2014年1月31日金曜日

ブロッキングBlocking



 言語でも音声でも映像でも、多かれ少なかれ選択と編集の要求される領域では、だれもが「表現」という語を用いてものを検討したがる。
 「表」と「現」が接合されたこの日本語の、ほとんど意味不明に達するがまでの造語のすさまじさについては、今は触れない。「表現」がつねに同時に抱え持っている、ほぼ同一のもの、遮断、封鎖、さまたげ、さえぎりとでも呼ばれるべき裏面についてのみ、思い出しておきたい。

 日本語で言おうとすれば、遮断、封鎖、さまたげ、さえぎり…と、すでに数語が思いつかれる制作上のしぐさを、ハワード・スーバーは、UCLAの有名な映画論講義『フィルム・ストラクチャー』*の中でブロッキングblockingと呼んでいる。
 スーバーは戦争映画の例を出している。主役でなく、脇役が恋人や妻子の写真をとり出して眺めるシーンの後では、たいてい彼は、観客になんらかの感動を与えるような劇的な死を迎えることになる。しかし、この戦場にあって敵側にいる兵士たちには、こうした大事な写真をとり出すような場面は、まず許されない。戦争映画における敵方は、顔も不鮮明で名前もわからない群れとして扱われる。恋人や妻子の存在など、個人的なストーリーや過去はまったく描かれない。撮影技法上は、味方の死がクローズアップで撮られるのに対し、敵方は遠めのショットで撮られる。
 スーバーによれば、こうした制作上のしぐさにおいて、フィルムメーカーは、敵方についての情報を観客サイドにむけて意図的にブロッキングし、主役側、その味方側についての情報を充実させて提供するのだ、という。これによって、主役側についての観客の感情を引き出そうとするのであり、かたや、敵側についての感情の発生や流露をブロックするのだ、とスーバーは指摘している。
 言われてみれば当たり前のことで、だれもがわかっているようなことではあるのだが、ともすればだれもが、「表現」という語にとりつかれて制作物を見る態度をとりがちであるため、ブロッキングというこの視点は新鮮でもあり、有効でもある。私個人は、選択とか編集という語を用いて、「表現」とブロッキングを包摂してきたつもりだったが、時には、あえてブロッキングというものを分離させて検討作業に使ってみるほうが、表象的な制作物についての考察はもっとくっきりしてくる場合もあるかもしれない、と反省させられる。

 スーバーは、ブロッキングの例として、因果関係を持つものにおける結果の遮断もあげている。
だれかがバナナの皮を踏んでひどく転倒するような時(原因)、現実ならば、腰などをつよく打っての怪我や打撲による痛みを招来することが多い(結果)。
映画でも、悲劇の場合には、現実に近いこうした因果関係を作品世界のなかの法則として踏襲することが多い。
しかし、喜劇の場合、こうした因果関係はしばしば破棄され、怪我や痛みという結果はブロックされてしまう。バナナの皮を踏んでひどく転倒するという出来事そのものの面白さ、それへと観客の感情をつよく誘導するためで、もし、このすぐ後に怪我や痛みという結果を継起させてしまえば、せっかく、バナナの皮を踏んでの転倒の面白さにむけて大きく開かれつつあった観客の感情が、中途半端に抑制されることになってしまうからだ。本来的に感情の“開き”の実現を意図するものである喜劇において、こうした感情の抑制は避けられなければならない。

 ストーリーやドラマばかりか、論述における思考の進展や展開も含めて、あらゆる表象的制作物において、「なにが表現されているのか?」というアングルからの問いかけは、その余りの凡庸さのために、労力に比して、大きな不注意と見落としと大風呂敷な形式主義的な一般化の身ぶりばかりを招いてしまう。ここで、「なにがブロックされているのか?」と問いを変えるだけで、探求者の神経は生き生きと覚醒するのだ。人間の本能的な深い注意力は、目の前にべったりと提示されている「表現」の成果よりも、ほかならぬその「表現」そのものによってこちらを目隠ししようとする隠蔽行為や遮断行為の読み解きに対してこそ、積極的な自律運動を開始する。
「言葉や言語活動は、思っていることを隠蔽するのには、じつにすばらしい効果を発揮する」。そんなことを、たしかタレイランは言っていたはずである。



*『パワー・オブ・ザ・フィルムThe Power of Film』(ハワード・スーバーHoward Suber著、森マサフミ・長土居政史訳、キネマ旬報社、2010)による。






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