―寺山修司と富澤赤黄男
マッチ磨るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
一本のマッチをすれば湖と霧
めつむれば祖国は蒼き海の上
短歌に馴染んだ者や寺山修司から短詩形文学に入っていった者は、
もちろん、寺山の作風がいくらこれみよがしで鼻につくとはいえ、
短歌も俳句も、
どういう達成かといえば、ようするに、捕捉した世界がひろいということである。「一本のマッチをすれば」や「めつむれば」によって、心身に拘束されて世界経験をせねばならぬ人間存在の条件と詩作上の視点の位置をしっかり明示し、その上で動作と時間性を導入しつつ、一句目の場合は、そこに「湖と霧」を加えることで、潤いを湛えた自然、世界のひろがりと距離的に確保された明瞭さ(=遠くまで続く清澄な湖面)、世界の限りなさ、見わたしや理解し尽くすことの不能性(=霧)を確保している。
二句目においては、「祖国」という永劫変わらぬ限定作用をもたらす人事概念を読み込んだ上で、「蒼き海の上」によって、人界を外れ、超えた、清浄な、自然界と地続きに展開していく抽象世界へとなめらかに読者の精神を走らせていく。
二句とも、確認するまでもない詩歌上の最高度の達成であって、しかもこれが十七音程度で成されてしまっている点、世界の古今東西における詩歌史上での日本俳句の優位を物語ってもいる。
創作活動が戦前戦中戦後にわたった俳人である富澤赤黄男にとって、「祖国」はさまざまな時期のさまざまなイメージの「祖国」であったろう。もちろん、いちばんイメージの強かったのは戦争機械の「祖国」であり、それを支えさせられる中途半端な近代を強いられた民の「祖国」であり、混乱と滅亡の「祖国」であったに違いない。「めつむれば祖国は蒼き海の上」という表現は、そうした「祖国」の救い出しに成功した結実である。言語に助けられて距離の伸縮を自在にあやつり、想像の中に俳句的眺望を開けば、「祖国」は「蒼き海の上」に浮かぶ静かな、ひそやかな謎をなおも秘めさえする自然の列島に戻る。そこでは住民さえまばらな様子ではないか。これほどの救国、愛国を私は目にしたことがないが、まさに詩的言語によってのみ可能な行為といえる。この世に今ある人間は、なにもこの世だけを、ひとつやふたつの地平だけを生きているのではない。世界や宇宙のはてなき全容をふくめて、界とよぶべきものは、目の前に煩わしく展開されるいわゆる現実や現代なるものの他にも、多様無数の展開を持つものであり、富澤赤黄男はそうしたべつの界へとわずかに出てみることで、「祖国」なるものへの処し方を見事に示したのである。
寺山のほうは、富澤に比べれば、はるかに「祖国」への愛は少ない。「身捨つるほどの祖国はありや」という反語表現は、もちろん、すぐに否定的確信を導いてくる。そんな「祖国」などない、という強い確信から来ている表現であり、この思いからしか今後の思想も言動も始まらないという動かしようもない事実そのものでもある。
「マッチ磨るつかのま海に霧ふかし」が描出するのも、
もちろん、あまりに安易に、人に感傷的な明るさや希望を見させがちな「海」のような語や、やはり感傷的な浪漫性を喚起しがちにさせる「霧」のような語、また、愚劣な集団幻想をいつまでも燃え上がらせ、個人的な不満の簡便な解消先として用いられ続ける「祖国」のような語を、寺山がいちいち注意深く否定し、見切り、断罪しながら作歌したのを忘れてはならないので、寺山にくらべれば驚くほど富澤が素朴に「湖」も「霧」も「海」も用いてしまっていることの、その安易さ、安直さをも見ておかないわけにはいかない。寺山の場合は、たとえば次のような歌におけるほど、「海」を毀貶せずにはおかないのである。
灯台に風吹き雲は時追えりあこがれきしはこの海ならず
富澤赤黄男が1902年(明治三十五年)生まれ、寺山修司が1935年(昭和10年)生まれという大きな世代差ももちろん影を落としていよう。複雑な屈折や乱反射を含みながらも、富澤が「祖国」なる語の周囲に発生する高揚を経験したことがあった一方、寺山の「祖国」体験は、狭量いっぽうの軍国化と窮乏と虚偽と腐敗と崩壊のそれであった。「身捨つるほどの」ものでありうるのは、より大きな寛い身体や精神となりうるものでなければならないが、そんなものでありうる「祖国」など、寺山の経験にはありようもなかったはずである。
それにして、なお、「マッチ磨るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」とはよく言ったもの、言い得たもの、とも思う。
「身捨つるほどの祖国」などとは、「霧」のほうこそをみずからの身体となすこと。
「自分」などというものは、どこの誰の「自分」であれ、
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