2012年12月26日水曜日

「生む」と「産む」





 言葉の使い方、漢字の書きわけ方などは世につれて変わる。そんなことはわかりきっているものの、テレビなどで横暴な使い方を見ると、ちょっと酷いのではないか、と感じる。
 いろいろあるが、簡単な言葉だけに「生む」がやたらと目に付く。子どもをうむ、という場合の「生む」だが、これを、しばらく前から、たいていのテレビが「産む」と書きはじめた。

 1980年代から90年代、20年ほど受験産業に関わり、青少年の教育が生活そのものだった経験がある。そこから離れて10年以上が経ったが、その間に漢字使用の慣例が激変でもしたのだろうか。
 中学受験や高校受験の生徒たちを前に、いったい何度、人間が子どもを「うむ」時は、「生む」と書くんだぞ、「産む」と書いたら動物が子どもや卵を「うむ」意味になっちゃうんだぞ、と大声で教えてきたことか。
「生む」と「産む」のこうした使い分けは、もちろん私が勝手に決めたわけでなどなく、教科書にもあれば、学校の先生たちも教え、参考書に問題集の答えにもはっきりとそう記されていた。学力テストで「叔母さんが男の子を産んだ」などと書こうものなら、もちろん×。減点される。国語教育における全国的な示しあわせに立っての、「生む」と「産む」の使い分け教育だった。
 私個人では、そうした使い分けに執着しているわけでもなければ、それこそが正しい使い方だと思っているわけでもない。そもそも「出産」という表記があるのに、どうして人間が子どもを生む時に「生む」しか許されないのか、正直なところ納得がいかなかった。だが、受け持っている生徒たちを入試で合格させなければならない側としては、とりあえず、人には「生む」、動物には「産む」という使い分けを徹底させるほかなかったのだ。

 私が教えた子たちのうち、いちばんの年長者たちはもう45歳を越えている。彼らが、昔のつらかった受験時代の教えに大勢で反旗を翻したとでもいうのだろうか。彼らとて、自分たちが叩きこまれた使い分けで通したほうが楽に違いないのに、どうしてこんな使い分けの激変が、主にマスコミによって行われているのだろうか。それとも、彼らも、自分たちが習ってきたのと違う表記が大挙してまかり通ってきている現状に、困惑させられている側だろうか。

 ちなみに、使用しているウィンドウズのワードで「うむ」を入力してみると、「生む」は「[一般的] 誕生 作り出す」とあり、「産む」は「[限定的] 出産 産卵」とある。ひょっとして、表記が大がかりに変化させられている根源はこれか?とも思うが、ワードに、こんな自信満々の表記法を採らせている根拠はなんだろう。国語関係の審議会などが、またまた、奇妙な改変をやらかしたためだろうか。
 遠い話ながら、戦後の日本語表記改悪は大問題となり、福田恒存をはじめ、多くの作家たちがたくさんの文章を書いて文部省や短見の日本語学者たちと闘ってきた。若い頃の私の大贔屓だった石川淳なども、古典と縦横無尽に行き来できるような独特の日本語表記を編み出して、小説や評論に活躍していた。あの頃のような問題がまた、いつのまにか大がかりに広がっているのかとも思うが、当時と違うのは、大きな声を出して論陣を張るような文学者たちが払底してしまっているということである。




2012年12月24日月曜日

不求甚解(甚だしくは解することを求めず)

―陶淵明がいてくれる、ということ 





 陶淵明がいるから、なおも生きていける。
 あまりに当たり前のことなので、詩文好きの誰もが言わないでいるだけだが、たまには思い出しておいてもよいだろう。四世紀から五世紀にかけて中国に生きた彼は、二十一世紀の詩文好きたちをも励まし続け、救済し続けている。

少無適俗韻  
性本愛邱山  
誤落塵網中   
一去三十年   
羈鳥恋旧林   
池魚思故淵   
開荒南野際   
守拙帰園田   
 …

少くして俗に適する韻無く
性 本 邱山を愛す
誤って塵網の中に落ち
一去 三十年
羈鳥 旧林を恋い
池魚 故淵を思う
荒を開く 南野の際
拙を守って園田に帰る
 …

『帰園田居(園田の居に帰りて)』其一のこの冒頭を、ふと思い出して呟かないような者はいまい。陶淵明の個人的な感慨であったとしても、書かれるやいなや万人の感慨となった全人類的な詩句であり、人間の条件と自己救済の可能性と実践までを一挙に収めてしまう強く大きな詩業である。

子どもの頃から世の中には合わなかった。
生まれつき丘や山を愛する性質だったのに
まちがって世の中の塵網に陥り
あっという間の三十年。
それでも、旅する鳥はむかしの林を恋い
池の魚はかつて居た淵を思うもの。
よし、南野のあたりに荒地でも拓いて、
不器用なりにも生きのびよう、と
この田園に帰ってきたわけ。
 …

こんな訳を試みてみたくもなるが、そんな必要もないほどに日本では人口に膾炙している。外交や経済の面で日中間に問題がある時にも、古い中国の文化が日本文化の礎の大きな一部になっていることに変わりはなく、陶淵明の有名な幾つもの詩への愛情と信頼を心に持ち続けぬ者がいれば、日本人として信じるに足りない。

