2014年12月30日火曜日

川端康成の『波千鳥』



 
『千羽鶴』の続編『波千鳥』をひさしぶりに読み返すと、静かな佇まいながら、冒頭もお終いも衝撃的だった。内容がではなく、文の置き方と姿とがである。
このようであったことは、すっかり忘れていた。あるいは、若い時期のがつがつした読書の一冊として、気づかれないまゝに済んでいってしまっていたのかもしれない。

冒頭はこんなふうに始まる。

「熱海駅に出迎えていた車が伊豆山を通り過ぎ、やがて海の方へ円を描くように下って行った。宿の庭へはいっていった。傾いた車の窓に、玄関の明りが近づいて来た。
 そこに待っていた番頭が、車の扉をあけながら、
『三谷さんで、いらっしゃいますね。』
『はい。』
と、ゆき子が小声で答えた。横づけになった車で、ゆき子の席が玄関に近かったからだが、今日婚礼したばかりの、三谷の姓で呼ばれるのは初めてだろう。
 少しためらって、やはりゆき子が先きにおりた。車のなかを振りかえるように、菊治を待った。
 菊治が靴を脱ぎかかると、番頭が言った。
『お茶室をお取りしてございます。栗本先生から、お電話をいただきまして。』
『はあ?』
 ふっと菊治は低い玄関に腰をおろした。女中があわてて座布団を持って走り寄った。」

 驚くべき文章である。『雪国』の冒頭が日本語として普通ではないとはよく言われ、静かながら、アルベール・カミュの『異邦人』なみに衝撃的な文章として有名だが、この『波千鳥』の冒頭も異様な文章である。駅から宿に向かう、滑り降りていくような車の動きをよく伝えているが、同じ内容を表現しようとする時、川端以外の者であったなら、このように書く勇気は持てないだろう。
「熱海駅で出迎えていた車は伊豆山を通り過ぎていった。やがて、円を描くように海の方へ下って行った。宿の庭へ入ると、傾いた車の窓に玄関の明かりが近づいて来た。」
このようにでも書いてしまうのではないか。
 少なくとも、「熱海駅で出迎えていた車」と書き、「熱海駅に出迎えていた車」という言い方は避けるだろう。避けてしまうだろう。「熱海駅に出迎えにいく」とは言っても、「熱海駅に出迎えていた車」とは言いづらい。
 川端のおそろしいのは、こうしたところで日本語を極限まで酷使するところである。曖昧とか破綻というのとは違う。日本語の口語をふつうに使う人ならだれもがわかること、わかっていなければならないことを前提として、表現の省略や合成をふんだんに行う。文語にして奇異に見えるようでも、恐れない。彼の一文は、見えないところで複数の口語の慣用表現に支えられており、海上に覗いた氷山の頂を飛び移っていくように文を編んでいく。

 終わり方も、まだいくらも続くべき話を途中で投げ出したような姿になっていて驚かされる。
主人公菊治が結婚してからの新居を、はじめて新婦の父と妹が訪ねてくる。ちょうどその日に、菊治の父と関わりの深かった茶の師匠栗本ちか子が来て、結婚の祝いの名目で菊治に贈った因縁の深い黒織部の茶碗のことを言う。菊治には、父の愛人だった太田夫人と、みずからも男女の仲になった過去があり、夫人の娘の文子とも男女関係を持った。栗本ちか子も父と関係を持っていたらしい。太田母娘とちか子と父と、そうして自分との関係の滓が、問題の茶器には染み込んでいる。それを承知の上で、ひととなりの清い新婦ゆき子のいる家に、ちか子は贈る。菊治はそれを売り払い、入った金をちか子に返す。ちか子はその金を受け取れないと言って返しに来るのだが、その際の玄関口でのやりとりが小説の終わりのシーンとなる。

「『どうしてこのお金をいただくんでございます?手切れ金とでもおっしゃるんですか。』
『じょうだんじゃない。僕が今ごろ、あんたに手切れ金など出すわけがないじゃありませんか。』
『そうでございましょうね。手切れ金といたしましても、あの織部を売って、それでいただくのは、妙なことでございますからね。』
『あれはあんたのお茶碗だから、売った金を送ったわけだ。』
『私はさしあげたんですよ。菊治さんが御所望でしたし、御結婚のよい記念だと思いましてね。私にはお父さまのお形見でしたが…。』
『僕にその金で売ってもらったと思えないかしら。』
『そら思えませんわ。いくら落ちぶれても、お父さまにいただいたものを、まさか菊治さんにお売りするなんて、この前もおことわりいたしましたでしょう。それに、道具屋へお売りになったんじゃございませんか。このお金を、どうしても受け取れとおっしゃるなら、私は道具屋から買いもどしてまいります。』
 菊治は道具屋へ売った金を送るなどと、正直に書かなければよかったと思った。
『まあ、お上がりになって…。横浜の父と妹とが来ているのですから。かまいませんわ。
 と、ゆき子がおだやかに言った。
『お父さまが…? まあ、そうでございますか。いいところで、お目にかからせていただきます。』
 ちか子は急にやわらかく肩を落すと、ひとりでうなずいた。」
 
 章の終わりならともかく、一編の小説の終わりとしては唐突な印象が強いだろう。新婚の菊治とゆき子にこのように栗本ちか子が絡まってくれば、何ごとか起こらないではいないのが予想される。その準備が整っていくところで、プツッと断ち切るような終わり方である。
 これには物理的といえるような理由があって、新潮文庫に付された郡司勝義の解題によれば、取材ノートの入った鞄の盗難が大きく影響しているらしい。大分県への取材旅行の際に取材ノートを鞄ごと紛失し、続編執筆が不可能になり、やむなく中絶となったとされてきた話だが、実際は、仕事場としていた東京の旅館で、ちょっと席を立った際に取材ノートの盗難に遭ったためという。昭和二十八年の出来事だが、馴染みの旅館の迷惑とならないように公表されなかった。川端の没後六年して、昭和五十三年に明らかにされた。
 とはいえ、『波千鳥』が書き続けられるにしても、太田文子がひとり旅を続けた大分県のことを長々と書かねばならないとは思えず、中心となる舞台は東京の新居での菊治とゆき子に移っているのだから、大分県についての取材ノートはなくても書き続けられたと思える。中断のような終わりを設けたのは、むしろ内容的な展開に深く関わることを理由としたものだろう。
 自殺した太田夫人やその娘文子との関係への贖罪の意識からか、妻となったゆき子と肉体的な関わりを持たぬまま、菊治は新婚生活を続けていくが、小説の中心はこの新婚夫婦の話になっていく。これが、一般的な小説のテーマになりうるのは明らかだが、川端にとっては、気乗りのしない、息苦しいテーマと映ったのではないか。菊治の贖罪や、心の再生とともに、健全な家庭が作られていくのなど、川端は追いたくなかっただろう。ひそやかなものであれ、背徳や崩壊や虚無への傾斜のないところに、川端の詩学は花開かない。自分にとっての詩の開かない物語を、苦労して書き継ぐわけもないのである。
たとえ、ゆき子との肉体関係の拒絶を菊治に維持させながら、その点で異常な夫婦生活を描き得たとしても、太田母娘との過去ですでに濃い背徳の色を加えてある『千羽鶴』と『波千鳥』の世界においては、あまり鮮やかな異常性ともならない。美しい虚無感をさらに深め得るような物語を興すには、太田文子をどうしても小説の中心に呼び戻し、菊治を飛び越えて、妻のゆき子との同性愛を発生させるぐらいの思い切った物語的飛躍が必要とされるだろう。
しかし、『千羽鶴』を経て、第四章まで書き継いできた『波千鳥』の積み上げと滑走ぐあいでは、そこまでの飛翔はできないと感じていたのではないか。小説は物語や語りの物理学によるのであり、人間関係やエピソードの組み合わせや堆積ぐあいからしか、物語のその後の飛翔距離や高度は導き出され得ない。数章後に失速するのが目に見えているのならば、思い切って途中で放棄するような終わらせ方をしたほうが美しいと思ったのだろう。
男女の愛欲は、それが一対一の男女によって醸成されるのでなく、つねに複数の男女の肉体的な、あるいは観念的な絡み合いのうちに起こり続け、本来的に一個人の主体を弄び、いたぶるものであるゆえに、(いうまでもなく、たとえば、男児が初めて全身を以て経験する膣は母親のそれであり、彼の恋人たちや妻が愛撫する彼の肌は、つねに、あらかじめ彼の母の膣壁によって奪われた肌であるとか、正妻や正夫に落ち着いていく男女の意識内部では、それ以前の無数の他の異性たちとの性愛体験の混泥が煮えたち続け、無限の比較が継続しているとか、そのような意識内の運動性のうちにのみ、全生涯の愛欲経験は構成されていく他ない)、あらゆる人間関係の気味の悪さのうちでも、もちろん、もっとも気味の悪いものであり、川端作品の魅力は、そこのおぞましさに、つかのまの白雪が交じるようなコントラストの表出にこそある。
肉体関係のない結婚を菊治やゆき子に続けさせてみる程度では、交る白雪の鮮やかさの質が落ちる。川端は、あるいは、菊治ではもう、役を担いきれないと思ったのではないか。妻のゆき子にしても、大分県の温泉を次々と経巡って、菊治との関わりを洗い落そうとする文子にしても、登場人物としての菊治のひ弱さを補うほどの働きをしてくれそうにないと思ったのではないか。
作品や、登場人物たちへの冷酷こそが、なにより、『波千鳥』においては美しい、と感じさせられる。こういう冷酷の、精緻な冷たさに接することでのみ生き返るものが、われわれの心の襞にはあるからである。




