2014年1月31日金曜日

先験的〔超越論的〕な問いを立て直す



 フーコーをめぐっての渡辺守章と石田英敬の対談*はとても面白いものだが、その中で、フーコーの遺産相続人ダニエル・ルフェーブルの特別許可を得た石田英敬が、国立図書館に寄贈されている『知の考古学』のプレ・オリジナル版を、―なんとフーコー自身の次に―、読んでの指摘が披露されている。1969年に刊行されたものよりも規模が大きく、ルフェーブルによれば、現実には1966年刊行の『言葉と物』よりも先に書き始められていたという。
 フーコーの思考が激変し続けている最中の著作で、刊行版と違い、イギリス分析哲学を集中的にチュニジアで学んだ成果が濃厚で、ウィトゲンシュタインやオースチン、ジョン・サールなどを念頭に置いて書かれているという。イギリス学派の命題理論やスピーチアクトとみずからの理論の差異を厳密に突き詰めた著作となっているらしい。(親友であった分析哲学のジェラール・デルタルの蔵書がチュニジアにあるのを、フーコーは利用したという。デルダルは、東京日仏学院院長をモーリス・パンゲの後に勤めている)。

 刊行著作に見るかぎり、禁欲的なまでに同時代のことを書かない傾向のあるフーコーだが、この『知の考古学』のプレ・オリジナル版にあっては、言説理論の必要性を語る理由のひとつに、20世紀を「一般化した言説性の時代」だという同時代への言及がある。「二十世紀の文化を特徴づける大変化があって、それは普遍的アルシーヴの組織だ」というものだ。
「この大変化を一言で特徴づけるとすれば、普遍的アーカイヴの組織。私たちは全ての言われたことを思うがままに保存し、全てを言われたことであるかのように理解するような科学的技術的制度的なシステムを自分たちに与えようと努めている。私たちは一つの言語を、メッセージの形式的な成立条件を分析し、最も経済的で有効なコードを発動している。自然のプロセスの中にも情報に特有なメカニズムを発見しようとする」とフーコーはここで書いている。さらに「私たちは巨大な言説的ネットワークを、私たちの周囲全体に作ったり発見したりしている。私たちはその巨大な言説のネットワークから語るのであり、私たちの言説はたえずそこから発して繰り広げられ増殖している」
 フーコーがこれほどはっきりと同時代を認識していたのが確認される点は重要だとしても、ネットワーク内存在としての人間というこうした認識は1960年代において格別新しいものでもないように思うし、こうしたフーコーの言説がすぐに想起させる現代のインターネットも、60年代にはすでに科学技術や軍事技術の領域で現実化されていたのを思えば、人文科学の宿命的な遅れということのほうをむしろ思ってしまう。
「普遍的アーカイヴの組織」ないしは「巨大な言説のネットワーク」の中に人間がいる以上、もしネットワーク内で流通しうる言説を生産しようとするならば、また、ネットワーク内で他と共有できるような理解を形成しようとするならば、「私たち」はみずからも「普遍的」な言説しか生産し得ないはずであるという推測が、このフーコーの指摘からは導かれてくるように思われるが、これは「アーカイヴ」や「ネットワーク」という言葉を用いる以前に、そもそも言語活動自体が負っている宿命であって、なにをいまさらとも思わされる。言語活動は、最高度に広域把握された社会体や歴史や精神活動層のすべてをつねに含み持って動き続ける運動体であり、たとえば今このように日本語で記し続ける瞬間に、この言語配列は太古の中国での漢字生成や万葉期の日本語と直接的に連動してしまっている。
普遍的なるものと非普遍的なるものの境界に成立する文学、とりわけ、非普遍なるもののほうへと全力で邁進逸脱を図り続ける精神運動としての詩作の領域に関わる者としては、いまさらながらの話をわざわざ持ち出してくれながら、フーコーが戦線のわかりやすい見取図を提示してくれているような印象を持たされはする。いうまでもなく、詩作を最高の玉座に戴く文芸の領域は、どれだけ理解され得ないほうへと激しく逸れるか、「普遍的」や共感、共鳴、共同の不可能性をどこまで人間精神において開拓できるか、ということが至上命題だからである。
 