四、五世紀の作品だというのに、ここでは、個人と社会、時代というものの根源的な不調和が指摘されており、個人が生きのびるためには、社会や時代に対して個人がどのような姿勢をとるべきかが検討されている。その際の慨嘆や検討や決意、行動が結びあわされて詩となっていくところに陶淵明の詩法がある。一個人というものは、どのような時代にも、自分の置かれた文化や自然や時代によって翻弄され続けていく他ないので、その部分を詩の発生点として握り締めた陶淵明の基本的な方法論は、今後も世界各地の一個人たちと強く結びつき続けるだろう。詩文は、太平の時代において、ときに抽象化やナンセンスの道を進んだり、他の土地や文化や時代の人間たちからは理解されづらい個別的な流行感情や価値観、さらにはその場所だけの商品や狭い常識を歌い続けるサイクルに陥ることがあるが、そうした平穏な倦怠詩を可能にする太平というものは数十年以上続くことはなく、詩文に関わる者たちは必ず、時代や政治や環境や人心の変化に詩心を以て直面し直すことを強いられる。そういう時に模範として人が再発見し直すうちのひとりが陶淵明だということになる。

*

 こういう陶淵明には『五柳先生伝』という作品もあり、彼の虚構の自叙伝と目されてもいるが、そこに面白い部分がある。

間靖少言、   
不慕栄利。   
好読書、    
不求甚解、   
毎有会意、   
便欣然忘食。  

間靖にして言少なく、
栄利を慕わず。
書を読むことを好むも、
甚だしくは解することを求めず、
意に会すること有る毎に、
便ち欣然として食を忘る

 このように訳せばいいだろうか。
「静かで言葉少なく、名誉や利欲は望まない。読書を好むが、細かいところまで解釈しようとはせず、自分の思いにかなうところがあると、うれしくなって食べることも忘れる」。
面白いのは「不求甚解(甚だしくは解することを求めず)」という部分である。自叙伝に近いものである以上、ここには事実と理想とが混在していようから、陶淵明の読書態度が実際にこのようであったか、それとも、このようであればよい、こうあるべきだ、と思って記されたかはわからない。しかし、わざわざこう記すというのは、ここに読書態度の理想を見ていたからだと考えて、そう間違いではないだろう。
 これは、非常に詩人らしい読書態度と思える。
そもそも解釈というものは、深めたり多層化させたり、さらにはさまざまな視点から多様化させたりしようとすればキリがない行為である。文学テキストは本来そのような行為に読者を引き込むようにできており、そうした解釈行為への泥酔を推進させる装置として創造される。
いっぽう、詩人は、そうした文学装置をみずから創り出す性向を持った人間であり、彼にとって先行する時代のすべての文学テキストは、自分の創る文学装置のための素材やモデル以上のものではない。先行テキストへの没入や陶酔は厳禁されねばならず、もし先行テキストを濫りに称揚したり、そのテキストのもたらす解釈の森の深みへの迷い込みに至上の快楽を覚えるようになれば、それは如何に快楽そのものであっても、そのまま彼にとっては死を意味する。いかに多量の先行テキストに触れ続けていても、あたかもなにも読んでなどいないかのように振る舞うのが詩人には理想的であり、すべてが彼の心と思いから湧き出してきたかのように作品を作り出していくのが、いわば嗜みでもあれば、ダンディズムでもある。少なくとも、必要かくべからざるものとして詩人に要求される演技ではある。「不求甚解(甚だしくは解することを求めず)」と記した陶淵明は、このあたりのことをよく認識していたと思われ、二十世紀に文芸の世界を大がかりに汚した解釈優越主義の悪弊を、その根本姿勢において、よく避け得ていたと感じられる。
もちろん、これは、字句の穿鑿や解釈を否定し去るものではない。学者ならそれらに埋没して死んでもよい。しかし、詩文の快楽を求める者や詩人は、それらの行為だけに時間を労するわけにいかない。要は、言語記号の起動や言語装置のための言語配列にあたって、どの部分を強調重視するか、各自の立場と欲望にしたがって臨機応変に対応すべし、目的・価値観・欲望・行為をたえず厳しく編集し続けるべし、ということである。
陶淵明のこうした認識は、彼が、自分の時代までの中国での詩文テキストの扱われ方の歴史を知っていたことから来るのかもしれない。『飲酒二十首』を見ればよくわかる。自分に到るまでの中国の歴史が、たとえば儒学の文書にどんなさんざんな経験をさせてきたか、陶淵明はよく見ていた。其二十にこうある。

鳳鳥雖不至   
礼楽暫得新   
洙泗輟微響   
漂流逮狂秦   
詩書復何罪   
一朝成灰塵   
区区諸老翁   
為事誠慇懃   
如何絶世下   
六籍無一親   

鳳鳥 至らずと雖も
礼楽 暫く新しきを得たり
洙泗 微響を輟め
漂流して狂秦に逮ぶ
詩書 復た何の罪かある
一朝にして灰塵と成る
区区たる諸老翁
事を為すに誠に慇懃たり
如何ぞ 絶世の下
六籍 一の親しむ無し
 
