2014年1月31日金曜日

手のひらで肌を擦るだけ



  

 美容室に行ったついでに髪の毛の状態を訊ねたら、べつに変わりはない、ということだった。
 夏以来、シャンプーやリンスを使わないで湯だけで洗髪することが増えたが、いまも同じようにしている。もう半年になるが、自分としては感じがいい。髪の専門家にはどう映っているものか、それを知りたかった。
 
 このことは以前にも書いたが、シャワーを浴びながら指の腹で髪をよく揉み、爪を立てずに地肌もよく揉み洗いする。それだけのことで、二度洗いもしないし、リンスをつけて濯ぐ手間もかけない。洗髪にかかる時間も労力も半分どころか三分の一ほどになった。とにかく楽なので、気分も軽くなる。
かといって、こういう洗い方をポリシーのようにしているわけでもないから、整髪料を多めにつけたような場合にはシャンプーを使えばいい。あらゆる点で、不要な主義主張を持たず、方式を定めず、その場その場の便利さと安楽に流れて臨機応変に事を処理する性質ではあるが、洗髪でもその点はかわらない。

 ひと月ほど前からは、体を洗うのにも、顔を洗うのにも、石鹸やボディーソープ、洗顔ソープなどを使うのを一切やめてしまった。シャワーを浴びながら、手のひらで肌を擦るだけで済ませる。
 これもまた、とてもいい。
 一目瞭然によさがわかるのは、肌の乾燥がはっきりと減ったことだ。
 例年、冬になると、体の部位によっては乾燥がひどくなり、白く粉をふいたようになって痒くなる。寝ている時などに知らず知らず掻きむしっていることもあって、傷だらけになっていることもある。これは、毎年恒例行事のように訪れてくる冬の不快事だった。ボディーローションなどをつけての対処を余儀なくされる。
 湯だけで体を洗うようになってから、こうした乾燥トラブルがすぐに消えた。それも、みごとなほどに完全に消えてしまった。体を洗う洗剤のたぐいがどれほどひどいものだったのかが、はっきりとわかった気がする。
 垢すりやスポンジやタオルなどを使わずに、自分の手のひらだけで体を触り続けるというのも、とてもいい。手のひらが、毎日、体じゅうを再発見し直すような感覚があって、新鮮だ。なにかを介さずにじかに自分の体に手のひらで触れることで、はじめて、確認されてくるものがある。それが日々の身体感覚を更新する。翌日の生活につながっていく重要な身体情報が、手のひらから脳に入っていく気がする。
毎日シャワーや入浴をしていれば、そもそも全身のどの部位であれ、肌がそんなに汚れるはずもない。一日で肌の表面につく汚れは、外部からの埃などを別にすれば、生体から染み出た汗と皮脂だけのはずであり、その量など限られているのだから、ナイロンの垢すりなどで肌を念入りにこすり洗いしなければならないほどのものではない。体から出たばかりのものは、もともと生体内をめぐっていたものなので、汚ないといってもたいしたことはない。
なんと愚かな「よく洗う」思想に、ずいぶん幼い頃から蹂躪され続けてきたものか、と今になって思う。おかげで、どれほど要らぬ肌トラブルにいたぶられ続けてきたことか。

今秋、石鹸やボディーソープを使わないことにしてみたきっかけには、タモリや福山雅治の話を聞いたことがあった。彼らはずっと、それらを使わずに通してきたという。前から時どき耳に入ってはいたが、入浴時に湯だけで体を洗うことにしている芸能人たちは少なくないらしい。肌のトラブルなどが一般人よりも目立つ仕事なので、少しでもよいやり方へと傾く度合いも強いのかもしれない。
体にしろ、頭髪にしろ、こうした洗い方には一部の医師や専門家のお墨付きが付いてもいる。善玉菌である肌の常在菌を落とし過ぎないようにして、その菌たちに肌の洗浄と維持を任せるという考え方だ。神経質に洗い過ぎてしまえば、常在菌を根絶やしにしてしまい、その後に悪い細菌が巣食うきっかけを作り出してしまう。荒れ野のような肌表面を作り出してしまう。いちど常在菌を落とし過ぎてしまうと、新陳代謝のさかんな若者の肌でさえ、元に戻るのに9時間ほどはかかるという。

江戸の遊郭では、花魁たちは絹で肌を洗ったと読んだことがある。あれも三助と呼べるのか、それとも他の呼び名があるのか、洗い係が、やわらかい絹布を指に巻いて濡らし、花魁の肌を軽くひと撫でだけしていく。それ以上のことはせず、けっして擦ったりしない。
科学だの美容だの、大仰なことをいわずとも、やはり、ものの道理をよくわきまえて、昔の人間はしかるべく生きてきていた、ということだろうか。




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