―松倉米吉の短歌について
若き職工として生き、貧困のうちに二十五歳で死んだ松倉米吉の歌は、巧みとはいえないものの、私の目には、時代を経るにつれ、ますます貴重な作品となっていくように映る。
吾の身の吾がものならぬはかな日の一年とはなりぬ日暮れ待ちし日の
どんな労働に作者が従事していたかを知らずとも、現代でも多くの勤め人や労働者が共感しうるのではないか。「吾の身の吾がものならぬ」一日を「はかな」いと感じるのは、世の流れや支配層に追い立てられて労働する者たちの永遠の感慨であり、「日暮れ」にはやくならないかと思いながら過ごすうちに「一年」などすぐに経ってしまう。一日が過ぎて身体を休める夜が訪れるにしたところで、手にしうるのはかつかつの金であり、明日や将来をより豊かに安定したものになしうる資金が積み重なっていくわけではない。
半月に得たる金のこのとぼしさや語るすべなき母と吾かな
投げ出しし金をつくづくと母見居り一間なる家に夕日は赤く
極まりて借りたれば金のたふとけれあまりに寂しき涙なるかも
米吉がこのようにして母ひとり息子ひとりで切迫して生きのびていた頃、短歌の主流派たちは、身のまわりの小さな動植物や季節の変化を敏感に拡大鏡で写し出すがごとくにして作歌に勤しんでいた。彼らのほうをこそ称揚するというのが、近代短歌史に関わる場合には隠然たる作法のようなものとしてあり、作法通りに近代の短歌における繊細な美や格調の展開を云々しておけば、先ずは穏当な文化人的身だしなみをわきまえた評者として遇されうるというところがある。
米吉のように、「半月に得たる金」や、畳の上や卓袱台の上に「投げ出しし金」を露骨に歌の言葉の中に紛れ込ませてくるのは、いかに歌語の見直しや刷新がなされた近代とはいえ、詩的格調を損ないやすい作歌姿勢として、容易には認めづらい雰囲気が主流派にはあっただろう。もちろん、「金」や貧困を歌うことが悪いはずはない、それはむしろ短歌の間口を広げ、人間生活の真実を語るものとして進んで試みられるべきだと当時の歌人なら誰もが言ったに違いないが、しかし、彼らがけっして言わなかったこととして、次のようなことがあった。すなわち、短歌的な美、いわく言いがたい韻律的なる美、生活苦や貧困を語りながらもけっして損なわれることのない詩的余裕や浸透してくるような深い魅力、それなしにはいかなる貧困も「金」も歌われてはならぬ、歌う姿勢は尊ぶべきであろうが、そう簡単にいい歌ができるなどと思いあがってはならぬ、若き労働者諸君も先ずは万葉集の勉強から地道にやり直したらよかろう、幅広い古典の勉強も必要であるし、古典文法への習熟ももちろんおろそかには出来まいよ…、と。
米吉の場合、当然ながら、こんな助言を吐けるような同時期の他の著名な歌人たちとは違い、万葉集以来の短歌を読み込むだけの時間も持てなければ、毎日の労働の後では推敲の時間もままならなかっただろう。思いついた歌草をメモする暇さえ取れない時が多かったかもしれない。古典を十二分に吸収した上で悠揚せまらぬ格調を醸し出す作歌が米吉にできなかったとしても、いわば物理的不可能事とでもいうべきことであり、致しかたのないことであった。
詩歌を読むのに、作者の実生活をどこまで同時に考えながら読むかは難しい問題で、読者はつねづね、読解上の姿勢の選択を迫られる。なるほど、実生活を読み込みながらでしか魅力的に見えないようでは歌の価値は低いと言わねばならないのも事実かもしれないが、そのような場合に重視される詩的純粋価値や絶対詩の魅力が過大に評価されるようになったのも、考えてみれば19世紀末のヨーロッパでのことであるとすれば、そうした批評姿勢そもそもが歴史的限定を内包したものとして批評されてから使用されねばならないのも事実である。純粋詩を19世紀末のヨーロッパで推進したのは、政治的民主主義の挫折に絶望し、同時に、政治的には友と見做したい労働者階級の現実の品格の低さと教養のなさに絶望した特異な位置にあった知的貴族主義者の詩人たちであった以上、文芸における純粋や絶対なるものは、つねに、泥沼のようなおぞましさと後ろ暗い怨念とルサンチマンとで練りあげられていると覚悟してかからなければならない。
松倉米吉の作歌の価値はどこにあるか。人生的にも文芸教養的にも作歌技術的にも未熟な若いひとりの歌人が、出生した家族環境のなりゆきから否応なしに困窮した生活へと追いやられ、しかも短歌への興味や感受性を本人にもわからぬ強烈さをもって持ち続け、貴賓の賞美するような繊細優婉な短歌的な美しさなど盛り込む暇もなしに、なおもわざわざ短歌形式を用いつつ、どのような表現をアウトプットし続けられうるのかということを、生身で実地で行って見せざるをえなかった点にあるといえる。日本的美のひとつの要所である短歌の形式を用いつつ、第一次大戦頃の世界情勢や経済情勢に右往左往される庶民生活の現場という歴史的現実を身をもって取材し、ろくな教養も養いえなかったたったひとりの頭脳と心を駆使しつつ、その瞬間に用いうるだけのぎりぎりの言語表現によって機敏に写し撮り続けてみた結果というのが、松倉米吉の短歌作品なのである。
新潟の糸魚川町に生れた米吉の父は屈指の水車業者であったという十三歳で母を慕って上京し、
日本が第一次大戦に参戦した大正三年、米吉は二十歳になるが、社会の経済情勢の変動はきわめて大きく、微々たる身銭を稼いで暮らす町工場の若き職工にとっては、絶えざる不安にさらされ続ける時代となった。
二十二歳で肺結核を発病し、メッキ工場をやめる。気持ちに沿った仕事で儲けたいという思いがあったのだろう、喜劇脚本を書いて劇場に持っていった時期もあったというが、けっきょく、金属挽物職人となった。
日もすがら金槌をうつそこ痛む頭を巻きて金槌を打つ
工場に仕事とぼしも吾が打つ小槌の音は響きわたりぬ
隔月に槌うちに来つつ工場の真中に坐して仕事はとぼし
しんかんととぼしき仕事抱えつつ窓に飛びかふ淡雪を見る
わが握る槌の柄減りて光りけり職工をやめんといくたび思ひし
ニツケルのにぶき光に長き夜を瞼おもりて手骨いたみきぬ
工場の夕食ののちのさびしさに弁当箱の錆おとしつつ
傾きてなほ照る日あし空しさに街をさまよふ身につらきかも
築山のしげみの裏に身をひそめぼろぼろのパン食べにけるかも
この職にたけて帰る日いつならむ夕べさびしく汗の冷えつる
夜仕事のしまひ早めて銭湯に行く道すずし夏の夜の月
夜仕事を終へて出で来し新開の月夜の街に鳴く蛙かも
親方のまはすろくろの錐の音雨空近き露地に鳴れるかも
親方の仕事のはたにうづくまり蚊遣いぶして吾が居りにける
又しても道具をいためこの度はひとりもだして見て居れるなり
裁縫で生計を助けていた母が亡くなったことは、米吉には痛かっただろう。兄がどこかにいるかもしれないとはいえ、生別しており、十三歳で高等小学校を退学してまで母を慕って上京し、そのもとに身を寄せた米吉であった。その母の亡くなる頃をこう歌っている。
今は言かよはぬか母よこの月の給料は得て来て吾は持てるを
独子のひとりの母よ菰に寝て今はかそかなる息もあらぬか
痛しとも言はぬ母故今はさびし骨あらはなるむくろ拭ひつつ
独子の吾はさびしも身を近く柩にそひて歩きて行かむ
未熟な歌とは、もう言えまい。第一次大戦さなかの国威発揚いちじるしい帝都においての、貧しい者の臨終とそれを見取る若き病者のさまが見事に写しとられている。「この月の給料は得て来て吾は持てるを」とは絶唱であろう。生きていても死に臨んでも金、金、金なのである。貧者の生活とはこういうことだ。余裕のある月収を得ていた漱石のような文学者にはけっして書き得ぬ、日本文学史上に刻印された貴重な三句四句結句である。
母亡きのち、養父とはたちまち不和となり、本所長岡町の理髪店の二階に間借りすることになったが、こうして天涯孤独、結核病み、極貧の職工という状態に陥ったところで、米吉は、生涯で最も豊かな創作時期を迎えることになる。もちろんテーマは、自らの貧困と、自らを来るべき衰弱と死へと誘うばかりの進行する病だけである。彼が使える素材など、他にはなにもない。歌人が自分の最盛期において、自分自身の刻印のあるもっとも独自の作品を作り上げていく時に、自分自身に与えられたわずかな貴重な宝、みずからの貧困と死病とを使い尽くしていく様にわれわれは居あわせることになる。
宿の主人に訳をあかしてうつり着の質の入替たのむなりけり
しげしげと医師にこの顔見すゑられつつわが貧しさを明かしけるかも
価安く薬もらひて外に出たり裸にならぶ街の木立は
薬さげて冬さり街をまだ馴れぬ親方先にまたもどりゆく
施療院に行く心とはなりし親方の下駄の埃を吾はうちはらふ
久々を宿にもどれば落かべや埃にあれて足ふみかぬる
久々に吾の寝床をのべにけりところどころにかびの生えたる
彼が治療に通った「施療院」というのは、築地東京施療院のことで、今の聖路加国際病院の前身にあたる。スコットランド一致長老教会のロバート・ディヴィッドソンが宣教目的で開いた病院で、医療費は無料であったという。もっとも、1902年にはアメリカ聖公会のルドルフ・トイスラーが買い取っていたはずなので、米吉が治療を受けた頃の医療費の詳細などは変化しつつあったかもしれない。
灯をともすマツチたづねていやせかる口に血しほは満ちてせかるる
血を喀きてのちのさびしさ外の面(とのも)にはしとしととして雨の音すも
宿の者は醒めはせずかと秘むれども喉にせき来る血しほのつらなり
菓子入にと求めて置きし瀬戸の壺になかばばかりまで吾が血たまれる
かうかうと真夜を吹きぬく嵐の中血を喀くきざしに心は苦しむ
理髪店の二階に間借りしていた米吉は、病が重くなっていくにつれ、毎夜の喀血に苦しめられた。階下の住人に気づかれないよう、壺に吐いた血を、夜中に家を抜け出して溝に捨てに行っていたという。
じつとりと盗汗(ねあせ)にぬれてさめにけり曇ひと日ははや暮れかかる
この日ごろ窓ひらかねば光欲しほそくながるる夕日のよわさ
救世軍の集りの唱歌も今宵寂しひそひそと振る秋雨の音
膝も腹もひつしとかため寝間着の裾にまくるまりつつ悪寒を忍ぶ
ついに下宿での闘病もままならなくなった時、
浪吉は吾の体を警察にすがらむと行きぬなぜに自ら命を断ちえぬ
築地東京施療院入院後、
若い晩年のいつ頃に作られたものか、米吉にはこんな歌もある。
一つ打ちては休みゐつつかれがれの唾(つばき)手にひり槌打つ父はも
五歳で死に別れた父の、水車を作る時の仕事のようすを思い出しての歌であろう。「かれがれの唾」を手に吐きつつ、槌を打ち続けて仕事をしていた父の姿は、過酷な米吉の生を大きく支えていたに違いない。
金属メッキや金属挽物など、水車でこそなかったものの、やはり槌を手に取って、物に向かう仕事をし続けた米吉には、存外、父の仕事を継続し続けてきたという思いもあったかもしれない。職人には職人の生と矜持があり、それに携わらない者たちには窺い知れない価値観も感受性もあるとすれば、松倉米吉を、悲劇のプロレタリア歌人などと呼んでわかったつもりになってしまうのも問題であろう。
「槌打つ父」を思い出しつつ米吉が確かめようとしていたことは、悲惨とは、おそらく、「
日もすがら金槌をうつそこ痛む頭を巻きて金槌を打つ
工場に仕事とぼしも吾が打つ小槌の音は響きわたりぬ
隔月に槌うちに来つつ工場の真中に坐して仕事はとぼし
しんかんととぼしき仕事抱えつつ窓に飛びかふ淡雪を見る
わが握る槌の柄減りて光りけり職工をやめんといくたび思ひし
「職工をやめんといくたび思ひし」というのは本当だろうが、
では、「柄減る」ほどに「槌」を「握る」のは誰なのか。
妙な言い方だが、「槌」を「握る」者が握っているのである。
微妙で重要な問題である。われと言い、自分と言っている、そんなお前とは誰か。お前は「父」とは違うのか。そう問われているからである。
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