鳳鳥が来るまでには至らなかったが
礼や楽はしばらく新鮮さを得たものだった。
ところが洙水や泗水の微かな響きが途絶え、
狂った秦の時代に漂流してしまった。
詩経や尚書になんの罪があっただろう、
焼かれて一朝にして灰塵に帰したのだ。
漢代に入ると老学者たちがこせこせと
まことに丁寧な仕事をするようになった。
どうしたものか、遠く下った現代では、
六経に親しむ者などひとりもいない始末。

秦代の焚書坑儒が終わったかと思えば、漢代には学者による微細すぎる儒学解釈学の時代を迎え、「章句の学」と呼ばれる枝葉末節への過度のこだわり方が、文芸の息の根を止める。そうかと思えば、今度は六経に誰も見向きもしなくなる時代が到来する。テキストに次々襲いかかるこうした時代の変遷の中で、たまたま今という一時期に生を受け、テキストの受け渡しと創造とを担うことになった詩人はどう振る舞えばいいのか。先行テキストを尊重し、それらをつねづね多量に自分の意識に晒しつつ、自然に発生する解釈や訓古の精神活動をある程度までは運動させつつ、しかし、それらに溺れ過ぎないように自制をかけ、人類の今と自分という独異存在の今との交差点に詩文を構成しようとする、――こんな詩人の《現場》というものを、陶淵明はつよく認識していた。

*

人類は、彼の時代より長足の進歩を遂げたかのように見えがちでもあるが、一個人と世の中の関わり方の現実や、一個人が被る心的印象においては、なんら根本的な変化があったわけでもなく、そこによい意味での進歩があったわけでもなく、彼を取り巻いていた人間の条件も、それについての陶淵明の認識も、依然として《現代》であり続けている。世の中や時代はあいかわらず一個人を翻弄し続け、その個人の自己を、独異性を希薄化させ消滅させようとし続けており、そんな中で少しでも一個人が心の生のほうへ強く戻ろうとする時には、『帰去来兮辞』のこんな詩句は、やはり強く響いてくる。

帰去来兮     
請息交以絶游   
世与我而相違   
復駕言兮焉求   
 …

帰りなん いざ
請う 交わりをやめて以て游を絶たん
世と我と相違う
また駕して言(ここ)に焉(なに)をか求めん
 …

さあ、帰ろう、
世間との交遊など断ち切ろう。
世の中と私とはたがいにそりが合わない。
もう一度仕官して、なにを求めようというのか。
 …

 現代の詩人たちが書くことを怠けている叫びがここにはあり、驚くべき現代性がある。陶淵明の時代とは比較にならないほどに、誰もが「仕官」を強いられる「世」が巨大に張りめぐらされた現代にあっては、今のどの詩人の詩よりも切実に求められるべき詩といえる。こういう詩が四世紀、五世紀の中国で陶淵明によって書かれてしまっていたというところに、全人類にとっての道具箱としての、世界の文化の諸々の面白さと不思議さ、尽きせぬ貴重さが表われ出ているのだ。
 彼の絶唱をもうひとつ思い出しておこう。

雑詩 其一

人生無根蔕 
飄如陌上塵 
分散遂風転  
此已非常身 
落地為兄弟  
何必骨肉親 
得歓当作楽 
斗酒聚此隣 
盛年不重来  
一日難再晨 
及時当勉励 
歳月不待人

人生 根蔕なく
飄たること陌上の塵のごとし
分散し風を遂うて転ず
此れすでに常身にあらず
地に落ちては兄弟となる
何ぞ必ずしも骨肉の親のみならんや
歓を得ては当に楽しみをなすべし
斗酒もて此隣を聚めん
盛年 重ねては来たらず
一日 ふたたびは晨なりがたし
時に及んでまさに勉励すべし
歳月 人を待たず

人間の生には、繋ぎとめておいてくれる根や蔕などなく
路上の塵のようにさまよい、漂っていく。
風に散っては、ただただ転がって行くばかり。
この世に来たら、体はもう、不変のものではないよ。
生まれ落ちれば、存在物はみな兄弟。
肉親だけが同類というわけではないのさ。
いいことがあった時には楽しまなければだめだぞ。
少しの酒しかなくても近隣を集めてな。
若い時代は二度とは来ないんだ、
一日に二度朝が来ることがないように。
だから、しかるべき時に楽しんでおけよ。
歳月は人を待ってくれないからな。

