2014年12月27日土曜日

街灯が灯ってくるのが見えると



 筑摩現代文学大系の川端康成集の月報には、文芸評論家進藤純考氏の「川端さんの客間」という短い文章が載っている。新潮社での編集者時代、原稿を貰いにたびたび通ったという鎌倉の川端宅の印象が記されている。
ひさしぶりに読み直し、大学の一年次で出席した氏の授業の時間が蘇った。大学という空間に初めて接し、馴染んでいく、そんな一年間の季節の移ろいが鮮やかに思い出され、古い青春小説を繙くようだった。
氏の授業は、教える側も学ぶ側も楽なもので、七面倒くさい文学理論のレジュメを詰め込もうとするようなものとは違った。毎週、当番の学生が好きな作家や作品について発表する。それを聞いてから、氏の論評や感想があり、他の学生たちとの質疑応答があり、おのずと歓談に流れていくというふうで、講義というより、どこかの文学サークルの定時会のようなものだった。
これは、じつは教員の負担を軽くする打ってつけの方法で、しかも、学生たちには、なにか実のあることをやったかのような印象を与えられる。逃げとも、誤魔化しとも言えなくもない授業のしかただが、文学の場合はこれでよかった。理屈や知識だけの議論では文学にならないし、ましてや教員からの一方向の語りだけでは、文学からは遠ざかる。世間話や痴話も含め、喜怒哀楽あわせての、しかし流されないで正気に踏み止まり続けようとする意識の繋留の試みを文学というのだから、進藤氏は勘どころはちゃんと押さえていたといえる。ホメロスやアリストテレス以来のレトリックの変遷や文学史を簡便に辿っていくような講義は、一見するとまじめにももっともらしくも映るが、文学という生物の死骸を遠巻きに冷たく解剖してみるようなもので、文学解剖学とか文学死体処理法とでも呼ぶほうがふさわしい。
自分の当番がまわってきた時、私は、高校時代に愛読していたサン=テグジュペリについて話した。堀口大学の訳で主要作品は読み込んでおり、手持ちの新潮文庫はさんざん線を引かれて、ふにゃふにゃになっていた。
『星の王子様』で有名なこの作家は、ヨーロッパと南米やアフリカを結ぶ郵便飛行機の飛行士として長く働いた経歴を持つ。第二次大戦中には、ナチスドイツと戦うために、すでに年齢的に無理があったにもかかわらず戦闘機乗りとして志願し、地中海で撃墜された。作家としての本領は、体験にもとづく『人間の土地』や『戦う操縦士』などのエッセーのほうにこそ発揮されている。地上にいれば様々な面倒事に巻き込まれる他ない人間も、いったん空に上って雲上の長時間の飛行に入ってしまえば、人界を超越した地球の美しくも非情な様相に直面し続け、生の別様のあり方を思い知る。そうした位相で積み重ねられた経験から培われた超越的な世界観や人生観が、サン=テグジュペリの魅力でもあれば真骨頂でもあってやわらかい叙情味と高原の雰囲気のような澄明さや清潔感が英雄主義に結びつき、今なお、世界的に青年層に人気が高い。
フランス文学科に入ったものの、まだ初級文法もろくに身についていない時だったので、フランス語原文など参考にすべくもなかったが、進藤氏の文学の授業は一般教養科目であり、フランス文学の授業ではなかったので、翻訳を下敷きにしての発表で差支えはなかった。
知り尽くしていたテーマであったのが幸いしてか、発表の出来はよかったらしく、話し終わったところで、進藤氏が拍手をしてくれた。一年の授業を通じて、先生からの拍手を受けた学生など他にひとりもいなかったので、いま思い返しても、これは異例のことだった。授業枠の中での発表に過ぎないとはいえ、大学というところで、単なる先生ではなく、本物の文学者たちとの日常的なつき合いの中に生きている評論家から讃辞を受けたことは嬉しかった。有名な作家たちと顔見知りであり、特に第三の新人たちと昵懇で、「この前の日曜日、吉行(淳之介)が…」とか、「遠藤(周作)がいつも言っていることですが…」とか、「三浦(朱門)がこんなことを言っていた…」とかいった話がすぐ口をついて出る進藤氏が、自分の話のどこを気に入ってくれたのかと訝しくもあったが、学校という場所に巣食っているいわゆる「先生」なるものとは違う「文学者」という種族の一端に触れた気持ちもあった。
進藤氏は1999年に亡くなったらしいが、便利になったもので、いまはネットで氏の生涯の概要も辿れる。芥川龍之介、田山花袋、横光利一、川端康成らが寄稿した『文芸日本』の創刊者を父に持っていたことも知らなかったし、女優の早川十志子を母に持っていたことも知らなかった。東京帝大から学徒出陣で横須賀の海軍に行き、戦後に新潮社に入って川端康成、志賀直哉、石原慎太郎らを担当したことや、いったん会社を退いて大学院で修士号を取ってから復職したこと、カミュ論を書いたことも知らなかった。
