2014年1月31日金曜日

握られぐあい、はじかれぐあい


      ―渡辺淳一の『握る手』



 最高度の人間知性の表現形態のひとつに小説があり詩があるのは言うまでもないが、そうした意味での小説を好む者にとって、もちろん渡辺淳一の小説はまじめに相手にするべき対象ではない。長編にならまだしもそれなりの趣向が盛り込まれていたりはするものの、短編に到っては安手のおざなりの物語の中に紋切り型の人物を泳がせてみるという程度のもので、時間つぶしにもなってくれない場合が多い。
 2001年に、短編集『風の噂』以来10年ぶりにまとめられた短編集『泪壺』(講談社)には、表題作『泪壺』ほか『マリッジリング』『後遺症』『春の別れ』『さよなら、さよなら』『握る手』が収められているが、これらのいずれもがやはりB級かC級の短編で、こんなものをもし新人作家が書いたら、ただちに干されてしまいかねないたぐいのものだが、かろうじて『握る手』だけには面白い部分があった。

 この短編では、医師であった渡辺淳一にとってお得意のモチーフである医学ネタから話は始まる。アメリカでの手首切断事故の手術の話がそれで、自分の手首が再利用できなくなった35歳の男性に、ちょうど同じ病院で死んだばかりの42歳の女性の手首を移植するという事例である。切断肢接合手術のエキスパートである外科医によって、「皮膚や筋肉はもとより、微細な神経から血管まで完全に縫合され」ることによって手術は奇跡的なまでの大成功となる。
 しかし、たったふたつだけ意想外の「後遺症というか、少し気がかりなこと」が残った。ひとつは「三十五歳の男性の手首に、四十二歳の女性の手を移植したため、やや手先が華奢でしなやかに見えること」。これはしかし、致し方ないことで、見栄え以外に実害があるわけでもないのでまだいい。もうひとつのことのほうが、男性にとってはいっそう気がかりでもあり不便でもあった。「トイレに行って小水をするとき、女の手が男のあれを握るため、小水をし終わってもなかなか手を話そうとしない、それがいささか困る」ということで、この話が披露された全米外科学会の会場は笑いにつつまれたということになっている。
 作者はすぐにこの症例報告の真実性を否定しながら、この話を、主人公の整形外科医折居亮介が、医局の忘年会の後で古参の医師たちと寄った銀座のクラブで恩師の口から聞いたものとして設定している。「学問一筋の、いわゆる堅物と思われていた」恩師が、ホステスたちを前にして「専門家らしいディティールの積み重ね」を以て語ったので本当らしく響いたが、女性の手首を男性の腕に完璧に接合するのは、理論的にはともかく、現実的にはほぼ不可能であるのを折居は知っていることになっている。
 医学ネタを軸にしながら、銀座のクラブでホステスたちと古参の医師たちのいる席で起こりそうな場面をまず描き出し、こうしてひとつ小説的な山場を披露しつつ、「女の手が男のあれを握る」という中心テーマに入っていくことになるのだが、自分の親しんだ業界(医学界)、自分の慣れ親しんでいる場所(銀座のクラブ)、自分の親しんできた行為(「女の手が男のあれを握る」)へと移行していく渡辺の手つきはスムーズで、現実味を盛り込まねばならないという通俗小説のしきたりを前者ふたつでクリアしながら、また、そのふたつによって小説の雰囲気の真面目さとリアルさを維持しつつ、彼がいちばん描きたかったテーマ、しかも、いささか慎みがなさ過ぎるものとも不謹慎なものとも受け取られかねないテーマへと滑っていくところには、通俗作家としての律儀ささへ感じさせられる。
 この小説の中心をなす「女の手が男のあれを握る」というテーマの展開部分においては、もはや、主人公折居亮介が有能な整形外科医師であろうがなかろうが、どうでもよくなるようでもあり、「まだ五十には少し間がある」離婚した四十代独身の医師という設定は、もちろん、性愛を扱う小説にはいろいろと都合がよいとはいえ、性愛目当てにいろいろな女を相手にできる境遇にあれば、どのような職業でもよかったように見えるが、通俗小説の職人である渡辺淳一は、最後にもういちど医学界を出してきて、主人公が医師であるべき物語上の必然性を確認しさえする丁寧な仕事ぶりでもある。
 
