―ユゴーによるシャトーブリアンとレカミエ夫人、
およびシャトーブリアンによるスタール夫人とロッカ
ヴィクトル・ユゴーVictor Hugoの『見聞録Choses vues』の1847年2月12日の項に、前日11日に死去したシャトーブリアン夫人のことが書かれている。
「シャトーブリアン夫人が2月11日に亡くなった。
痩せて、潤いがなく、黒く、ハシカの痕がひどく目立ち、醜く、慈善的ながら優しくはなく、宗教的ながら知性的ではない人だった」(1)。
シャトーブリアン夫人Madame de Chateaubriandにはいささか酷な記述で始められているが、この後の部分をすこし読み続けてみよう。
「シャトーブリアン氏とともに、あまりにきちんと生きてきた人だった。私がごく若かった時には、シャトーブリアン氏に会いに行くたび、彼女のことが怖かった。彼女にはひどく悪く迎えられたものである。
シャトーブリアン氏は1847年はじめの時点で麻痺状態であり、レカミエ夫人は盲目になっていた。毎日、3時に、シャトーブリアン氏はレカミエ夫人のベッド脇に運ばれる。この光景には心を打つものがあり、悲しいものだった。もう目の見えなくなった女性が、すでに感じることのできなくなった男性を探し求め、彼らの手が出会うのだ。神よ、祝福されてあれ!生が止まろうとする時にあって、なお、彼らは愛しあっている」(2)。
19世紀前半のフランス文壇で、まさに一世を風靡したといえる大作家シャトーブリアンChateaubriandと、後にその愛人となった美貌のレカミエ夫人Madame Récamier、このふたりの老後をスケッチしたこの描写は、短くとも鮮烈で、さすがにユゴーならではの印象深い記録となっている。
かつてロマン派の淵源となるバロック文体を創始してフランス文学を革新し、エスプリの極を体現し、ナポレオンの元に政治家としてのデヴューを遂げ、王政復古の後には大使や大臣を歴任していくことになった著名人が、齢80歳に達した今、麻痺に陥っている。著名人や各界の実力者が集うサロンを構えた美女も盲目となっている。このふたりが、なおも、日々、決まった時間に逢瀬を重ね、互いの体に触れあおうと手を伸ばしてさぐりあう様は、確かに事実でもあったのだろうが、ユゴーによる劇化の演出が一瞬のうちに施されて定着された記述でもあったに違いない。やはり稀代の詩人、劇作家、小説家、政治家であったユゴーの、日常的な創作能力の発揮を見ておくべきところかとも思える。
しかし、ここで対象となっているシャトーブリアンその人がかつて記した文章の中に、もちろん対象こそ違え、やはり、衰えた男女を描写した光景が見出されるのだとしたら、ユゴーの才能はむしろ、発明のそれというより、模倣のそれと捉え直すべきかとも思われてくる。シャトーブリアンによる『墓の彼方の回想Mémoires d’outre-tombe』の第3部第29巻には、病床に就いた晩年のスタール夫人Madame de Staëlの様子を描いた次のような部分がある(3)。
「ある朝、私はロワイヤル通りの彼女の家に赴いた。窓の鎧戸は三分の二ほど閉ざされ、ベッドは寝室の奥の壁に寄せられていて、左側だけしか通れなくなっていた。ロッドから下がるカーテンは引き寄せられ、枕元でふたつの柱を成していた。スタール夫人は枕で体を支えて、半身を起していた。私は近づき、目がすこし暗闇に慣れると、病人の様子が見えた。ひどい熱が彼女の頬を赤くしていた。彼女の美しい目が闇の中で私をとらえると、『こんにちは、私の大事なフランシス。苦しいけれど、あなたを愛する妨げにはならないわ』と言った。彼女が差し出してきた手を握りしめ、キスをした。頭を上げると、寝床の逆のふちの通路のところに、なにか白く痩せたものが立っているのがわかった。それはロッカ氏だった。顔はやつれ、頬はこけ、目は濁り、形容しがたい顔色をしていた。死にゆくかのようだった。それまで彼に会ったことは一度もなかったし、後で再会することもなかった。彼は口を開かず、私の前を通る時にお辞儀をした。足音がまったく聞こえず、影のように遠ざかっていった。ドアのところでちょっと立ち止まると、雲のように頼りないこの人物はベッドをふり返り、スタール夫人に暇を請うた(4)。ひとりは立って青ざめている。座っているもうひとりは血で赤らんでいるが、その血はまた下がろうとしており、心臓で氷りつこうとしている。黙って見つめあうこの亡霊ふたりには、ゾッとさせられるものがあった」(5)。
シャトーブリアンがスタール夫人の病床で出会った「ロッカ氏」とは、ジャン=アルベール=ミシェル・ロッカJean-Albert-Michel Roccaのことで、ジュネーヴの名士の息子として生れ、軽騎兵隊少尉としてプロシアとスペインへの遠征に参加し、1808年に重傷を負って帰国した経歴がある。スタール夫人に恋し、愛人となって、1812年からは彼女の旅行に随行するようになる。それでも、彼らの関係は1816年10月まで表沙汰にはならなかった。1817年7月14日にスタール夫人が亡くなった後、おそらく彼女の葬儀や整理もひととおり済んだ頃だろう、1818年にロッカは肺病で亡くなっている(6)。
シャトーブリアンのこの記述は、『墓の彼方の回想』のこの巻に付された日付によれば1839年のものなので、ユゴーが『見聞録』にシャトーブリアンとレカミエ夫人のことを描いた8年前のことになる。両者はもちろん異なっており、同一の構図とはいえないものだが、それでも先に指摘したように、かつて赫々たる盛名をはせた人物が衰え、愛する同士で衰退の日々を凌いでいる様を描いている点では共通している。
このふたつの記述の比較検討は、シャトーブリアンとユゴーの視点の違いや、人物描写の際の力点の置き方の違いを知る上では有効な契機となりうるだろう。たとえばユゴーは、観察者である自分と対象であるふたりとの間のやりとりに関わるような描写を一切排除しているのに対し、シャトーブリアンのほうは、描写対象であるスタール夫人からの言葉が観察者である自分にかけられていることや、ロッカが自分にお辞儀をして通っていくことなどを描き込むことで、観察し語る主体と、観察され語られる対象との間の、相互的なコミュニケーションの存在を明示している。描写対象と自分との関係の設定におけるこうした差が、たんにふたりの作家の特性の違いから来るものなのか、ふたりが属している文芸上の方法の風土の違いから来るものなのかなどと考えると、考察すべき問題は末広がりに大きくなっていく。
作家があえて何かを描き込むという場合、それが事実であるかどうかという認識ばかりでなく、そうあってほしい、あり続けてほしいという理想の提示ともなっている場合があるので、シャトーブリアンが描いた観察主体と被観察客体との間の相互的コミュニケーションの存在は、彼の文学的イデアのあり方にまで及ぶ問題性を提起してくる。ふたりの作家を比較しての問題ばかりでなく、ひとりの作家に範囲を限ってさえ、多様な問題群が一時に発生してくることになる。
それらの問題のいちいちについては、ここでは準備がないので、後の検討に委ねたいが、ひとつ気になるのは、ユゴーが、シャトーブリアンの『墓の彼方からの回想』のこの部分を模倣したのではないか、模倣とはいわずとも、少なくとも脳裏に浮かばせながら、かつて盛名をはせた人物の衰退のクロッキーの仕方としてシャトーブリアンが作り出したやり方を、あえてシャトーブリアン自身に向けて描写してみたのではないか、という点である。
もちろん、『墓の彼方の回想』はシャトーブリアンの1848年の死ののちの発表であり、1847年時点のユゴーが、晩年のスタール夫人についてのシャトーブリアンの記述を読んでいるはずはない。しかし、シャトーブリアンによる回想録の朗読会において、ユゴーがスタール夫人についての個所を聞いていた可能性は少なくないであろうし、この印象深い挿話を伝聞のかたちで耳にしていた可能性も少なくないだろう。個人的に何度も会っていたユゴーに、シャトーブリアン自身が物語っていた可能性はさらに高い。