2014年12月27日土曜日

街灯が灯ってくるのが見えると



 筑摩現代文学大系の川端康成集の月報には、文芸評論家進藤純考氏の「川端さんの客間」という短い文章が載っている。新潮社での編集者時代、原稿を貰いにたびたび通ったという鎌倉の川端宅の印象が記されている。
ひさしぶりに読み直し、大学の一年次で出席した氏の授業の時間が蘇った。大学という空間に初めて接し、馴染んでいく、そんな一年間の季節の移ろいが鮮やかに思い出され、古い青春小説を繙くようだった。
氏の授業は、教える側も学ぶ側も楽なもので、七面倒くさい文学理論のレジュメを詰め込もうとするようなものとは違った。毎週、当番の学生が好きな作家や作品について発表する。それを聞いてから、氏の論評や感想があり、他の学生たちとの質疑応答があり、おのずと歓談に流れていくというふうで、講義というより、どこかの文学サークルの定時会のようなものだった。
これは、じつは教員の負担を軽くする打ってつけの方法で、しかも、学生たちには、なにか実のあることをやったかのような印象を与えられる。逃げとも、誤魔化しとも言えなくもない授業のしかただが、文学の場合はこれでよかった。理屈や知識だけの議論では文学にならないし、ましてや教員からの一方向の語りだけでは、文学からは遠ざかる。世間話や痴話も含め、喜怒哀楽あわせての、しかし流されないで正気に踏み止まり続けようとする意識の繋留の試みを文学というのだから、進藤氏は勘どころはちゃんと押さえていたといえる。ホメロスやアリストテレス以来のレトリックの変遷や文学史を簡便に辿っていくような講義は、一見するとまじめにももっともらしくも映るが、文学という生物の死骸を遠巻きに冷たく解剖してみるようなもので、文学解剖学とか文学死体処理法とでも呼ぶほうがふさわしい。
自分の当番がまわってきた時、私は、高校時代に愛読していたサン=テグジュペリについて話した。堀口大学の訳で主要作品は読み込んでおり、手持ちの新潮文庫はさんざん線を引かれて、ふにゃふにゃになっていた。
『星の王子様』で有名なこの作家は、ヨーロッパと南米やアフリカを結ぶ郵便飛行機の飛行士として長く働いた経歴を持つ。第二次大戦中には、ナチスドイツと戦うために、すでに年齢的に無理があったにもかかわらず戦闘機乗りとして志願し、地中海で撃墜された。作家としての本領は、体験にもとづく『人間の土地』や『戦う操縦士』などのエッセーのほうにこそ発揮されている。地上にいれば様々な面倒事に巻き込まれる他ない人間も、いったん空に上って雲上の長時間の飛行に入ってしまえば、人界を超越した地球の美しくも非情な様相に直面し続け、生の別様のあり方を思い知る。そうした位相で積み重ねられた経験から培われた超越的な世界観や人生観が、サン=テグジュペリの魅力でもあれば真骨頂でもあってやわらかい叙情味と高原の雰囲気のような澄明さや清潔感が英雄主義に結びつき、今なお、世界的に青年層に人気が高い。
フランス文学科に入ったものの、まだ初級文法もろくに身についていない時だったので、フランス語原文など参考にすべくもなかったが、進藤氏の文学の授業は一般教養科目であり、フランス文学の授業ではなかったので、翻訳を下敷きにしての発表で差支えはなかった。
知り尽くしていたテーマであったのが幸いしてか、発表の出来はよかったらしく、話し終わったところで、進藤氏が拍手をしてくれた。一年の授業を通じて、先生からの拍手を受けた学生など他にひとりもいなかったので、いま思い返しても、これは異例のことだった。授業枠の中での発表に過ぎないとはいえ、大学というところで、単なる先生ではなく、本物の文学者たちとの日常的なつき合いの中に生きている評論家から讃辞を受けたことは嬉しかった。有名な作家たちと顔見知りであり、特に第三の新人たちと昵懇で、「この前の日曜日、吉行(淳之介)が…」とか、「遠藤(周作)がいつも言っていることですが…」とか、「三浦(朱門)がこんなことを言っていた…」とかいった話がすぐ口をついて出る進藤氏が、自分の話のどこを気に入ってくれたのかと訝しくもあったが、学校という場所に巣食っているいわゆる「先生」なるものとは違う「文学者」という種族の一端に触れた気持ちもあった。
進藤氏は1999年に亡くなったらしいが、便利になったもので、いまはネットで氏の生涯の概要も辿れる。芥川龍之介、田山花袋、横光利一、川端康成らが寄稿した『文芸日本』の創刊者を父に持っていたことも知らなかったし、女優の早川十志子を母に持っていたことも知らなかった。東京帝大から学徒出陣で横須賀の海軍に行き、戦後に新潮社に入って川端康成、志賀直哉、石原慎太郎らを担当したことや、いったん会社を退いて大学院で修士号を取ってから復職したこと、カミュ論を書いたことも知らなかった。
亡くなる十年ほど前には、67歳で初の小説を完成させたらしい。編集者や評論家をしながら、特に「一二会」で親交を深めた多くの小説家たちを見つつ、やはり、いつかは小説を…との思いがあったのか。そういえば、進藤氏よりも前に、評論家の中村光夫も、歳長けてからは小説を書いていた。
エルヴェ・ギベールという、フーコーの愛人でもあったという話のある、エイズで死んだフランスの同性愛作家が、「小説という夢…」と書いたことがある。言葉や文に惹かれるあらゆる者たちが、素質としてはむしろ詩歌や演劇や批評のほうにこそ向いている場合でさえ、誰彼となしに「小説」のほうへ惹かれていき、いつかは小説を…と思ってしまう。そんな近代の文学者たちの宿命を端的に表現した言葉で、あの大批評家ロラン・バルトでさえ、小説のほうへ…と考えていたのを思えば、感慨深い。編集者として、また評論家として立派な仕事をしていた進藤氏もまた、自らの手で小説を…という夢に惹かれていたことになるのだろう。
もちろん、小説の現場というのは、作業中も、宴のあとも、過酷で非情なものである。出版社の商売の都合や仲間内での盛り上げ合いで、出版後、しばらくは話題となる小説作品も、時代がひとたび移れば、廃墟となったホテルや宿屋のような姿を晒すことが多い。進藤氏の親しい友人だった作家たち、遠藤周作、安岡章太郎、三浦朱門、庄野潤三、吉行淳之介、島尾敏雄、小島信夫、五味康祐、近藤啓太郎、日野啓三、奥野健男、村松剛などにしても、あれほど有名で、毎月のように作品や対談などが方々の雑誌に載っていたというのに、いまでは、小説好きだという青年の殆どが読んでいないし、名も知らない場合がある。どんな作家が好きなの?と聞けば、東野圭吾や石田衣良としか返ってこない。村上春樹でさえすでに古典で、難しく、扱われている団塊の世代そのものがもう老人世代でもあってみれば、若者には近づきがたい。一時期流行った京極夏彦の名も聞かなければ、獄本野ばらや新井素子の名さえ聞かれない。本は売っていても、今の若者はもう引っかかってこない。何十年か経った後、けっきょく、はるかに寡作だった俳人や歌人の作品ほどにも残らない小説家たちが殆どということになる。
小説というもののはかなさ、恐ろしさ、と、ひとことで済ましてしまっていいのだろうか。
済ましてしまったほうが、いいのか。
小説よりはるかにはやく廃れてしまったかのような感のある「文学」なるものは、どうだろうか。
進藤氏はある日の授業で、やはり友人の作家の誰か、三浦朱門あたりだったように覚えているが、その作家を例に引いて、こんなことを言った。
「急いで仕上げなければいけない作品や文章がいくつもある。締切が迫っている。ところが夕方になって、街灯が灯ってくるのが窓から見えると、気持ちが落ち着かなくなってくる。さびしいような、うきうきするような感じになってくる。飲み屋街の灯が脳裏にちらちらし出す。机に向かって、どんどん書かなければいけない。しかし、紅灯が心に揺れる。夜の街に出て行きたくてたまらなくなる。飲みたいなあ、飲み屋街をふらつきたいなあ。いや、集中して書かなければいけない。でも出て行きたい。居ても立ってもいられなくなってくる。書かなければいけない。飲みたい。出て行きたい。…で、出て行ってしまう、っていうんですね。紅灯の巷をさまよい、飲み屋に入ってしまう。飲みながら、また飲みに出てきてしまった、俺はなんて情けないんだ。そう思って飲んでいる。あの小説もこの小説も仕上げないといけない。あの文章はもう締切だ。こんなところで飲んでいるわけにいかない。…こんなふうに思いながら、それでもね、また朝方まで飲んでいる、と言うんです」
 そうして進藤氏は、仕事を山ほど抱えた作家のこの気持ち、街灯が灯ってくるのが見えると落ち着かなくなり、さびしいような、うきうきするような感じになって、居ても立ってもいられなくなってくるというのが人間であり、文学というものだ、というようなことを言った。
「この気持ちがわからないと、文学なんてわからないんですね」
 さらに続けて、ここでやっぱり、誘惑に負けて紅灯の巷にさまよい出ていってしまうというのが、文学の人間なんです、文学者なんです、と言ったようにも記憶しているが、これは定かではない。
私の勝手な思い込みかもしれない。