 念の入ったジョークとして恩師がホステスたちに披露した手首接合手術の話を思い出しながら、折居は「それにしても、移植された女の手はあそこをどんな風に握るのか」と考える。
これは川端康成も興味を惹かれただろうと思われるモチーフだが、川端ならばもっと控え目に、そしてもっと隠微に魅惑的に展開していくことになったであろうこのモチーフを、渡辺淳一は、もともと医師であるからと言ってしまえばそれだけのことだが、はるかに露骨に即物的に扱っていくことになる。「折居も女性たちに何度か、自分のものを握ってもらったことがある」と展開していくのである。仮に同じように書くとしたところで、川端ならば「自分のもの」を削除して、「折居も女性たちに何度か、握ってもらったことがある」とでも書くだろう。
 実際の展開の微細なところは小説に当たって確認してもらうことにして、ここではこの小説中に現われる「握」られ例を、すなわち、女性による扱いぐあいの例をレジュメし、列挙してみよう。
〔例1〕「相手の右手を自分の股間に導き、すでに硬くなった一物に触れさせると、女性は一瞬戸惑いながらもそれを握り、ゆっくりと上下に擦りだす」。そうして、女性は「静かに、なにか怖いものにでも触れたように、そろそろと動かす」。
〔例2〕「相手の右手を自分の股間に導き、すでに硬くなった一物に触れさせると、女性は一瞬戸惑いながらもそれを握り、ゆっくりと上下に擦りだす」のは〔例1〕と同様だが、その後、女性は「待っていたとでもいうように、しかと握って荒々しく擦る」。
〔例3〕やはり、「相手の右手を自分の股間に導き、すでに硬くなった一物に触れさせると、女性は一瞬戸惑いながらもそれを握り、ゆっくりと上下に擦りだす」のは〔例1〕や〔例2〕と同様だが、その後、女性は「握ったまま、その大きさと温もりをたしかめるように、ほとんど指を動かさ」ない。
〔例4―R子32歳〕「初めから握ることには積極的」。「折居がそれを近づけるまでもなく、彼女のほうから求めてきて、握るや積極的に動かし、それが実に巧みであった。しかも関係ができて三度目かと思ったが、擦るうちに布団の中に潜り込み、いきなりその先端を口に含んだ」。「こちらから頼みもしないのに(フェラチオ)をしてくれたのは彼女が初めてで、それはそれで有難かったが、あまり積極的にされると、男を知りすぎているような気がして、いささか興が殺がれたことも事実である」。「彼女の積極さと大胆さが、いささか重荷になったことはたしかである」。
〔例5―A子45歳〕「ごく自然にそれを握ってくれたが、そのまま下半身の方へと移動していった」ので、フェラチオをするのだと思ったら「驚いたことに、彼女は握ったものはそのままに、いきなり袋のほうへ吸いついてき」て、「折居は思わず腰を引いたが、A子はかまわず袋の睾丸のあたりを、下からかき上げるように舐めだす」。折居には「初体験」だったが、「それが意外に心地よく、しかも懸命に舐めている気配が睾丸からも伝わってきて、思わず声まで洩らしてしまった」。「この女性はセックスだけでなく、あらゆることに甲斐甲斐しく、年上とはいえ、体も魅力的だったが、残念なことに、その数年後に子宮癌で亡くなった」。
〔例6―S子30歳〕「一物を差し出しても、容易に触れようとしない女性」のひとり。折居を嫌いというわけではないが、「生来、羞恥心が強い女性らしく、触りたくてもそこまでする勇気がない」らしく、「いくら差し出しても容易に触ろうとしない」。半年後には「ようやく握ってくれたのだが、それも人差し指と中指のあいだにそっとのせるだけで、そのままどうしたものかと戸惑い、震えている気配まで伝わってくる」。しかし、「その震えながら持っている感じが、かえって男の気持をかきたて、擦られてもいないのに、硬く、逞しくなっていく」ところなど「まさに、巧まずしての技巧」といえる。S子はその後、若い男と結婚してしまうが、「いまでもS子が若い男のそれを恥ずかしそうに握っているのかと思うと、相手の男に嫉妬を覚える」。
〔例7―別れた妻〕「もともと堅い家庭に育った上に、幼いときに精神的なトラウマでも受けたのか、性に対しては異常に潔癖で、その種のことを蔑んでいるような気配さえあった」。子を産んでからでさえ「折居が求めても拒否し、育児に専念するばかり」。「折居も、淡白で面白味のない妻とのセックスには飽きていた」。
〔例8―Y子38歳〕広告代理店の「整った顔立ち」のキャリアウーマン。「セックスには意外に積極的で奔放」だったが、「最近の若い女性のように羞恥心の欠けた大胆さとは異なり、自ら抑えようとしながら、軀の方が高ぶって走り出し、自分でも戸惑っている、といった気配が伝わってきて、それが好色な折居にはかえって愛しく、好ましかった」。「ばりばりのキャリアウーマンでありながら、綺麗好き」で、「逢う度にベッドはもとより、キッチンから部屋まで、きちんと整理してくれる」。「外はもちろん、内を任しても、Y子ならしっかりと守ってくれそうで、しかも表の凛とした雰囲気からは想像もつかぬほど、ベッドでは助平である」。