亡くなる十年ほど前には、67歳で初の小説を完成させたらしい。編集者や評論家をしながら、特に「一二会」で親交を深めた多くの小説家たちを見つつ、やはり、いつかは小説を…との思いがあったのか。そういえば、進藤氏よりも前に、評論家の中村光夫も、歳長けてからは小説を書いていた。
エルヴェ・ギベールという、フーコーの愛人でもあったという話のある、エイズで死んだフランスの同性愛作家が、「小説という夢…」と書いたことがある。言葉や文に惹かれるあらゆる者たちが、素質としてはむしろ詩歌や演劇や批評のほうにこそ向いている場合でさえ、誰彼となしに「小説」のほうへ惹かれていき、いつかは小説を…と思ってしまう。そんな近代の文学者たちの宿命を端的に表現した言葉で、あの大批評家ロラン・バルトでさえ、小説のほうへ…と考えていたのを思えば、感慨深い。編集者として、また評論家として立派な仕事をしていた進藤氏もまた、自らの手で小説を…という夢に惹かれていたことになるのだろう。
もちろん、小説の現場というのは、作業中も、宴のあとも、過酷で非情なものである。出版社の商売の都合や仲間内での盛り上げ合いで、出版後、しばらくは話題となる小説作品も、時代がひとたび移れば、廃墟となったホテルや宿屋のような姿を晒すことが多い。進藤氏の親しい友人だった作家たち、遠藤周作、安岡章太郎、三浦朱門、庄野潤三、吉行淳之介、島尾敏雄、小島信夫、五味康祐、近藤啓太郎、日野啓三、奥野健男、村松剛などにしても、あれほど有名で、毎月のように作品や対談などが方々の雑誌に載っていたというのに、いまでは、小説好きだという青年の殆どが読んでいないし、名も知らない場合がある。どんな作家が好きなの?と聞けば、東野圭吾や石田衣良としか返ってこない。村上春樹でさえすでに古典で、難しく、扱われている団塊の世代そのものがもう老人世代でもあってみれば、若者には近づきがたい。一時期流行った京極夏彦の名も聞かなければ、獄本野ばらや新井素子の名さえ聞かれない。本は売っていても、今の若者はもう引っかかってこない。何十年か経った後、けっきょく、はるかに寡作だった俳人や歌人の作品ほどにも残らない小説家たちが殆どということになる。
小説というもののはかなさ、恐ろしさ、と、ひとことで済ましてしまっていいのだろうか。
済ましてしまったほうが、いいのか。
小説よりはるかにはやく廃れてしまったかのような感のある「文学」なるものは、どうだろうか。
進藤氏はある日の授業で、やはり友人の作家の誰か、三浦朱門あたりだったように覚えているが、その作家を例に引いて、こんなことを言った。
「急いで仕上げなければいけない作品や文章がいくつもある。締切が迫っている。ところが夕方になって、街灯が灯ってくるのが窓から見えると、気持ちが落ち着かなくなってくる。さびしいような、うきうきするような感じになってくる。飲み屋街の灯が脳裏にちらちらし出す。机に向かって、どんどん書かなければいけない。しかし、紅灯が心に揺れる。夜の街に出て行きたくてたまらなくなる。飲みたいなあ、飲み屋街をふらつきたいなあ。いや、集中して書かなければいけない。でも出て行きたい。居ても立ってもいられなくなってくる。書かなければいけない。飲みたい。出て行きたい。…で、出て行ってしまう、っていうんですね。紅灯の巷をさまよい、飲み屋に入ってしまう。飲みながら、また飲みに出てきてしまった、俺はなんて情けないんだ。そう思って飲んでいる。あの小説もこの小説も仕上げないといけない。あの文章はもう締切だ。こんなところで飲んでいるわけにいかない。…こんなふうに思いながら、それでもね、また朝方まで飲んでいる、と言うんです」
 そうして進藤氏は、仕事を山ほど抱えた作家のこの気持ち、街灯が灯ってくるのが見えると落ち着かなくなり、さびしいような、うきうきするような感じになって、居ても立ってもいられなくなってくるというのが人間であり、文学というものだ、というようなことを言った。
「この気持ちがわからないと、文学なんてわからないんですね」
 さらに続けて、ここでやっぱり、誘惑に負けて紅灯の巷にさまよい出ていってしまうというのが、文学の人間なんです、文学者なんです、と言ったようにも記憶しているが、これは定かではない。
私の勝手な思い込みかもしれない。



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