2014年1月31日金曜日

先験的〔超越論的〕な問いを立て直す



 フーコーをめぐっての渡辺守章と石田英敬の対談*はとても面白いものだが、その中で、フーコーの遺産相続人ダニエル・ルフェーブルの特別許可を得た石田英敬が、国立図書館に寄贈されている『知の考古学』のプレ・オリジナル版を、―なんとフーコー自身の次に―、読んでの指摘が披露されている。1969年に刊行されたものよりも規模が大きく、ルフェーブルによれば、現実には1966年刊行の『言葉と物』よりも先に書き始められていたという。
 フーコーの思考が激変し続けている最中の著作で、刊行版と違い、イギリス分析哲学を集中的にチュニジアで学んだ成果が濃厚で、ウィトゲンシュタインやオースチン、ジョン・サールなどを念頭に置いて書かれているという。イギリス学派の命題理論やスピーチアクトとみずからの理論の差異を厳密に突き詰めた著作となっているらしい。(親友であった分析哲学のジェラール・デルタルの蔵書がチュニジアにあるのを、フーコーは利用したという。デルダルは、東京日仏学院院長をモーリス・パンゲの後に勤めている)。

 刊行著作に見るかぎり、禁欲的なまでに同時代のことを書かない傾向のあるフーコーだが、この『知の考古学』のプレ・オリジナル版にあっては、言説理論の必要性を語る理由のひとつに、20世紀を「一般化した言説性の時代」だという同時代への言及がある。「二十世紀の文化を特徴づける大変化があって、それは普遍的アルシーヴの組織だ」というものだ。
「この大変化を一言で特徴づけるとすれば、普遍的アーカイヴの組織。私たちは全ての言われたことを思うがままに保存し、全てを言われたことであるかのように理解するような科学的技術的制度的なシステムを自分たちに与えようと努めている。私たちは一つの言語を、メッセージの形式的な成立条件を分析し、最も経済的で有効なコードを発動している。自然のプロセスの中にも情報に特有なメカニズムを発見しようとする」とフーコーはここで書いている。さらに「私たちは巨大な言説的ネットワークを、私たちの周囲全体に作ったり発見したりしている。私たちはその巨大な言説のネットワークから語るのであり、私たちの言説はたえずそこから発して繰り広げられ増殖している」
 フーコーがこれほどはっきりと同時代を認識していたのが確認される点は重要だとしても、ネットワーク内存在としての人間というこうした認識は1960年代において格別新しいものでもないように思うし、こうしたフーコーの言説がすぐに想起させる現代のインターネットも、60年代にはすでに科学技術や軍事技術の領域で現実化されていたのを思えば、人文科学の宿命的な遅れということのほうをむしろ思ってしまう。
「普遍的アーカイヴの組織」ないしは「巨大な言説のネットワーク」の中に人間がいる以上、もしネットワーク内で流通しうる言説を生産しようとするならば、また、ネットワーク内で他と共有できるような理解を形成しようとするならば、「私たち」はみずからも「普遍的」な言説しか生産し得ないはずであるという推測が、このフーコーの指摘からは導かれてくるように思われるが、これは「アーカイヴ」や「ネットワーク」という言葉を用いる以前に、そもそも言語活動自体が負っている宿命であって、なにをいまさらとも思わされる。言語活動は、最高度に広域把握された社会体や歴史や精神活動層のすべてをつねに含み持って動き続ける運動体であり、たとえば今このように日本語で記し続ける瞬間に、この言語配列は太古の中国での漢字生成や万葉期の日本語と直接的に連動してしまっている。
普遍的なるものと非普遍的なるものの境界に成立する文学、とりわけ、非普遍なるもののほうへと全力で邁進逸脱を図り続ける精神運動としての詩作の領域に関わる者としては、いまさらながらの話をわざわざ持ち出してくれながら、フーコーが戦線のわかりやすい見取図を提示してくれているような印象を持たされはする。いうまでもなく、詩作を最高の玉座に戴く文芸の領域は、どれだけ理解され得ないほうへと激しく逸れるか、「普遍的」や共感、共鳴、共同の不可能性をどこまで人間精神において開拓できるか、ということが至上命題だからである。
 
 渡邊守章と石田英敬の対談の面白味は、しかし、他のところにこそある。言語情報学者としての石田は、現代の「ポストヒューマン的な現状」というものが、「存在論的な問いを絶つことがいろいろなレヴェルで配備されている」と見、現代人は「そのような環境に生きる」のを強いられることになったと考えて、このように続ける。
「内在的な意味の問いというか、超越論的な問いを取り戻すことからしか主体化は起こらないと思うのです。その問い自体が分散disperséしているという状態にどんどん追い込まれて行って、社会についての問いがなかなか立たなくなってきています。もう一度テクノロジーを問うことによって、超越論的な問い、存在論的な問い、まさに主体化の問いをとらえなおすという回路を哲学はやはり取り戻すべきなので、そういうフーコーの使い方を現代は必要としているのだと思うのです」。
 こうした「問い自体が分散disperséしているという状態にどんどん追い込まれて行」く例、「先験的〔超越論的〕な問いが無意識化され、テクノロジーによって遮断される」例として、「超越論的な問いを封じ込めるために睡眠薬を飲む」ような「メディカリゼーション〔医療化、薬漬け〕」を彼は挙げているが、フーコーの問題圏を普通の現代人の生活に連結させる好例だろう。
現代を生きるということは、否応もなくIT技術の時代を生きるということだが、石田によれば、IT技術とは「モノを扱っていると同時に、記号を扱」うもので、「記号技術がモノを扱えるようになったから進歩した」ものであり、「モノとして扱えるようになるという発明によって、記号を載せることができ、また大量に処理できるようになった」ものである。したがって「モノという側面と出来事という側面とがあいまって動いている」ため、「モノの問いを立てないと記号テクノロジーの問いは立た」ないし、「先験的〔超越論的〕な」問いを立てることはできない。「現代は、この先験的〔超越論的〕な問いが無意識化され、テクノロジーによって遮断される世界」となっているが、ここに切り込むには「モノの問い」から入るしかない、と石田は考えるのだ。

 もちろん、「先験的〔超越論的〕な問い」はカントに遡るものだが、この場合はカント自身というよりも、カントのものとして『言葉と物』でフーコーが提示した〈経験的=先験的〔超越論的〕二重体empirico-transcendental〉という概念に、まず、直接は関わる。
これはフーコー流の近代的人間概念で、彼は近代の発生を「人々が人間の研究に客観的手法を適用しようと欲したときではなく、《人間》とよばれる経験的=先験的二重体がつくりだされた日に位置づけられる」と考え、これにもとづいて次のように思考の道筋を立てていく。「分析の場所が、もはや表象ではなく、有限性のうちにある人間となったいまでは、問題は、認識の諸条件を認識のうちにあたえられている経験的諸内容から出発してあきらかにすることなのである」。
「有限性のうちにある人間」という認識はもちろんハイデガーから来ているし、「認識の諸条件を認識のうちにあたえられている経験的諸内容」という極めて正確な人間認識は、人間の思考の基本構造としてドゥルーズが表明した存立平面概念をべつの言い方で表わしたものでもある。さまざまな哲学的潮流が流入し凝縮された結び目であるフーコーの思考をよく表わす一節ということになるが、ともあれ、問題を立てるにも考察するにも、「配分あるいは分割というものが成立しなくなっていく」ところに「近代」なるものは出現している、というのが最も重要な点である。
「人間の終焉」という表現は、ここから論理的に導かれるもので、ここにおいて「人間に代わるものとして言語が前景化してくる」のである。


*『哲学の舞台』(ミシェル・フーコー+渡辺守章、朝日出版社、2007)所収。文中の引用は、フーコーの著作の翻訳も含め、すべてこの本の対談より。




ライ麦パンや全粒粉パンの“bento”




 ほぼ毎日、近所で買ったパンでサンドイッチをじぶんで作って勤めに持って出る。この数年のあいだにロールパンを使うことが多くなり、裕福な生活でもないから、ひと昼分で100円そこそこに抑えようとも思って、ヤマザキの安物パンをあれこれ買ってしまうことも多くなっていた。ヤマザキのパンに多量の添加物が入っているのは、ヘルシー志向の人びとのあいだでは有名なことだし*そうでなくとも使用材料表示を見れば、小麦粉の次に糖類が来るようなニセモノのパンであることは明瞭なので、わが食生活も地に落ちたものと鬱々たる思いが続いていた。
 先日、新宿駅の地下の神戸屋で夕方の割引きセールに出会った。半額や20%引き30%引きが並んでいて、半分に切った大きな全粒粉パンも安くなっていたのでひさしぶりに購入した。このところ、あまりに添加物の多いパンはなるたけ避けようと思っていて、ランチ用のサンドイッチを作るにもフランスパンのバゲットを使ったりするようになっていたので、ちょうどよかった。バゲットだと、このパンの特性を保つために、ヤマザキのものでさえ乳化剤程度しか危険物が混ぜられていない。乳化剤でもよくないのだし、そもそもバゲットに乳化剤を入れるというのはどういう考えかと思わされるが、これが現代の日本のパン事情ではある。いいパンを買いたくても、忙しい生活の続く日々、近所に店がなければどうにもならないということも、このパン事情には含まれる。(ちなみに、同じようにスーパーで入手しやすくなってきた神戸屋のバゲットの場合は、乳化剤・イーストフード無添加となっている)。