 ……女たちの「握る手」の光景を中心にし、男である折居のほうからすれば握られぐあいの感触を軸にして(―まさに、『握る手』という表題が露骨にテーマを表わしているわけだが、それにしても、渡辺淳一のこの表題のつけ方はどうだろう。色気がないというか、魅力がないというか、あるいは女性読者こそを意図しての名づけというべきだろうか。男性用につける表題ならば、『握られぐあい』や『握られて』、あるいはアガンベンの『開かれ』よろしく『握られ』とでもすれば、現代思想までまぶすことができて読者層拡大を狙えたかもしれない―)展開されていくこの短編に登場する女たちは、ざっとこんなところだが、ハードカヴァーの本に緩く組まれた35ページほどの小説に出してくる数としては少なくはないだろう。数量に走るサド侯爵なら、これでもかとばかりにもっと盛り込むところだろうが、数に走れば登場人物ひとりあたりの描き込みは縮小せざるを得なくなるので、ヴァンセンヌの牢獄に籠ってひとりしこしこ書いていればよかったサドなどとは違い、読者の講読欲と忍耐力とをつねづね秤にかけて、劣情喚起と情緒の味付けとダイジェスティヴな難し過ぎない物語性の維持を至上命題としながら商品としての小説を拵えねばならない現代作家の渡辺淳一の場合、どうしても、この程度に収めるのが妥当なところということになろう。