ここで言うユゴーのシャトーブリアン模倣、あるいは、シャトーブリアンの方法の援用というのは、こうした可能性のうちのいずれかを通してユゴーが受容することになったであろうスタール夫人晩年の描かれ方に由来する、意図的ないし無意識的な行為のことである。
こういう場合の人物クロッキーにおいては、なるほど、描き手の誰もがおのずと嵌っていくような生来的な形式が人間の精神活動にはあるものかもしれない。
また、ユゴーがシャトーブリアン方式のクロッキーを採用したからといって、とりたててユゴーにとって非となる行為であるわけでもなく、先行者が顕著なかたちで使用した記述上の方法を適切に援用して対象を処理した、と見ておけばいいだけの話ではある。
ここで言うユゴーのシャトーブリアン模倣、あるいは、シャトーブリアンの方法の援用というのは、こうした可能性のうちのいずれかを通してユゴーが受容することになったであろうスタール夫人晩年の描かれ方に由来する、意図的ないし無意識的な行為のことである。
こういう場合の人物クロッキーにおいては、なるほど、描き手の誰もがおのずと嵌っていくような生来的な形式が人間の精神活動にはあるものかもしれない。
また、ユゴーがシャトーブリアン方式のクロッキーを採用したからといって、とりたててユゴーにとって非となる行為であるわけでもなく、先行者が顕著なかたちで使用した記述上の方法を適切に援用して対象を処理した、と見ておけばいいだけの話ではある。
そうではあるものの、シャトーブリアンにおいて顕著だった描写方法を、あえてユゴーがシャトーブリアン自身に適用したのだとすれば、ここには、ユゴーの心理の微妙なわだかまりの存在を見ておかないわけにはいかないだろう。
少年時代以来、模範でもあれば目標でもあり、もちろん乗り越えるべきライバルともなったシャトーブリアンへの複雑な思いが、老いさらばえたこのヒーローを目の当たりにして、何人たりとも老病死を避け得ない人間の条件への瞑想とともにいっそう深まったであろうことは否定しようもない。「生が止まろうとする時にあって、なお、彼らは愛しあっている」という感慨の叙述は、シャトーブリアンには見られなかったものであり、約14年後の『レ・ミゼラブル』完成へと向かっていくユゴーの、人間というものに向ける眼差しの独自の進展が現われている個所とさえ見てよいだろう。
この時期、ユゴーは『レ・ミゼラブル』の前身となる『貧民たちLes Misères』(『悲惨』とも訳せる)を執筆中で、すでに、ジャン・バルジャンJean Valjeanならぬジャン・トレジャンJean Tréjeanという主人公を造形していた。1829年の『死刑囚最期の日Le Dérnier Jour d’un condamné』や、やはり死刑制度を告発した1834年の小説『クロード・グーClaude Gueux』の流れにある文学営為で、社会正義と人間の尊厳との合一への彼の志向の受け皿となる作品系列である。
1845年に彼が惹き起こした不倫事件も、人間の業を自分に引き寄せて抱え込んだ上で外部の他者たちを見るという目を深化させたに違いない。不倫現場に警察が踏み込んでの逮捕劇で、貴族院議員であったユゴーにとっては大事件だった。彼自身は議員の不可侵権によって救われたものの、不倫相手のレオニ・ビヤールLéonie Biardはサン・ラザール監獄に2か月拘置されることになる。わが身にまったく非のないような清廉潔白な糾弾者ではない、というところにユゴーという人物の精神の醸成の秘密はあったが、『レ・ミゼラブル』に向かう先行作品を執筆中の彼にとって、自ら惹き起こしたこの事件の影響は大きかったというべきだろう。サン・ラザール監獄で囚人の生活の実情に触れざるをえなかった点も、後の大作に多くの現実的な素材を提供したに違いない。
身体の麻痺したシャトーブリアンと視力を失ったレカミエ夫人について、1847年にユゴーによってなされたクロッキーは、こうしたユゴーの精神状況下になされたものであり、老いさらばえたシャトーブリアンとレカミエ夫人も、あるいは、『レ・ミゼラブル』に結実していく壮大な人間劇の人物群の一部として、また、哀れな人々(レ・ミゼラブル)の一部として、ユゴー自身には見えていたかもしれない。シャトーブリアンの『墓の彼方からの回想』が、彼自身の《私moi》や時代の変遷、出会った人びとたちの多彩な人間劇であるのをすでに超えて、人間というものの悲哀そのものを考察対象としていたように、ユゴーの『レ・ミゼラブル』が人間そのものの条件の宿命性や悲哀を最大のテーマとしていたことは疑いようがないが、自分の最大の作品のテーマに、同じように「人類」を設定せざるをえなかったふたりが、かたや観察と描写の主体として、他方は被観察対象として定着されることになったという点で、ユゴーの『見聞録Choses vues』の1847年2月12日の項は、特筆すべきページとなったと言えるだろう。
壮大な人間観察記録の集成でもある『墓の彼方からの回想』の著者シャトーブリアンその人が、ここで被観察対象として定着されているということは、観察者・判定者がいやおうなしに観察され判定される側となり行き、主体の特性を行使することに長けた存在がついに客体となって生と精神の衰退に向かっていくさまそのものでもある。観察、考察、価値判断、ナレーション、編集にわたる多様な文学問題が集結し、露わに裂け出た特別の文学的瞬間が、ここにはある。
註
(1)Victor Hugo « Choses vues 1847-1848», édition d’Hubert Juin, Gallimard,folio,1972, p.47-48.
ヴィクトル・ユゴーの『見聞録Choses vues』は、彼の多層的な長い人生の過程で記録された厖大な量の日記、回想、ノートなどから編集されたもので、編集は彼の死後に遺言執行者たちによってなされている。編集行為やその形体を考える際、ユゴーのみによるテキストとは言い難く、様々な文学的問題を含み持つテキストで、扱いには注意を要する。だが、ここでは便宜上、煩瑣な検討にわたる部分への目配りは省略する。
(2)op.cit., p.48.
(3)シャトーブリアン『墓の彼方からの回想Mémoires d’outre-tombe』の部や巻の構成は、諸版によって異なる。ここではモーリス・ルヴァイヤンMaurice Levaillant とジョルジュ・ムリニエGeorges Moulinierによる1951年のプレイヤード版の第Ⅱ巻を使用。Chateaubriand « Mémoires d’outre-tombeⅡ», édition de Maurice Levaillant et Georges Moulinier, Gallimard,Bibliothèque de la Pléiade,1951.
(4)op.cit.,p.214.原文は « Arrêtée un moment à la porte, la nueuse idole frôlant les doigts se retourna vers le lit pour ajourner madame de Staël »。イタリックの個所は原文でもイタリックになっており、シャトーブリアンがル・トゥルヌールLe Tourneur訳『オシアンOssian』から引用したもの。nueuse idoleは16世紀のフランス語表現を借りたもので、プレイヤード版p.1078の註によれば、fantôme inconsistant comme un nuageに相当するとある。ここでは、これを生かしながら、ajournerを「日延べする」=「日をおいてからの次の再会を約する」と解釈して意訳した。
(5)op.cit.,p.214.
(6)op.cit.,p1422, Index alphabétique des noms propres contenus dans le texte des Mémoires d’outre-tombeに依拠する。
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