 うちでさっそく食べてみて、ひさしぶりの全粒粉パンはおいしかった。神戸屋のものとて、自主基準の厳しい自然食パンと比べれば原料の点ではいい加減なのはわかっているが、ヤマザキのあれこれと比べれば格段の差がある。少しモサモサした食感は全粒粉パンやふすまパン特有のもので、かつてこういったパンしか食べていなかった頃のことがいっぺんに甦って、懐かしかった。30年前や20年前、米というものを一切食べず、洋食も含めてほとんど日本ふうの食事というものを断ち、完全にマクロビオティックの菜食生活をしていた頃、パンはナチュラルハウスで買ったルヴァンのパンや他の自然食店で買ったライ麦パンやパン・コンプレ(全粒粉パン)、時にはそれらにクルミやヒマワリの種や五穀などを混ぜたものだけと決まっていた。あの頃のことが、全粒粉パンのモサモサした食感から立ち上ったのである。
 1983年の夏、家出をした20代はじめの私は、世田谷でフランス人女性との生活に入った。彼女は徹底した自然食主義者だったので、その生活様式に合わせることにしたのである。住まいは駒場東大のわきの池ノ上にあった。下北沢が近かったので、そこの線路づたいにあったナチュラルハウスでたいていパンは買った。10センチ幅ほどのライ麦パンの塊はずっしり重く、だいたい350円ほどだったように思う。ふたりでそれを一日にひと塊りは食べてしまうし、私のランチ用にもそのパンでサンドイッチを作ったので、だいたい日にふたつほど塊が要る。毎日買いに行く時間もないので、まとめていくつも買っておくこともある。夏の炎暑のさなか、買ったそれらに他の買い物をあわせて家までの20分ほどを帰ってくるのは、なかなか辛かった。井の頭線で下北沢から池ノ上まで乗ってくる手もあるが、豪雨の時などを除けば、ふだんは歩いた。
 ランチには、ライ麦パンだけでなく、パン・コンプレなども混ぜる。これは下北沢にあったサン=ジェルマンのものがよかったので、よくそれを買って帰った。ランチの分量は、だいたい、ライ麦のサンドイッチがふたつ、パン・コンプレのものがふたつか三つという具合だった。私たちはそれをランチとは言わず、ふつうに「弁当」と呼んでいた。フランス人の彼女は日本語ができたとはいえ、母音をのばして発音するのが苦手なフランス人のならいとして、「ベント」と呼んでいた。ベントは、毎日、彼女が作ってくれる。私がじぶんのベントを作ったことはなかった。そこらのスーパーで売っているプロセスチーズやスライスチーズなどは使わずに、フランス製のカマンベールやブリーやコンテや、その他いろいろのチーズを2,3ミリほどに切って中に入れ、やはり無農薬、無添加のフランス製やイギリス製のジャムをつけ、時にソビエト製の、安いがとても旨い蜂蜜をつけたり、ニュージーランドやオーストラリアの濃度の高い蜂蜜をつけたりして挟む。これらをビニール袋に入れて封をし、その上からさらに小さめのスーパーの紙袋に入れて輪ゴムで止めてくれた。
 私たちは1998年に、双方の活動の便を求めてべつに住むようになり、彼女のこうした毎日の“ベント”づくりも終わったが、それまでの1617年ほどはずっとこうした“ベント”ランチが続いていた。その後も彼女は、数分ほど離れた近隣に住む私にたびたびパンを買って持ってきたので、私が今の妻と住むようになった2002623日までは、パンについては彼女の庇護下ないしは指導下にあったようなものだった。

 勤め先では、私の“ベント”は注目の的だった。近所のラーメンの出前をとったり、食べに出たり、食パンのサンドイッチを買ってきたりという人たちの間で、私ひとりがいつもライ麦パンや全粒粉パンなのだから、どうしても人目を惹く。そんなパンを持ってくるわけを話せば、フランス人との生活を話すことになるのだから、なにかと話題にもなる。しかも、ネクタイ着用、ジーンズ御法度という職場ながら、ふつうのサラリーマンのような白ワイシャツにスーツなど絶対に着なかったので、外見もどうしても注目を浴びた。
 私がいつも着ていたのは、カーキ色のシャツだったり、スコットランドから持ってきたようなチェック柄のグリーン、イエロー、ピンクなどの地色の厚手のシャツだったりした。白シャツを来たことはなかったし、ましてや普通のビジネスシャツなど買ったこともなかった。ジャケットには冬ならカラシ色やベージュやこげ茶色のコールテン、夏場なら麻のベージュ色などで、髪の毛は肩までかかる長髪で、耳はいつも隠れているか、ちょっと覗いているぐらいだった。ネクタイは職場に着いてからつけるのがつねだったが、ウールの棒タイや、細身の黒や茶の単色のものなどが多かった。不動産屋がぶらぶらさせているような太いブランド物などは、品がなくオヤジ臭いということで論外だった。
 こうした服装は、彼女の好みにかろうじて合ったもので、彼女は日本は好きだったが、日本人の洋装姿は端から馬鹿にしていたし、男性の装い以上に日本の中年女性のスーツ姿の滑稽さと醜さを馬鹿にしていた。日本人には、着物とまではいわずとも、もっと似合う服装があるのに、どうして欧米のサルまねの服装をしているのかと言っていた。私がスーツを着るなど、もちろん許容するはずもなかったのだ。
 
 1988年に私は大学院に入り、この世で最も嫌いな場所のひとつである大学空間に戻ったのだが、それまでの6年間というもの、職場での希薄な人間関係をのぞけば、私は日本人の交友相手を新たには一切作らず、フランス人をはじめとする欧米人だけとしか付き合わなかった。年によって違いはあったが、一年のうちの半分半分を日本とフランスで暮らし、むこうのフランス人のあちこちの家でのんびりとフランスふうに時間を送ったり、フランスじゅうのなるべくたくさんの教会や聖地を訪ねて廻ったりした。手のつけられないほどの日本嫌いだった私には、この暮らし方は悪くなかった。
 大学院に入ってからも、この嫌日本生活はなおも10年ほどは続くことになる。日本的なるものへの定着や定住を嫌い、浮草であることを旨とする精神はいまだに変わらないどころか、潜行しつゝいっそう激越になっているが、年の功というのは恐ろしいもので、平然と右翼ふうを装った言辞を弄することもあれば、舌の根の乾かぬうちにジャコバン派に戻ったり、やや穏当さを装ってジロンド派を気取るという芸当もできるようになった。社会だのこの世だのは、ようするにどうでもよいのだと学んだのである。

 フランス人の伴侶は2010年に死んだので、今となっては“bento”にまつわるすべてが終わり、細々とした瑣事のすべてが消滅し去っている。そうなってみると、あの“bentoを彼女が最後に作ってくれたのはいつ頃だっただろうか、といった小さなことも、逆につよい関心事となって思い出されてくるが、これがどうにもはっきりとしない。大学院に入ってからは学食の貧相な食事をとって済ますことも多くなり、「あんなものでは身体を壊すから…」と彼女は“bento”を持たそうとしてくれたが、日頃の無添加・自然食生活に慣れ過ぎた私には、学食のあのジャンクフードもちょっと楽しいところがあって、拒むことが増えた。作ってくれたり、拒んだりというのをくり返すうちに、どこかの時点で次第に“bento”の習慣は消えていったものと思う。

 ただ、“bento”にまつわる本当に最後の思い出は、はっきり覚えている。それは私のためではなく、彼女自身のための“bento”で、その頃住んでいた世田谷の代田からそう遠くない松陰神社や上町の代官屋敷、馬事公苑などのほうへいっしょに散策に出た時のことだった。ごく近隣どうしとはいえ私たちはすでに別居していて、その日、私は彼女の家まで出向いて、合流してから出かけた。2001831日の、暑過ぎず、天気のよい午後のことだった。
 途中のコンビニのごみ箱に、彼女は家から持ってきた小さなごみの包みを捨てたが、その後でどこかのベンチに座って、いざ“bentoにしようとなった時、リュックサックから出てきたのは小さなごみの包みだった。同じような包み方をしていた“bentoのほうを捨ててしまっていたのだ。
 輪ゴムで止められていたスーパーの小ぶりの紙袋の中からポリ袋が取り出されると、そこに小量の生ごみが入っているのがわかった。
「まったく…、なにをやってるの…」と彼女に言いながら、18このかた一度も変わることのなかった彼女の“bentoの包み方が、そのままそこにあるのを見た。「弁当とおなじ包み方をしてるんだもの、これじゃ、間違うよ」と、慰めとも批難ともつかぬ言葉を続けながら、あんなにも長かった私たちの“bento”の時代が、すでにもうすっかり終わってしまっていて、二度とくり返されることもないだろうことを、私はそのとき、はっきりと確かめていた。