 お気づきだろうが、例8のY子の握りぐあいについては、先の列挙個所に書き加えていない。というのも、この小説においてはY子との別離こそがクライマックスとなっており、その際、最後のセックスにおいてY子がどんな握り方をしたかが焦点となっていて、それをお伝えすることでこの小文も終えようともくろんでいるからである。
 仔細については小説にじかに当たってもらいたいが、もちろん、Y子は例1から例7までを超えた握り方を、というより、扱い方をすることになる。小説や物語というものの力学が作者にそうさせるわけで、それまでに出した例のどれかに分類されるような程度のものならば、小説は湿った花火のように尻つぼみに終わる他ない。とりわけ、短編小説はそうで、どうしてもなんらかの驚きを最後に持ってこざるを得ないことになる。開高健は『珠玉』の中で、風呂場で女の股の下に横たわった男の顔に、女の尿がゆたかに降り注ぐ場面を定着したものだったが、渡辺淳一はもちろん先達と同じ路線を踏襲するわけにはいかない。さて、どうするか。
 最後のまじわりとなったその夜、「折居はY子を少し焦らすつもり」だったが、急に我慢しきれなくなる。そうして「入れてもらおうと思ったとき、Y子の手が止ま」る。
「Y子の股間に手を添え、蕾を愛撫しながら、Y子の手に自分の一物を握らせたところまで、いつもと変るところはなかった」のに、ここで事態は急変するのだ。折居は、「どうしたのか」と「相手の出方を窺う」。と、「Y子は突然握っていたものを離し、次の瞬間、硬くなって宙に浮いていたペニスが、いきなりはじかれた」。
 折居のペニスははじかれて、「硬くなっているだけで軽く左右に揺れて、すぐに止ま」り、「別に痛みは感じない」ものの、「なにか急に除けものにされたような、押しやられたような気がして」、彼は「Y子の顔を探ろう」とする。彼にははじかれた意味がわからず、「これは、なんの意味なのか。…」と思考停止してしまうのである。
 と、「その瞬間、Y子はいきなり起き上ると、全裸のまま折居の上に跨り、はじかれて手持無沙汰になった一物を、自分から股間にはさみこ」み、「騎上位のまま勝手に動き出」して、「白い上体を撓らせ、髪をふり乱し、息を荒げて前後に激しく動く」。そうして「長い汽笛のような声とともに、思いきり上体を反らし、両手を胸に当てたまま、仰向けに倒れるようにゆき果てた」。
「手早く衣類をつけ」たY子が、「今日は帰らせてください」と「ドアを開けて」去った後で、折居は洗面所に「女ものの髪を止めるピン」が一本あるのに気づくことになる。前日に来て「いつものように関係した」M子のものではないかと思い、これを見てY子は機嫌を損ねたのかと、ようやく推測するに到る。
 Y子がなぜ「途中まで擦ってくれていたものを」「いきなり指ではじ」いたのか、その理由については折居はしばらく思い悩む様子だが、小説にとって一番重要なことである感触のリアルさという点では、そのような理由など、もちろんどうでもよい。こういう方向へと下手に追及して書き連ねていけば、小説というものは底の浅い通俗な心理的詮索に陥る他なく、CMでめった切りにされ続けるゴールデンタイムのテレビドラマではあるまいし、そうなれば小説としては失敗することになる。小説においては、作者は分析を行ない過ぎたり結論を出したりしてはならず、あれこれ読者に考えさせる無限の乱反射を拵えたところで止めなければいけない。小説が心理学とも精神分析学とも決定的に離れるのは、まさにこの点である。
 さすがに渡辺淳一はツボを心得ていて、こういう点は外していない。折居にあれこれ思い悩ませるが、結論は出ずじまいである。折居は翌朝、起きてトイレに行き、「ペニスを持ちながら、右手を眺めてみる」。そうして、小説のはじめにあった例の手首切断事故の接合手術の話を思い出しながら、「これが、しなやかな女の手なら、離さないのか。いや、逆に突き放す手もあるだろう」と考えるのだ。
 やがてパソコンに来たメールに「わたしたち、もう終わりにしましょう。いろいろありがとうございました。Y子」という一文を読んだ夜も、「ベッドの中ではじかれた感触が、徐々にペニスに甦ってくる」のを感じ、折居は「あんないい女を、惜しかった」とつくづく思うということになる。


 こうふり返ってみると、やはり『握る手』には見事なところがあると言わねばならないだろう。性交の器官としてでもなく、排尿の器官としてでもなく、まったく別のたぐいのものを思わせる器官としてのペニスが、ここにはたしかに発見され、定着されたからである。みずからのペニスをめぐって、この先しばらく折居が思い悩み続け、仮にどこかに助けを求めたく思うようになったところで、彼が赴くべき先はけっして性科学科でもなく、泌尿器科でもない。やはり文学科でしかありえないであろう。





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