 遠く、フランソワ・ヴィヨンを思い出させる人生詩で、美だの芸術だの精神だのという世迷いごとの安酒などに悪酔いさせられていない、健康な言葉の並び具合である。
あるべき詩とはどういうものか、迷った時には、このように陶淵明がいる。
というより、そんな迷いを抱く暇があるなら、書くのはやめておけと、彼は言うかもしれない。心と頭があり、それがごく普通に動いていて、そうして、「不求甚解(甚だしくは解することを求めず)」という態度に支えられつつ、過去の先行する詩文のテキストとの日常的なつき合いが継続されているならば、その個人からはおのずと詩文が生まれ、書き落されて、それは広まったり忘れられたりしていくだろう。詩文はそういうものであって、むりに書かれるべきでもないし、むりに残そうとされるべきでもないし、強すぎる価値判断の作業に晒され続けるべきものでもない。
ちなみに、この詩の終わりの「及時当勉励(時に及んでまさに勉励すべし) 歳月不待人(歳月人を待たず)」は、しばしば、「しかるべき時に勉強しておけ。歳月は人を待ってくれないから」と読まれがちだったが、本意はそのような勉学の励ましにあるのではなく、ただ、「しかるべき時に楽しんでおけよ。歳月は人を待ってくれないからな」と解すべきだというのが中国文学研究の一般的な見解のようである。もちろん、勉学が楽しみであり逸楽であるような人たちにおいては、「しかるべき時に勉強しておけ」との解釈でいっこう差支えはないのでもある。
ついでにもうひとつ加えれば、「斗酒」というのは陶淵明の頃、二リットル弱の酒のことで、少量の酒、と受け取っておくべきらしい。この表現は他の詩にも出て来るもので、ひとりで「斗酒」を飲む場面も描かれている。二リットルというと、そう少ないわけでもないそれなりの量に思えるが、どぶろくのようであった当時の酒はアルコール度も低く、この程度では十分には酔わないという事情があったらしい。
多少の字句についてこんなふうに検討してみるのは、けっして「区区たる」訓古の学者ふうの悪弊ではなく、こちらの想像を広げる材料の拾い出しというべきだろう。「不求甚解(甚だしくは解することを求めず)、毎有会意(意に会すること有る毎に)、便欣然忘食(便ち欣然として食を忘る)」に当たることとして、陶淵明先生の意にしっかりと添う読み方と思われる。





2012年12月2日日曜日

ニッポン「滅び」産業のほうへ

  ―2012年衆議院選挙を控えての極私的メモ



とりどりの哲学が廻らなくなってひさしい
きつい露にぬれている南の小屋
魚の肌した木をみてくらす男 おれは
爪と髪でちいさな琴をつくろう
谷川雁『水車番の日記』

                                                                                                                                      



 原発へのスタンスの基本は「廃止」ということに決まっている。原発で用いた後の使用済み核燃料などを、安全ですみやかに処理できる方法が人知で得られない以上、他の選択肢はない。議論の余地もない論理的な結論である。ここまで存続してきた地球環境を未来にむけてなおも存続させ、現在存在する生物種を今のままになるべく近く存続させるための至上の選択であって、種の継続の過程で発生してきた中継ランナーに過ぎない現在の人間が、これに傲慢にも異を唱えるような権利はない。
こうした「廃止」によって、人類の産業上の停滞や退行が生じるというのなら、ここではあえて覚悟して、そうした「停滞」や「退行」を惹き起こさねばならない。賭けられているのは、エネルギーの種類の近視眼的な選択なのではなく、太陽の滅亡によって消滅するまでの間の地球環境の最低限の維持ということであるのをよくよく認識しておかなければならない。

 ただ、どのように「廃止」の方向に持っていくか、どの程度の時間尺で遂行していくかについては、人間の現在知でさまざまな案の出る余地があり、当然、意見が分かれる。この点では、原子力の専門知識や原子力工学や周辺設備に関わる工学知識が物を言うことになろうし、アジアにおける外交や軍事の実態と将来予想をシビアに踏まえた上での検討が要求されるだろう。交渉と友好と平和を第一義としてつねに諸問題に対処する善意ある専門家たちにこそ任せるべき分野と思われる。もちろん、原発事故後に百出した御用教授たちに任せるわけにはいかず、核武装を安易に主張するようなジリノフスキー型の劣等知性政治屋に任せるわけにもいかず、市長職を放り出して総選挙運動に興じたり最低賃金撤廃を平然と持ち出してくるようなヴァラエティー型芸人に任せるわけにもいかない。ここには一般市民の批評能力と批判実践がおおいに有効に機能する領野が拓ける。

 どのように原発を「廃止」していくかという問題において、「どのように」「どの時間尺で」という点での差異にあまり拘らないようにして、2012年末の衆議院選挙には望むべきだろう。「即時撤廃」を主張しようにも、原子力発電の構造の実情を考えれば、即時の停止はできても、即時の「撤廃」となると技術的にも経済的にもできない。稼働もしていない《もんじゅ》ひとつとっても、行くにも戻るにもどうにもならないでいる体たらくである。「即時」を主張する政治勢力は、「即時」を希求し、少しでもはやく廃止したいという気持ちを表現したいがために詩的に「即時」と謳いこんでいるわけで、そこのレトリックに謳いこまれた叫びを理解しておけばよく、そうした末節の表現について上げ足を取りあったりしてもしかたがない。

 個々の主張を見ていくと思考の混乱や見落としが各様に散りばめられていて、正直なところ、対立しあういずれの立場も理屈上は問題があるのではないか、と思わされる。

 原発推進派は多くの場合、国防推進の考えを伴っている。しかし、国防上、もっとも危険きわまりないのは、どうぞ、いつでも攻撃してください、とばかりに日本海側に並んだ原子力発電所であるのは論を待たない。『新世紀エヴァンゲリオン』でもないが、ATフィールドばりのよほど堅固なヴァリヤーをかけるのでもなければ、無思慮きわまりない原発推進は、そのまま、国防ならぬ国亡に直結し、亡国に到ってゲームオーバーとなる。どのように原子力発電所を防衛するのか、それを現段階で明瞭完璧に説明できなければ、原発推進+国防のセットは非現実の極みであり、そのような主張は無責任としか言いようがない。
もちろん、原子力発電所を稼働させれば確実に発生し続ける核のゴミをどう処理するのか、原発推進派はこれについてもあらかじめ答えを出しておかなければならない。先にも書いたように、核廃棄物の完全な処理法は、現在の人類の知と技術のレベルでは克服できない。将来の人類知がこれを発見するということはあり得るかもしれないが、それは夢想的な蓋然性の範疇に属することであって、共時的にも時間的にも全地球的影響を及ぼし得る多大の危険を伴うプロジェクトの可否が問われている場合には、もとより、期待できるカードとして見なすことは許されない。こういう思考の状況下にあっては、原子力発電所の使用を継続していくことは、地球環境の従来通りのバランス維持を生命根拠としている人類にとって、将来的な確実な滅亡を準備していくということになる。

 他方、性急な反原発、全原発の即時「撤廃」ばかりか、稼働可能性の「撤廃」をも主張する者たちの側の論理が完璧であるわけでもない。
現時点での代替エネルギーの中心である石油や天然ガスなどが、国際情勢によって大きく左右され続ける危険をどのように避けうるのかを、彼らは明らかにしていない。十年後や数十年後の話ではなく、明日にも原発全廃止を決めるというような場合に、安定したエネルギー資源輸入をどのように確保するのか、確保されうるのか、という問題である。中東の不安定さは誰の目にも明らかだが、いまや日本に向けてはっきりと敵対的態度をとるようになった中国が、日本近海で輸送船の航行を妨害したり破壊したりする危険も今後は大きい。それにどう対処するのか、原発撤廃を主張する人たちは有効で現実的な方法論をはっきりと提示しなければならない。太陽光発電や風力発電、地熱発電等など、どれも有効な電力を生みだすほどには敷設されておらず、大量のエネルギーを供給するにはどうしても石油や石炭、天然ガス、そして原子力発電などに頼らざるを得ない現状での実効ある方法論が問われているのである。

 反原発派、脱原発派、卒原発派らは、軍備放棄や平和憲法護持の立場を伴っている場合も多いが、正直なところ、やはり彼らに聞きたく思うのは、あのような出方をしてきた中国への対応をどのようにするのかということである。
外交で解決すべきだという答えは意味をなさない。日本外交がいかにダメかは火を見るより明らかであり、だからこその中国との衝突でもあったではないか。石原慎太郎が勝手な勇み足をしたからだ、と言っても意味をなさない。石原ひとりを抑えられない国が、中国とうまく交渉できるはずもないからだ。
十分な軍備を持たず、国防の観念と修練が国民に欠けていた場合になにが起こるか、皮肉なことながらも、帝国日本に蹂躙された中国や朝鮮の二十世紀史を見ればよいだろう。中国や朝鮮に、もし当時、十二分の国防軍備があり、国民に国防意識が行きわたっていれば、帝国日本にあのような好き勝手はさせなかったにちがいない。確実に、日本の戦争犯罪を少なくする一助となったはずである。適切な質量の国防は、周辺国の戦争犯罪を抑制する効果を持つものであり、これは長期的に見て周辺国との友好に寄与するばかりか、ナチスや帝国日本のような過度の不条理な軍事行動への転落を人類的規模で抑制する効果を持つ。
あるいは、これもまた皮肉なことながら、『星の王子さま』で有名なアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの『戦う操縦士』を読み直せばよい。国防の観念を十分持たず、軍備もろくにせずに、ナチスにやすやすと国土を明け渡すことになった当時のフランス国民たちへの批判に満ちたあの苦い書物を、ほかならぬサン=テグジュペリが書いたことをよくよく思っておくべきだ。

 もちろん、軍備増強派にも問い質したいことは多い。原発という絶好の攻撃対象の防衛については、ほかならぬ対アメリカ政策、アジアの世論への対応などをどのようにするのか、やはり明瞭かつ有効な方法論を聞きたいと思う。有効な方法論というのは、多くの誤差や不測の出来事に見舞われ続ける現場において、最低限以上のレベルの作戦遂行ができる方法論ということであり、また、それが明瞭に提示される必要があるのは、必要訓練を受けた人物ならば誰が担当しても同等の成果が出せるようなシステムである必要があるからだ。
 対アメリカ政策というのは、とりわけ、武器開発・生産とその輸出に関してである。
軍備増強をする以上、あらゆる周辺国は当然仮想敵国となる。未来永劫に友好関係を維持できる国などないとの基本認識に立つのでない限り、国防思想など机上の空論にすぎない。アメリカが友好国であるのは、わずかこの六十余年であり、それまでは中国以上の最大の敵国であったのは歴史上の事実である。武力を背景にして江戸幕府に開国を強いたのも忘れるわけにはいかないし、日本人の誰もが痛感しているように、現在は経済的政治的に強力な縛りで日本を締めつけ続けている。
こういう国から主な兵器を購入し、軍艦も新兵器も実際にはアメリカ軍が鍵を保持しているというような状況下に置かれ、しかも、新たな強力な兵器開発をアメリカからは妨害され続けているという事態を、はたして軍備増強派はどこまで撤回させる意思があるのか、どこまでこの不平等な体制を改める意思を持つのか、ということが問題の焦点である。武器開発と輸出という、この点での独立が達成されないかぎり、「日本は核兵器を持ったらいい」などという石原慎太郎の戯言は、いつまで経っても本当に戯言に留まり続ける。彼の主張が、どこまでもアメリカの軍産複合体を利するためのものとしか受け取れないのは、こうした兵器におけるアメリカからの完全独立を主張しないからである。
かりに、アメリカから兵器開発・製造において独立する路線を採る決定をしたところで、アメリカは、はい、そうですか、と簡単に日本を手放しはしない。兵器開発・製造をさまざまなかたちでかならず妨害してくる。その場合に、表面的であれ「友好的」という看板を下ろさぬまま、国交も貿易も損なわずに巧妙に妨害をかわしていく術や算段が、はたして日本にあるのか、ありうるのか、と考えれば、全く絶望的なのがわかるだろう。ふたたびハングリー精神を持てば未来はいくらでも開ける、などという世迷いごとを言うのはやめて、戦後の六十余年に決定的な日米間の覇権能力格差が生まれ、もはや如何ともしがたい状態であるのを虚心に見れば、アメリカの下請け兵器工場としてしか、この国の兵器開発・製造はありえないのがわかる。
そういう日本が、せいぜい自衛に必要十分な程度の軍備整備から踏み出し、「戦争のできる国」たるべくいっそうの軍備増強や「国防軍」設置に向かって乗り出したところで、要するに、アメリカの軍需産業にとっての今以上のお得意さんになるだけのことである。金はアメリカへと吸い上げられ、売りつけられる兵器は、アメリカがけっして手放さぬ最新鋭兵器ではなく、一時代も二時代も前の型落ち品ばかりとなる。中国との戦闘でも始まれば、それら型落ち品は戦場でどんどんと壊れ、(古いものなのだから、人民解放軍は当然研究済みである)、さあ困ったというところで、またもや「トモダチ作戦」よろしく、高金利の後払いという条件でのアメリカ軍出動となるわけで、ここでも売り手優先で金をアメリカに絞り取られ続ける。

こういった諸条件の、あまり麗しくもない網の目の中に漠然とかたちを保っているのがわれらのニッポンであって、正直なところ、どちらに向かっていっても碌な国にはもう成り得ようがないようだから、思い切って意図的な没落をし、のんびりした老人国たらんとするのも、かえって巧妙な安全保障策であるかもしれない。ニッポン全国が姥捨て場所のようなものであるという認識を全国民が共有できれば、進んで即身成仏する人々も出てくるだろうし、未開社会の知をふたたび身を以て研究し直そうという人々も出てくるのではないか。
もともとニッポンは、「滅び」ということにかけては多大の文化的概念やイメージを産出して人類に寄与してきた場所でもあったわけで、ふたたびその原点に戻って文化的な産業を練り直すというのは、存外、正しい方法論かもしれない。対外的には「滅び」と「廃墟」を売りにし、さらに津々浦々に「廃人」を行きわたらせば、人類史上でもなかなかにユニークな世界が現出しそうである。
こういう路線を積極的に採れるには、もちろん「廃」ならぬ「俳」のセンスと精神がたくましく通っていなければならず、人間にとってはなかなかに高度な生き方であるに違いはない。吉本隆明が生きていれば、「俳イメージ論」でも書いて称揚これ努めたかもしれない。



日本人諸氏の健闘を祈る




すべてのインテリは、東芝扇風機のプロペラのようだ。
まわっているけど、前進しない。
                      寺山修司



 国論を二分する問題とか、将来の日本国を左右する選択が迫られているとか…
 今こそしっかり政治と向き合え、と方々で声や声ならぬ声が上がっていて、なんだかなァ、と思う。

 小林秀雄が改造の懸賞で二等になった論文『様々なる意匠』、あの題名を思い出させられる。
世論も文芸界も思想界も「様々なる意匠」で喧々諤々していて、議論という点では豊かだったはずなのに、けっきょく日本は戦争に突入していったのだし、政治家ばかりか、庶民も、文学者も思想家も大学の先生たちも、だれひとりそれを止めることはできなかった。
 政治、社会、国家の未来… どんな言葉で呼んでもよいが、私という生身の一個人が生きている人的環境は、人権思想や民主主義や議会主義の長い展開の後でさえ、けっきょく「私」の望むとおりにはならない。なったことがない。私とて、社会にまき散らされている諸問題のあれこれについて、私なりの分析をしてみたり、解決策を考えてみたり、よりよい政策のようなものを夢想してみたりはする。それを、どこかで発言してみたり、熱くなってみたくもなるのだが…

しかし、…と思うのだ。
なんのための政治家たちだったか、なんのための代議制だったか、と。
さらには、なんのための専門家の先生たちだったのか、と。
あらゆる仕事が専門分化した近代社会において、各自ひとりひとりが自分の関わる分野や仕事に集中できるように敷かれたのが代議制であったのではないか、と。そのための代行者が政治家であり、役人であり、制度や運用をよりよくするために据えた政治・社会の諸事の専門家たちではないのか、と。

したがって、たとえば今後の原発政策の是非について、あるいは今後の国防のあり方について、今後の沖縄の基地について等など、もし、私がよく考え、発言し、さらには街頭に出て誰かを応援したり、主張したりしたならば、それは近代的な代議制政治を根本的に逆立させる行為ではないのか、と思われてならないのだ。
いや、本来そうした諸問題を扱うべき人間たち、専門家たちが、いま、怪しくなっているのだ、彼らの能力や質が疑わしくなっている、どうしても一般の国民の観察や批評や参加が(懐かしのアンガージュマンか?)必要だ、と言われるかもしれない。そもそも、社会参加、政治参加は近代人の義務であり、近代人はみな政治的人間であるべきであり…とも言われるかもしれない。
なるほど、重要な社会問題や、将来の国の運命を左右するような問題は、個人個人が考えに考え、そうして行動しなければならない…とは、ほうぼうで教えられてきたし、不覚にもというか、無思慮にもというか、そうすべきだと信じてきたフシもあるし、実際、そのように行動してきた場面もないではない…

しかし、…と思うのだ。           
社会や政治を十分に視野に入れて、しかるべき社会正義実現や発展のために行動すべく据えられて、それで収入を得ているような職種の人々の仕事を、どうして専門でもない私たちが手伝わないといけないのか、と。

他ならぬ福島の原発事故の現場に近い住民が、逃げようか留まろうか、将来の政策をどうしてくれろと考えようか、考えないで済ましておくか…、そんなことはもちろん切実な問題に決まっている。
しかし、少し離れて東京にいて、日々、自分のかつかつの生活のための仕事や用事に追われている一個人にとってみれば、原発問題や原発政策の未来について、いつまでも右往左往し、多様な情報を漁り続け、いちいちに立ち止まって判断し、分類整理し、意見に嘘がないか、思考に間違いがないかをチェックし、そうして同じ志を持つ集団のところに出かけて行ってさらに意見を聞き、自分も意見を言い、デモなりなんなりの行動に結び付けていくといった良心派や左翼やヒューマニスト推奨の行為は、儲からないどころか、自分だけに配分されている持ち時間やエネルギーをひたすら浪費していく行為である点、はなはだしいものがある。

こういうことを個人個人に避けさせるための近代分業制であったのではないか、と、思考は舞い戻り続けてしょうがないのだ。なにも近代分業制を称揚したいわけではないのだが、社会全体が分業を当然のこととして動き続けている以上、自分にとりあえず割り当てられた作業以外のことをすれば、その個体は大きな遅れと浪費を強いられ、損害を被ることになる点を看過するわけにはいかない。
シロウトの良心的市民たちが専門的な原発問題の勉強を慌てて俄仕込みでやってワアワア言いながらも、そこで発語されたなかなかにまっとうな意見も見解も決して専門家の世界にはしっかり取り入れられることはなく、現実の政策を動かすところまでも届かない。しかし、そうしている間に、原発の専門家たちは大学や研究機関から給料をもらい続けており、さらには方々のテレビや雑誌の頼まれ仕事を受けて臨時収入を増やしている。
善良にして勤勉なる市民たちは無給のボランティアと決まっていて、まあ、ご苦労さまでした、ということで時間は過ぎ、時代も過ぎていくというわけである。

本当の効果、有効さ、現実性という見地に立って、ほとんどの社会問題や政治問題を積極的にスルーする、という生き方を本気で考え直しておいたほうがいいのではないか。

ここに、社会や国家について重要な問題群があるとしてみよう。
それらが本当に重要であればあるほど、かならず、私よりも広く深い専門知識を持った人々がいるはずである。
私が、個人的な生活時間の暇を見つけてなにごとか考えてみるよりも、それら、専門家たちを戦わせて議論させたり、足の引っ張りあいをさせてみたほうが、よほど有効な結論に近づくのは火を見るよりも明らかだろう。
社会や国家は、そこで出てくる結論や、結論とまではいかずとも方向性に添って流れていったらよいのだし、そもそも、専門家でない私がいかに俄か研究を深めてなにごとかモノ申したとしても、どうせ誰ひとり聞きもしない。
もし問題群が、一見重要なようでも、本当はさほど重要でもないものであったとしたら、その場合にも、というか、その場合こそ、いよいよ専門家たちに任せておいたらいいということになるはずである。
重要ではないのだから、第一、私が関わる必要はない。専門家たちは、とにかく議論したり論を作っては修正したり壊しあったり批判しあったりして飯の種にしているのだから、そういう他人の業界内部の話に関わったり、微に入り細に入ったオタク論議に関わる必要は、私には全くない。
つまり、どちらの場合にも、私というひとりの心身は、マスコミやある種の問題焚きつけ趣味のある人々によって見かけ上重要と演出されたそうした問題群に関わる必要は、ない。問題に熱くなったり、声を上げたりしている間にも、二度と戻って来ない時間は流れていく。しかも、私個人のために使われず、浪費された時間として消滅していく。
もちろん、こういう事態もありうる。
専門家たちや、異常なほどに関心を持ってそれらの問題群に関わる物好きな人たちや趣味人たちといえども、なるほど私よりは広い視野を持って周到な考察を展開しているはずながらも、門外漢の私の目から見たら、ひょいと偏向しているとか、思考の道を誤っているというような場合が、それだ。たしかに、そうした事態を傍から批判するのは、個人の行動としては、ひょっとしたらなんらかの意味を持ちうるのかもしれない。
しかし、そうした批判を実効性あるものたらしめるには、批判の正しさだけではダメで、その批判を流通させ、それに力を持たせるような下地としての社会的な組織力が必要になる。とはいえ、そうした社会的な組織の下地には、つねにあらかじめ、資本を持つ者たちや偏向思想家たちが入り込んでいるもので、いかなる場合にもこちらの思うようには動かず、こちらの批判は機能しえないものなのだ。