(注)
*「添加物は品質を向上させるために使用するもの」という社是を持つヤマザキのパンには、世界中で使用が禁止されている食品添加物の臭素酸カリウムが使われている。日本では残留が確認されないことを条件に食パンへの使用が認められているが、国際的にも国内的にもこの物質の発がん性は認定済みで、日本でも食パン以外への使用は禁止されている。
臭素酸カリウムはパーマ液の2剤に使用される物質で、1剤でタンパク質の分子結合を切り、2剤で再結合させて髪に形をつけるが、同様のことをパンで行い、少量の小麦粉をふくらませて、パーマのように食パンの形を保つのだという。ヤマザキの食パンの柔らかさは、パーマ液の効果ということになる。 
 臭素酸カリウムは食パンを焼くときの加熱で分解され、臭化カリウムになるが、これはイヌへの抗てんかん薬として使われている。ネコに用いれば死んでしまうという。微量なら人体へのリスクはないが、摂取を重ねてこれを蓄積した場合には問題が生じ得る。
もともとヤマザキは「無添加でいいもの作れるはずないだろ!」と社長がカツを入れるような会社で、「機械で作るのに向かせたり、製品の老化(ぱさつき)を抑えるために添加物を入れる。たとえば、ダメージに弱い生地を強くするために、乳化剤を入れる。ガンガン入れるから、自然食志向の人はやっていけません」という社員の話も洩れ聞こえている。
ちなみに、ベーカリーカフェのVIE DE FRANCEはヤマザキの子会社が運営している。どうりで…の味と食感ではないか。
パンにかぎらず、なにを買っても食品添加物ばかりという時代だから、いまさら驚いてもいられないとはいえ、西日本新聞社のブックレット「食卓の向こう側」には、福岡県内の養豚農家でコンビニの弁当やおにぎりを母豚に毎日3ロずつ与えた事例が紹介されている。
豚の妊娠期間である114日後のお産で、死産が相次いだというもので、生まれた子豚も奇形や虚弱体質ですぐに死に、透明であるはずの羊水はコーヒー色に濁っていた。
回収業者が持ち込んだ期限切れのコンビニ食を与えたものだが、腐ってはおらず、農家の主が「ちょっとつまもうか」と思える品だったという。「公表するとパニックになる」として、西日本新聞社はコンビニ名の報道を控えた。





握られぐあい、はじかれぐあい


      ―渡辺淳一の『握る手』



 最高度の人間知性の表現形態のひとつに小説があり詩があるのは言うまでもないが、そうした意味での小説を好む者にとって、もちろん渡辺淳一の小説はまじめに相手にするべき対象ではない。長編にならまだしもそれなりの趣向が盛り込まれていたりはするものの、短編に到っては安手のおざなりの物語の中に紋切り型の人物を泳がせてみるという程度のもので、時間つぶしにもなってくれない場合が多い。
 2001年に、短編集『風の噂』以来10年ぶりにまとめられた短編集『泪壺』(講談社)には、表題作『泪壺』ほか『マリッジリング』『後遺症』『春の別れ』『さよなら、さよなら』『握る手』が収められているが、これらのいずれもがやはりB級かC級の短編で、こんなものをもし新人作家が書いたら、ただちに干されてしまいかねないたぐいのものだが、かろうじて『握る手』だけには面白い部分があった。

 この短編では、医師であった渡辺淳一にとってお得意のモチーフである医学ネタから話は始まる。アメリカでの手首切断事故の手術の話がそれで、自分の手首が再利用できなくなった35歳の男性に、ちょうど同じ病院で死んだばかりの42歳の女性の手首を移植するという事例である。切断肢接合手術のエキスパートである外科医によって、「皮膚や筋肉はもとより、微細な神経から血管まで完全に縫合され」ることによって手術は奇跡的なまでの大成功となる。
 しかし、たったふたつだけ意想外の「後遺症というか、少し気がかりなこと」が残った。ひとつは「三十五歳の男性の手首に、四十二歳の女性の手を移植したため、やや手先が華奢でしなやかに見えること」。これはしかし、致し方ないことで、見栄え以外に実害があるわけでもないのでまだいい。もうひとつのことのほうが、男性にとってはいっそう気がかりでもあり不便でもあった。「トイレに行って小水をするとき、女の手が男のあれを握るため、小水をし終わってもなかなか手を話そうとしない、それがいささか困る」ということで、この話が披露された全米外科学会の会場は笑いにつつまれたということになっている。
 作者はすぐにこの症例報告の真実性を否定しながら、この話を、主人公の整形外科医折居亮介が、医局の忘年会の後で古参の医師たちと寄った銀座のクラブで恩師の口から聞いたものとして設定している。「学問一筋の、いわゆる堅物と思われていた」恩師が、ホステスたちを前にして「専門家らしいディティールの積み重ね」を以て語ったので本当らしく響いたが、女性の手首を男性の腕に完璧に接合するのは、理論的にはともかく、現実的にはほぼ不可能であるのを折居は知っていることになっている。
 医学ネタを軸にしながら、銀座のクラブでホステスたちと古参の医師たちのいる席で起こりそうな場面をまず描き出し、こうしてひとつ小説的な山場を披露しつつ、「女の手が男のあれを握る」という中心テーマに入っていくことになるのだが、自分の親しんだ業界(医学界)、自分の慣れ親しんでいる場所(銀座のクラブ)、自分の親しんできた行為(「女の手が男のあれを握る」)へと移行していく渡辺の手つきはスムーズで、現実味を盛り込まねばならないという通俗小説のしきたりを前者ふたつでクリアしながら、また、そのふたつによって小説の雰囲気の真面目さとリアルさを維持しつつ、彼がいちばん描きたかったテーマ、しかも、いささか慎みがなさ過ぎるものとも不謹慎なものとも受け取られかねないテーマへと滑っていくところには、通俗作家としての律儀ささへ感じさせられる。
 この小説の中心をなす「女の手が男のあれを握る」というテーマの展開部分においては、もはや、主人公折居亮介が有能な整形外科医師であろうがなかろうが、どうでもよくなるようでもあり、「まだ五十には少し間がある」離婚した四十代独身の医師という設定は、もちろん、性愛を扱う小説にはいろいろと都合がよいとはいえ、性愛目当てにいろいろな女を相手にできる境遇にあれば、どのような職業でもよかったように見えるが、通俗小説の職人である渡辺淳一は、最後にもういちど医学界を出してきて、主人公が医師であるべき物語上の必然性を確認しさえする丁寧な仕事ぶりでもある。
 
 念の入ったジョークとして恩師がホステスたちに披露した手首接合手術の話を思い出しながら、折居は「それにしても、移植された女の手はあそこをどんな風に握るのか」と考える。
これは川端康成も興味を惹かれただろうと思われるモチーフだが、川端ならばもっと控え目に、そしてもっと隠微に魅惑的に展開していくことになったであろうこのモチーフを、渡辺淳一は、もともと医師であるからと言ってしまえばそれだけのことだが、はるかに露骨に即物的に扱っていくことになる。「折居も女性たちに何度か、自分のものを握ってもらったことがある」と展開していくのである。仮に同じように書くとしたところで、川端ならば「自分のもの」を削除して、「折居も女性たちに何度か、握ってもらったことがある」とでも書くだろう。
 実際の展開の微細なところは小説に当たって確認してもらうことにして、ここではこの小説中に現われる「握」られ例を、すなわち、女性による扱いぐあいの例をレジュメし、列挙してみよう。
〔例1〕「相手の右手を自分の股間に導き、すでに硬くなった一物に触れさせると、女性は一瞬戸惑いながらもそれを握り、ゆっくりと上下に擦りだす」。そうして、女性は「静かに、なにか怖いものにでも触れたように、そろそろと動かす」。
〔例2〕「相手の右手を自分の股間に導き、すでに硬くなった一物に触れさせると、女性は一瞬戸惑いながらもそれを握り、ゆっくりと上下に擦りだす」のは〔例1〕と同様だが、その後、女性は「待っていたとでもいうように、しかと握って荒々しく擦る」。
〔例3〕やはり、「相手の右手を自分の股間に導き、すでに硬くなった一物に触れさせると、女性は一瞬戸惑いながらもそれを握り、ゆっくりと上下に擦りだす」のは〔例1〕や〔例2〕と同様だが、その後、女性は「握ったまま、その大きさと温もりをたしかめるように、ほとんど指を動かさ」ない。
〔例4―R子32歳〕「初めから握ることには積極的」。「折居がそれを近づけるまでもなく、彼女のほうから求めてきて、握るや積極的に動かし、それが実に巧みであった。しかも関係ができて三度目かと思ったが、擦るうちに布団の中に潜り込み、いきなりその先端を口に含んだ」。「こちらから頼みもしないのに(フェラチオ)をしてくれたのは彼女が初めてで、それはそれで有難かったが、あまり積極的にされると、男を知りすぎているような気がして、いささか興が殺がれたことも事実である」。「彼女の積極さと大胆さが、いささか重荷になったことはたしかである」。
〔例5―A子45歳〕「ごく自然にそれを握ってくれたが、そのまま下半身の方へと移動していった」ので、フェラチオをするのだと思ったら「驚いたことに、彼女は握ったものはそのままに、いきなり袋のほうへ吸いついてき」て、「折居は思わず腰を引いたが、A子はかまわず袋の睾丸のあたりを、下からかき上げるように舐めだす」。折居には「初体験」だったが、「それが意外に心地よく、しかも懸命に舐めている気配が睾丸からも伝わってきて、思わず声まで洩らしてしまった」。「この女性はセックスだけでなく、あらゆることに甲斐甲斐しく、年上とはいえ、体も魅力的だったが、残念なことに、その数年後に子宮癌で亡くなった」。
〔例6―S子30歳〕「一物を差し出しても、容易に触れようとしない女性」のひとり。折居を嫌いというわけではないが、「生来、羞恥心が強い女性らしく、触りたくてもそこまでする勇気がない」らしく、「いくら差し出しても容易に触ろうとしない」。半年後には「ようやく握ってくれたのだが、それも人差し指と中指のあいだにそっとのせるだけで、そのままどうしたものかと戸惑い、震えている気配まで伝わってくる」。しかし、「その震えながら持っている感じが、かえって男の気持をかきたて、擦られてもいないのに、硬く、逞しくなっていく」ところなど「まさに、巧まずしての技巧」といえる。S子はその後、若い男と結婚してしまうが、「いまでもS子が若い男のそれを恥ずかしそうに握っているのかと思うと、相手の男に嫉妬を覚える」。
〔例7―別れた妻〕「もともと堅い家庭に育った上に、幼いときに精神的なトラウマでも受けたのか、性に対しては異常に潔癖で、その種のことを蔑んでいるような気配さえあった」。子を産んでからでさえ「折居が求めても拒否し、育児に専念するばかり」。「折居も、淡白で面白味のない妻とのセックスには飽きていた」。
〔例8―Y子38歳〕広告代理店の「整った顔立ち」のキャリアウーマン。「セックスには意外に積極的で奔放」だったが、「最近の若い女性のように羞恥心の欠けた大胆さとは異なり、自ら抑えようとしながら、軀の方が高ぶって走り出し、自分でも戸惑っている、といった気配が伝わってきて、それが好色な折居にはかえって愛しく、好ましかった」。「ばりばりのキャリアウーマンでありながら、綺麗好き」で、「逢う度にベッドはもとより、キッチンから部屋まで、きちんと整理してくれる」。「外はもちろん、内を任しても、Y子ならしっかりと守ってくれそうで、しかも表の凛とした雰囲気からは想像もつかぬほど、ベッドでは助平である」。

 ……女たちの「握る手」の光景を中心にし、男である折居のほうからすれば握られぐあいの感触を軸にして(―まさに、『握る手』という表題が露骨にテーマを表わしているわけだが、それにしても、渡辺淳一のこの表題のつけ方はどうだろう。色気がないというか、魅力がないというか、あるいは女性読者こそを意図しての名づけというべきだろうか。男性用につける表題ならば、『握られぐあい』や『握られて』、あるいはアガンベンの『開かれ』よろしく『握られ』とでもすれば、現代思想までまぶすことができて読者層拡大を狙えたかもしれない―)展開されていくこの短編に登場する女たちは、ざっとこんなところだが、ハードカヴァーの本に緩く組まれた35ページほどの小説に出してくる数としては少なくはないだろう。数量に走るサド侯爵なら、これでもかとばかりにもっと盛り込むところだろうが、数に走れば登場人物ひとりあたりの描き込みは縮小せざるを得なくなるので、ヴァンセンヌの牢獄に籠ってひとりしこしこ書いていればよかったサドなどとは違い、読者の講読欲と忍耐力とをつねづね秤にかけて、劣情喚起と情緒の味付けとダイジェスティヴな難し過ぎない物語性の維持を至上命題としながら商品としての小説を拵えねばならない現代作家の渡辺淳一の場合、どうしても、この程度に収めるのが妥当なところということになろう。

 お気づきだろうが、例8のY子の握りぐあいについては、先の列挙個所に書き加えていない。というのも、この小説においてはY子との別離こそがクライマックスとなっており、その際、最後のセックスにおいてY子がどんな握り方をしたかが焦点となっていて、それをお伝えすることでこの小文も終えようともくろんでいるからである。
 仔細については小説にじかに当たってもらいたいが、もちろん、Y子は例1から例7までを超えた握り方を、というより、扱い方をすることになる。小説や物語というものの力学が作者にそうさせるわけで、それまでに出した例のどれかに分類されるような程度のものならば、小説は湿った花火のように尻つぼみに終わる他ない。とりわけ、短編小説はそうで、どうしてもなんらかの驚きを最後に持ってこざるを得ないことになる。開高健は『珠玉』の中で、風呂場で女の股の下に横たわった男の顔に、女の尿がゆたかに降り注ぐ場面を定着したものだったが、渡辺淳一はもちろん先達と同じ路線を踏襲するわけにはいかない。さて、どうするか。
 最後のまじわりとなったその夜、「折居はY子を少し焦らすつもり」だったが、急に我慢しきれなくなる。そうして「入れてもらおうと思ったとき、Y子の手が止ま」る。
「Y子の股間に手を添え、蕾を愛撫しながら、Y子の手に自分の一物を握らせたところまで、いつもと変るところはなかった」のに、ここで事態は急変するのだ。折居は、「どうしたのか」と「相手の出方を窺う」。と、「Y子は突然握っていたものを離し、次の瞬間、硬くなって宙に浮いていたペニスが、いきなりはじかれた」。
 折居のペニスははじかれて、「硬くなっているだけで軽く左右に揺れて、すぐに止ま」り、「別に痛みは感じない」ものの、「なにか急に除けものにされたような、押しやられたような気がして」、彼は「Y子の顔を探ろう」とする。彼にははじかれた意味がわからず、「これは、なんの意味なのか。…」と思考停止してしまうのである。
 と、「その瞬間、Y子はいきなり起き上ると、全裸のまま折居の上に跨り、はじかれて手持無沙汰になった一物を、自分から股間にはさみこ」み、「騎上位のまま勝手に動き出」して、「白い上体を撓らせ、髪をふり乱し、息を荒げて前後に激しく動く」。そうして「長い汽笛のような声とともに、思いきり上体を反らし、両手を胸に当てたまま、仰向けに倒れるようにゆき果てた」。
「手早く衣類をつけ」たY子が、「今日は帰らせてください」と「ドアを開けて」去った後で、折居は洗面所に「女ものの髪を止めるピン」が一本あるのに気づくことになる。前日に来て「いつものように関係した」M子のものではないかと思い、これを見てY子は機嫌を損ねたのかと、ようやく推測するに到る。
 Y子がなぜ「途中まで擦ってくれていたものを」「いきなり指ではじ」いたのか、その理由については折居はしばらく思い悩む様子だが、小説にとって一番重要なことである感触のリアルさという点では、そのような理由など、もちろんどうでもよい。こういう方向へと下手に追及して書き連ねていけば、小説というものは底の浅い通俗な心理的詮索に陥る他なく、CMでめった切りにされ続けるゴールデンタイムのテレビドラマではあるまいし、そうなれば小説としては失敗することになる。小説においては、作者は分析を行ない過ぎたり結論を出したりしてはならず、あれこれ読者に考えさせる無限の乱反射を拵えたところで止めなければいけない。小説が心理学とも精神分析学とも決定的に離れるのは、まさにこの点である。
 さすがに渡辺淳一はツボを心得ていて、こういう点は外していない。折居にあれこれ思い悩ませるが、結論は出ずじまいである。折居は翌朝、起きてトイレに行き、「ペニスを持ちながら、右手を眺めてみる」。そうして、小説のはじめにあった例の手首切断事故の接合手術の話を思い出しながら、「これが、しなやかな女の手なら、離さないのか。いや、逆に突き放す手もあるだろう」と考えるのだ。
 やがてパソコンに来たメールに「わたしたち、もう終わりにしましょう。いろいろありがとうございました。Y子」という一文を読んだ夜も、「ベッドの中ではじかれた感触が、徐々にペニスに甦ってくる」のを感じ、折居は「あんないい女を、惜しかった」とつくづく思うということになる。


 こうふり返ってみると、やはり『握る手』には見事なところがあると言わねばならないだろう。性交の器官としてでもなく、排尿の器官としてでもなく、まったく別のたぐいのものを思わせる器官としてのペニスが、ここにはたしかに発見され、定着されたからである。みずからのペニスをめぐって、この先しばらく折居が思い悩み続け、仮にどこかに助けを求めたく思うようになったところで、彼が赴くべき先はけっして性科学科でもなく、泌尿器科でもない。やはり文学科でしかありえないであろう。





文身(いれずみ)について



 人類学では、いれずみに「刺青」よりは「文身」の表記を当てるらしい。個人的にはあまり興味を持たないまゝ今に到り、実社会で流行っていると聞いてもピンと来ない。温泉に行ったりして、「刺青の方お断り」とあるのを見る時など、そんなものかと思う程度だ。現代日本におけるいれずみが、「文身」でなく「刺青」でしかないところから来る反応といえる。

 しかし、東南アジアの部族にあっては、文身をちゃんとしたかどうかは、死後の成仏に大きく関わってくる。
 インドネシアのボルネオには、マハカム河畔にクレマンタン諸族が暮らしているが、彼らは生きているあいだに文身を施さないと、死者の国への旅路は容易ならぬことになる。なかでも、ロング・グラッド族の女などは、八歳から指の裏に文身を始め、月経の始まる頃には指の分身を完了している必要がある。さらに手の裏から手首とひろげていくが、足にも同時に施していく。十八歳から二十歳には腿の前部にかかる。腿の後部は急がなくてもいいらしいが、これが他の部族カヤン族となると、女は子供を生む前に腿の文身を終えていなければならない。
 文身をしてもらっている時期のロング・カヤット族の女は、文身師のために、毎日、黒い鶏を一羽ずつ殺さなければならないともいうから、なかなかの物入りである。こんなにまでして、どうして文身をするのかというと、死後の振る舞いが大きく制限されることになるためだ。
 テラン・ジュランという河が、彼らの死後の世界にはある。文身を完了した者はその河で水浴でき、河底から真珠を拾うことができる。しかし、文身が未完成の者は、川岸に立っていなければならない。文身のない者ともなれば、岸に近づくことも許されない。
 文身を施した者だけが死者の国にすみやかに入っていくことができるという考え方は、マハカム河の諸部族だけでなく、東南アジアではかなり広く分布しているという。民族学者、文化人類学者の大林太良によれば、ミクロネシアのギリバート諸島でも、北海道のアイヌや琉球列島、中部インド、メラネシアでも見られるらしい*