 渡邊守章と石田英敬の対談の面白味は、しかし、他のところにこそある。言語情報学者としての石田は、現代の「ポストヒューマン的な現状」というものが、「存在論的な問いを絶つことがいろいろなレヴェルで配備されている」と見、現代人は「そのような環境に生きる」のを強いられることになったと考えて、このように続ける。
「内在的な意味の問いというか、超越論的な問いを取り戻すことからしか主体化は起こらないと思うのです。その問い自体が分散disperséしているという状態にどんどん追い込まれて行って、社会についての問いがなかなか立たなくなってきています。もう一度テクノロジーを問うことによって、超越論的な問い、存在論的な問い、まさに主体化の問いをとらえなおすという回路を哲学はやはり取り戻すべきなので、そういうフーコーの使い方を現代は必要としているのだと思うのです」。
 こうした「問い自体が分散disperséしているという状態にどんどん追い込まれて行」く例、「先験的〔超越論的〕な問いが無意識化され、テクノロジーによって遮断される」例として、「超越論的な問いを封じ込めるために睡眠薬を飲む」ような「メディカリゼーション〔医療化、薬漬け〕」を彼は挙げているが、フーコーの問題圏を普通の現代人の生活に連結させる好例だろう。
現代を生きるということは、否応もなくIT技術の時代を生きるということだが、石田によれば、IT技術とは「モノを扱っていると同時に、記号を扱」うもので、「記号技術がモノを扱えるようになったから進歩した」ものであり、「モノとして扱えるようになるという発明によって、記号を載せることができ、また大量に処理できるようになった」ものである。したがって「モノという側面と出来事という側面とがあいまって動いている」ため、「モノの問いを立てないと記号テクノロジーの問いは立た」ないし、「先験的〔超越論的〕な」問いを立てることはできない。「現代は、この先験的〔超越論的〕な問いが無意識化され、テクノロジーによって遮断される世界」となっているが、ここに切り込むには「モノの問い」から入るしかない、と石田は考えるのだ。

 もちろん、「先験的〔超越論的〕な問い」はカントに遡るものだが、この場合はカント自身というよりも、カントのものとして『言葉と物』でフーコーが提示した〈経験的=先験的〔超越論的〕二重体empirico-transcendental〉という概念に、まず、直接は関わる。
これはフーコー流の近代的人間概念で、彼は近代の発生を「人々が人間の研究に客観的手法を適用しようと欲したときではなく、《人間》とよばれる経験的=先験的二重体がつくりだされた日に位置づけられる」と考え、これにもとづいて次のように思考の道筋を立てていく。「分析の場所が、もはや表象ではなく、有限性のうちにある人間となったいまでは、問題は、認識の諸条件を認識のうちにあたえられている経験的諸内容から出発してあきらかにすることなのである」。
「有限性のうちにある人間」という認識はもちろんハイデガーから来ているし、「認識の諸条件を認識のうちにあたえられている経験的諸内容」という極めて正確な人間認識は、人間の思考の基本構造としてドゥルーズが表明した存立平面概念をべつの言い方で表わしたものでもある。さまざまな哲学的潮流が流入し凝縮された結び目であるフーコーの思考をよく表わす一節ということになるが、ともあれ、問題を立てるにも考察するにも、「配分あるいは分割というものが成立しなくなっていく」ところに「近代」なるものは出現している、というのが最も重要な点である。
「人間の終焉」という表現は、ここから論理的に導かれるもので、ここにおいて「人間に代わるものとして言語が前景化してくる」のである。


*『哲学の舞台』(ミシェル・フーコー+渡辺守章、朝日出版社、2007)所収。文中の引用は、フーコーの著作の翻訳も含め、すべてこの本の対談より。




0 件のコメント: