頻出するこうした心情表現を適当にあしらって、 正面から真顔で応対しないでおくというのも作法のうちなのである 。
こうも考えておくべきかもしれない。もし「ひもじきかもよ」 の意義をこの短歌において捉え直そうとするならば、 少々めんどうな作業に入り込まねばならないだろう、と。「 ひもじき」が持つ一般的な意味を云々するよりも、 音声面での検討をし直しておくべきだということになろう、と。
めんどうな作業に、少し踏み込んでみよう。 この歌はひらがなで書き直すとこうなる。
あおがきのかのかきのきにさよふけてしろきねこゆくひもじきかも よ
さらにローマ字で音声面を記述するとこうなる。
Ao ga ki no
Ka no ka ki no ki ni
Sa yo fu ke te
Si ro ki ne ko yu ku
Hi mo ji ki ka mo yo
これを子音+母音、
a
fu
ga
hi
ji
ka ka ka
ke
ki kiki ki ki
ko
ku
mo mo
ni
ne
no no no
o
ro
sa
si
te
yo
yu
yo
これだけでも、すでにkiとkaの使用頻度の突出が見てとれるが
aaaaaa
iiiiiiiii
uuu
eee
oooooooooo
f
g
h
j
kkkkkkkkkkk
mm
nnnnn
r
ss
t
yyy
白秋のこの短歌における音声素を母音字と子音字レベルまで分解
ここで、結句と、
〔結句〕
ひもじきかもよ
Hi mo ji ki ka mo yo
a
iii
ooo
h
j
kk
mm
y
〔初句から第四句〕
あおがきのかのかきのきにさよふけてしろきねこゆく
Ao ga ki no
Ka no ka ki no ki ni
Sa yo fu ke te
Si ro ki ne ko yu ku
aaaaa
iiiiii
uuu
eee
ooooooo
f
g
kkkkkkkkk
nnnnn
r
ss
t
yy
起こっていることは何だろうか。歌全体の文字数と、
全体
母音字系10O 9I 6A 3E 3U
子音字系11K 5N 3Y 2M 2S 1F 1G 1H 1J 1R 1T
初句から第四句
母音字系7O 6I 5A 3E 3U
子音字系9K 5N 2Y 2S 1F 1G 1R 1T
結句
母音字系3O 3I 1A
子音字系 2K 1Y 2M 1H 1J
このように比較してみる場合、結句「ひもじきかもよ」
北原白秋の短歌とはこのようなものなのであり、
彼は、日常のさまざまな生活情景の中に、 ある種の雰囲気や形態の領域や系列、 とりわけ色彩や音声の領域や系列を、 意識の中でつねに抽象的に生き続けていた人だった。 言語は彼にとって、 概念としての純粋色彩や音声の数量的側面を招来するための契機で あり、道具であり、目の前の光景や社会や世界を、 ふつうの生活人のようには、おそらく全く見ていなかったし、 捉えていなかった。
用いられている母音字の数がどうの、子音字の数がどうのと、 そんなことになんの意味があるのかと訝しむような人には、 白秋のような高度の抽象詩人の作品の富は、 さほど開示されないままに終わるだろう。
問われているのは、それでは意味とはなにか、 誰もが知ったふうに使う意味という言葉、その意味とはなにか、 ということなのである。 ある言語表現を言い替えれば足れりというのでは全くない文芸表現 というものにおいて、 そこに用いられた色彩系の効果評価や音声面の数値化などの措置も とらずに、意味だの読みだのが始まるとでもいうのか、 ということなのだ。
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