 文身は、ともすれば装飾行為として捉えられやすいが、文化人類学ではこれを身体毀損の一種として扱う。学問の面白さは、こうした意外な捉え方を持ってきて、一気に思索の射程を拡張したり転換したりするところにある。こうした観点変更のおかげで、文化人類学は、東南アジアから太平洋にかけて分布しているオーストロネシア語族が、なんらかの身体毀損の風習を守った者のみが死者の国に入れるという考え方を共通して保持しているという発見に到った。文身はもちろんだが、耳朶に穴を開けた者のみが死者の国に行けるとか、鼻に穴を開けた者のみがとか、いろいろな身体毀損の風習が各地で推奨されているのがわかった。
 ドイツの民族学者レオ・フロベニウスは、こうした身体毀損は部族の標識となるものであり、同じ部族しか受け入れられない死者の国へは、この標識を持たない者は入れないと考えた。したがって、生前に標識をつけるべく、しかるべき身体毀損を行っておく必要があるというのである。
 大林太良は、しかし、フロベニウスを批判している。同じ部族に属するというだけでは足りないので、部族の中でも、一定の人生段階から次の段階へと通過儀礼を済ませた者のみが死者の国への入国許可を得られるのではないのか、というのだ。
 大林のこの考えは、文身がふつう、男女の成熟祝いとして行われるという事実にもとづいている。子供の段階を終えた者にのみ文身などの身体毀損は施されるのであり、これは通過儀礼を経たことを証明する標識でもある。こうした標識を持った者だけが死者の国に入るのを許可されるというのは、つまりは、生前に一定段階以上の社会的地位を得、しかるべき役割を果たした者のみが許可されるということであり、此岸の社会でのありようがそのまま死後のありようを決定していく、ということにもなっていく。
 この方向で試論していけば、文身は、社会的分化と身分分化をすでに備えた社会でなければ維持されない、ということにもなろうか。

これがさらに進んで、確固とした身分制度ができあがった社会では、文身はどうなっていくのか。
むしろ影をひそめていくかに思われるのだが、そうした社会の構成員たちは、文身とは違ったべつの標識を身に帯びるようになっていくと考えるべきように感じる。
 だとすれば、現代日本で、いれずみが「文身」でなく「刺青」でしかなくなっているという現状は、文身を充たしていた機能自体が、べつのものによって置き換えられ終えていることを如実に示していると見てよいかもしれない。置き換えられた先は服飾全般であるかもしれず、宝飾品であるかもしれない。車、住居、会員制クラブや、家系、婚姻関係、クレジットカードのグレードなどであるかもしれないが、もっとも顕著なのは、数字の桁数で示される預金残高かもしれない。
もちろん、当局によって把握されうるような預金残高などでなく、どこからも不可視の財こそが至上の究極の文身となるであろうことは想像に難くない。とすれば、この列島族のうちの最高位の人間は、なんら標識めいたものを身につけずに、無個性に、飄々と街を歩きまわっていくはずであろう。



*大林太良『葬制の起源』(角川書店1977、および、中公文庫1997)による。



手のひらで肌を擦るだけ



  

 美容室に行ったついでに髪の毛の状態を訊ねたら、べつに変わりはない、ということだった。
 夏以来、シャンプーやリンスを使わないで湯だけで洗髪することが増えたが、いまも同じようにしている。もう半年になるが、自分としては感じがいい。髪の専門家にはどう映っているものか、それを知りたかった。
 
 このことは以前にも書いたが、シャワーを浴びながら指の腹で髪をよく揉み、爪を立てずに地肌もよく揉み洗いする。それだけのことで、二度洗いもしないし、リンスをつけて濯ぐ手間もかけない。洗髪にかかる時間も労力も半分どころか三分の一ほどになった。とにかく楽なので、気分も軽くなる。
かといって、こういう洗い方をポリシーのようにしているわけでもないから、整髪料を多めにつけたような場合にはシャンプーを使えばいい。あらゆる点で、不要な主義主張を持たず、方式を定めず、その場その場の便利さと安楽に流れて臨機応変に事を処理する性質ではあるが、洗髪でもその点はかわらない。

 ひと月ほど前からは、体を洗うのにも、顔を洗うのにも、石鹸やボディーソープ、洗顔ソープなどを使うのを一切やめてしまった。シャワーを浴びながら、手のひらで肌を擦るだけで済ませる。
 これもまた、とてもいい。
 一目瞭然によさがわかるのは、肌の乾燥がはっきりと減ったことだ。
 例年、冬になると、体の部位によっては乾燥がひどくなり、白く粉をふいたようになって痒くなる。寝ている時などに知らず知らず掻きむしっていることもあって、傷だらけになっていることもある。これは、毎年恒例行事のように訪れてくる冬の不快事だった。ボディーローションなどをつけての対処を余儀なくされる。
 湯だけで体を洗うようになってから、こうした乾燥トラブルがすぐに消えた。それも、みごとなほどに完全に消えてしまった。体を洗う洗剤のたぐいがどれほどひどいものだったのかが、はっきりとわかった気がする。
 垢すりやスポンジやタオルなどを使わずに、自分の手のひらだけで体を触り続けるというのも、とてもいい。手のひらが、毎日、体じゅうを再発見し直すような感覚があって、新鮮だ。なにかを介さずにじかに自分の体に手のひらで触れることで、はじめて、確認されてくるものがある。それが日々の身体感覚を更新する。翌日の生活につながっていく重要な身体情報が、手のひらから脳に入っていく気がする。
毎日シャワーや入浴をしていれば、そもそも全身のどの部位であれ、肌がそんなに汚れるはずもない。一日で肌の表面につく汚れは、外部からの埃などを別にすれば、生体から染み出た汗と皮脂だけのはずであり、その量など限られているのだから、ナイロンの垢すりなどで肌を念入りにこすり洗いしなければならないほどのものではない。体から出たばかりのものは、もともと生体内をめぐっていたものなので、汚ないといってもたいしたことはない。
なんと愚かな「よく洗う」思想に、ずいぶん幼い頃から蹂躪され続けてきたものか、と今になって思う。おかげで、どれほど要らぬ肌トラブルにいたぶられ続けてきたことか。

今秋、石鹸やボディーソープを使わないことにしてみたきっかけには、タモリや福山雅治の話を聞いたことがあった。彼らはずっと、それらを使わずに通してきたという。前から時どき耳に入ってはいたが、入浴時に湯だけで体を洗うことにしている芸能人たちは少なくないらしい。肌のトラブルなどが一般人よりも目立つ仕事なので、少しでもよいやり方へと傾く度合いも強いのかもしれない。
体にしろ、頭髪にしろ、こうした洗い方には一部の医師や専門家のお墨付きが付いてもいる。善玉菌である肌の常在菌を落とし過ぎないようにして、その菌たちに肌の洗浄と維持を任せるという考え方だ。神経質に洗い過ぎてしまえば、常在菌を根絶やしにしてしまい、その後に悪い細菌が巣食うきっかけを作り出してしまう。荒れ野のような肌表面を作り出してしまう。いちど常在菌を落とし過ぎてしまうと、新陳代謝のさかんな若者の肌でさえ、元に戻るのに9時間ほどはかかるという。

江戸の遊郭では、花魁たちは絹で肌を洗ったと読んだことがある。あれも三助と呼べるのか、それとも他の呼び名があるのか、洗い係が、やわらかい絹布を指に巻いて濡らし、花魁の肌を軽くひと撫でだけしていく。それ以上のことはせず、けっして擦ったりしない。
科学だの美容だの、大仰なことをいわずとも、やはり、ものの道理をよくわきまえて、昔の人間はしかるべく生きてきていた、ということだろうか。




古代ギリシャ劇における悪趣味形態

  

 芸術においては、どの分野においてであれ、古典との継続性を匂わせる伝統的な趣きや上品さは、つねに特権的に扱われがちである。もちろん、既得権益者らのおずおずとした模倣的な借り物の美意識の器として、それらがこの上なく便利に使えるためであり、これは言うまでもなく人類史上の常識でもあるし、美意識上の根源的なブランド志向が人類には宿命化されているということでもある。寄らばブランドの蔭というのは、100パーセント、凡庸で愚鈍な連中がすることで、これには古今東西例外がない。ちょっと気のきいたフランスの上流階級の中年女には、わざとヴィトンの大トートを持ってジャガイモだの玉葱だのアーティチョークだのを買いに出る者もいる。もちろんヴィトンのバッグにじかに汚れものの野菜を入れてくるためで、ヴィトンなどにはそんな使い方こそ似合うと見せつけるためだ。ブランドものはつねに執拗に馬鹿にし、皮肉な態度で扱い、下に下にと落としこまねばならない。そうしないと図に乗って来るのである。どんなにみごとな技芸が織り込まれていようとも、たかだか工芸品や商品に生身の変転きわまりない人間の価値観が支配されてはいけない。その点、古寺よりも売春婦のほうこそが真の文化として尊重されるべきであると喝破した坂口安吾の価値観に、どこまでも沿っていくべきであろう。

 馬鹿な上品ぶった伝統主義者らと美について話す場合には、古代ギリシャ劇はなかなか格好のネタになる。能も歌舞伎もいいですし、もちろん、ラシーヌも素晴らしいですが、私の場合、古代ギリシャ劇が好きでしてね、と持ちかければ、日本のお上品馬鹿は、「古代」や「ギリシャ劇」という単語にポワ~ッとなって、たいして知りもしないあれこれの悲劇の名前を必死で挙げ、どれも深遠な人間の宿命を捉えていますなぁ、などと言いはじめる。
 ええ、個々の作品もさることながら、と私は話題を変え、それよりも私に興味深いのは、ギリシャ劇のあの上演形態なんですよ、と進める。ほら、古代ギリシャでは、悲劇を三本上演し、その後にサチュロス劇や喜劇を上演したでしょう。あれが素晴らしい、人間性をみごとに看破した形態だと思うんです…
 ははぁ、そうらしいですね、お能の上演と共通していますよね、とお上品馬鹿は返してくる。悲劇である能にくわえて、かならず狂言を上演するというやつですね、と。サチュロス劇などという古代演劇タームが、彼のお教養の急所にズバッと刺さって、教養話にしっかり馳せ参じなければ、と、まぁ、いい調子になってくる。
 もちろん、古代ギリシャ劇におけるサチュロス劇や喜劇は、お上品ぶるな方々にはなかなかの難物である。サチュロス劇は、ディオニソスの従者サチュロスふうの格好をした合唱隊が登場して、猥褻な話題やおちゃらかしを連発していく悲喜劇であり、喜劇のほうは、おならのジョークから始まり、糞便を投げあったり、勃起を見せあったり、巨乳の揉みしだきをしたりという、下ネタと徹底した悪趣味のオンパレードの場となる。これらが謹厳かつ悲壮きわまりない悲劇と同じ舞台に載るところに、私の言う「人間性をみごとに看破した形態」たるギリシャ劇の精神があったのである。
 こうした悪趣味大全の場は、はやくから「文化」を気取る連中によって苦々しく映っていたようで、文化の側に我こそありといった連中による抑圧は古代から行われた。演劇に関するアリストテレスの著作でも触れられておらず、ちゃんとした演劇としては早々に絶滅させられたらしい。
もちろん、絶滅されたかに見えた側は、「文化」の光の射し入らない場末で古代劇の伝統を守ろうとしっかり切磋琢磨しているものの、敵もさるもの、他方の「文化」の側は、なにかと形骸化した形式主義に走ろうとの熱い情熱を燃やし続けながら、既得権益大企業が出資する大劇場や、ことあるごとに巧妙に社会的落差や差別を発生させようと躍起の国家による国立劇場、あるいは文化的虚飾と粉飾の最大の推進場である大学などで、原発の御用学者たちさながらに大きな顔をし続けている。

そういえば、お上品馬鹿にむけては、古代ギリシャ劇だけでなく、シェイクスピアを差し向けるのもよいだろう。たとえば、『ロミオとジュリエット』の次のような場面。

サムソン (…)とにかく俺は暴れて見せる。ところで野郎どもの喧嘩がすみゃ、ついでに女もただではおかぬ、急所を一番、刺し貫いてくれるぞ。
グレゴリ 女の急所だと?
サムソン そうよ、女の急所、生娘のあそこ、――どうなと勝手におとりなさい、だ。
グレゴリ なるほど、ピリッと痛いなァ向う様だな。
サムソン 俺の抜身がおっ立つわけだ、ピリッと来るなァあたりめえだ。なにしろ俺のは相当の逸物だかあな。
グレゴリ まあ、魚でのうて幸せよ。魚じゃ、どうせまず塩ダラってところだろうからな。(…)

威勢のいい中野好夫訳だが、これでもシェイクスピア原文よりはまだ穏やかで、たとえば「急所」の原文はmaidenheadなので、もろに処女膜、処女性の意味だし、「相当の逸物」はa pretty piece of fleshで、大男の意味と相当に大きなpenisの意味がかけてある。
お上品馬鹿が、シェイクスピアも素晴らしいですな、と返してくれば(返してこないわけがない)、ここぞとばかり、シェイクスピア下ネタ大全を浴びせかけるのも、なかなか古典的な戯れなのではある。





ドラマテイック・シチュエーション





          Nul orietur.
           Arthur Rimbaud : L’éternité



 『トゥーランドット』の原作などを書いた18世紀のイタリアの劇作家カルロス・ゴッチは、物語の基本プロットは26通りあると言っており、ゲーテなどはそれほどはないという意見だったらしい。他方、ドラマティックなシチュエーションということになれば、20世紀初頭のフランスの作家ジョルジュ・ポルティは36通りあると言っている。彼の『36のドラマテイック・シチュエーション』*によれば、それらは次の通りである。
  
   哀願
   救助
3  復讐
4  近親者の復讐
5  逃走
6  苦難
7  残酷な、または不幸な渦に巻き込まれる
8   反抗
9  戦い
10 誘惑
11 不審な人物、あるいは問題
12 目標への努力
13 近親の憎悪
14 近親間の争い
15 姦通から生じた惨劇
16 精神錯乱
17 運命的な手ぬかり
18 知らずに犯す愛欲の罪
19 知らずに犯す近親の殺傷
20 理想のための自己犠牲
21 近親者のための自己犠牲
22 情熱のための犠牲
23 愛するものを犠牲にしてしまう
24 三角関係
25 姦通
26 不倫な恋愛関係
27 愛する者の不名誉の発見
28 愛人との間に横たわる障害
29 敵を愛する場合
30 大望
31 神に背く争い
32 誤った嫉妬
33 誤った判断
34 悔恨
35 失われたものの探索と発見
36 愛するものの喪失

 いかにもシステマティックな分類の好きなフランスふうの数え上げだが、こんなふうにはっきりと分類され命名されてしまってみると、物語やドラマの好きな人は心中穏やかならざるものを感じるかもしれない。まるで、長くもない修辞の付いた数のかぎられた名詞で人間の運命の全要素を数え上げてあるタロット占いの教習本のようで、物語やドラマが盛り込みうる劇的状況にはこれら以上の可能性は一切ないのだと枠づけされてしまっている印象がある。

 しかし、この36の分類には、じつはさらに絶望的な意味あいが加わり得る。ドラマ性のある創作物のすべてがこれらの要素のみで作られるということは、読み手や観客、鑑賞者、享受者、消費者である人間たちにとって、結局、これらの要素だけしか「劇的」なるものとして感得され得ないのだということを示しており、「劇的」なるものへの感受性における人間の限界がこれらの36の要素によってくっきりと浮き彫りにされていることになるからだ。
 いや、自分はこれら以外にもドラマティック・シチュエーションを挙げることができる、感得することができる、と主張し実践したとしても、他のほとんどの人間たちがそれに共鳴してくれないならば、制作者-享受者の相互的な関係は形成されず、維持もされず、遅かれ早かれ、忘却されていくばかりとなる。

 絶望の度合いは、これに留まらない。さらに言えば、あらゆる点でドラマティックなものを追求するべく運命づけられている人間精神の内実は、ようするに、これら36の要素が描く円陣の外に踏み出ることができないのであり、そういう精神が織り成すところの人間社会、通時的であれ時系列的であれ、人間の活動のすべてが、つまりはこれらの組み合わせに過ぎない、ということにもなるからである。長短、波乱平穏とりまぜて、いかような人生を生きたとしても、それを満たす経験のうち、忘れがたい特筆すべきようなものとしては、これら36の要素の範囲を超えることはないのである。
 
 いや、ドラマティックでない、静かな、なんら特別なところのないような生はありうるし、そうした生の深みというものがありうる、と言われるだろうか。
 たしかにありうる。しかし、そうした生は、劇的なるものへの根深い志向性に汚された人間社会によっては、いつになっても真っ当に評価されないであろうし、正しく記録されたり尊いものとして記憶されることもないだろう。人間社会は、そうした生に「平凡な」とか、「なんら特別なことのない」とか、「格別の面白味もない」といった形容辞を振り分け、ドラマティック・シチュエーションに恵まれたり翻弄されたりした生をあくまで特権化し続け、語られるべきものとして称揚し続ける。そうして、いかにも知恵深い賢明なしぐさででもあるかのように、たくみに平凡で平穏な生を脇役へと退けながら、「幸福な家族はみな似通っているが、不幸な家族にはそれぞれの不幸というものがある」**などと小説を開始したりし続けていくことだろう。
 
こういうものでしかない人間精神に、また、その具現化でしかありえない人間社会に、どこまでつき合い、どこで離れるか。やはり、究極の問題はこんなかたちで現われて来ざるをえないはずであるが、もちろん、人間性の底の底までを侵食し尽くしているドラマティック・シチュエーションの呪縛は、われわれがこんな思いを抱くやいなや、すぐさま「逃走」や「反抗」や「大望」にわれわれを分類し整理し去ろうとするだろうし、場合によっては「精神錯乱」をも適用してこようとするだろう。こんな「残酷な、または不幸な渦に巻き込まれる」状況を、かりに幸いにもうまくすり抜け、包囲網の外に逃げおおせたかに見えようとも、待っているのは「失われたものの探索と発見」であったり「救助」であったりするのだろうし、そこまでの全過程は「目標への努力」としてまとめられてしまうことだろう。
ドラマティック・シチュエーションの呪縛とはこれほどまでのものであり、われわれの思考のすべて、判断のすべてに到るまでが侵食されつくしているのである。



*Georges Polti : Les Trente-six situations dramatiques (1912)
**トルストイ『アンナ・カレーニナ』