こんなふうにつらつら考えてくると、私にとっての結論じみたものは、だんだんと出てくる。
ことが社会レベルや国家レベルの重大問題に関わる場合ほど、この私は何もしないでよい、という結論だ。
むしろ、私は、私しか問題視しないことを、私だけしか解決者がありえないような極端にマイナーな問題こそを扱い、それについて思考し、なんらかの解法に向かわせるべきではないか。
鈴木志郎康氏がかつて創造した言い方を借りれば、「極私的」テーマをこそ、いよいよこの時期に追及し、深めよ、ということかもしれない。これなくしては、国や社会の個人の内実が空洞化することにもなる。バーコードのついたコンビニ商品なみにどこにでも見つかる個性や感性や思考法ばかりしか備わらない、内実の空洞化した個人がいくら国や社会や未来を論じてみたところで、そもそもなんのための国や社会や未来かという話でもある。

以前からわかっていたことではあるのだが、よりにもよって、日本の最大の動揺期(かもね…)という時期にあたり、そろそろ、この点ではっきりした態度をとってもかまわない頃だろう。
すべての社会的、国家的、未来的…な気宇壮大な大問題という大問題を、私以外の専門家たちや心熱き人々、優れた知性の持ち主たち、そうでないとしてもとにかくワサワサと関わっていたい有意のけなげな人々に、私は私なりのちっぽけな勇気と決断をもって任せ切ろう、と思うのである。考えてみれば、これほど他者への敬意と、全幅の信頼に満ちた配慮と決意もあるまい。
日本人諸氏の健闘を祈る。本当に、衷心から。

 もちろん、気まぐれに、まったくのホビーから、定見もなく、ろくに考えもせずにどこかの党に投票したりするという無償の戯れをしてみる自由は、御愛嬌として、手もとに残しておきたいとは思うが…



2012年10月24日水曜日

純粋とはこの世でひとつの病気です

―吉原幸子の詩について






風 吹いてゐる
木 立ってゐる
ああ こんなよる 立ってゐるのね 木
(「無題」)


雲が沈む
そばにゐてほしい

鳥が燃える
そばにゐてほしい

海が逃げる
そばにゐてほしい
(「日没」)


愛がこわい やさしさがこわい
かみつぶす思いの悔いがこわい
わたしをいのちに誘わないでください
(「祈り」)



すべての過去を共有しない限り
どんなふたりも
現在を共有することはできないのか
そんなにわたしたちはひとりぼっちか
(「共犯」)


せっかくふるへながら犯した罪が
お経ひとつで帳消しになってたまるものか
(「霊異記」)






……吉原幸子の詩をいまでも人は読むのだろうか。

一九三二年生まれの彼女はジャン・アヌイの劇に傾倒したというが、アヌイ劇もとうに人気を失った頃、彼女の幾つかの詩とエッセーと、そして写真と逸話に出会った。
詩集を数冊買い込み、脇に抱えて外に持ち出した。喫茶店でも読んだが、移動のさなか、とくに電車の中で、駅のホームで読んだ。他の現代詩人のものは古本や現代詩文庫で読んだのに、吉原幸子のものはもっと値の張るオリジナルの新品の詩集や作品集で、厚手の紙にちゃんと大きな字で刻印されたものを読んだ。一九八一年に出た『吉原幸子全詩Ⅰ・Ⅱ』(思潮社)をリアルタイムで買い、既知の作品を読み直した。
切れ味が鋭く、美人で、ようするに“かっこいい”人に見えた。

彼女にとって、詩は「いつも遺書のやうなものであった」という。
「詩は排泄だ」とも語っていた。
なるほどと思う。
スパッと潔い言葉だった。
男のではない、女の潔さ。
仮借ない自己追求を続けつつ詩作する人で、剃刀の刃の上での張り詰めた舞踏独演を見るようだった。

わたしの小さな光のために
まはりの闇が もっと濃くなる
わたしにはあなたがみえない
あなたのなかの闇がみえない

わたしの小さな光のために
わたしには わたしがみえない
わたしの流した白い血だけがみえる
(「蝋燭」)

 なにか言ってもなかなかわかってくれないような者たちに向かって、とにかく言い募ってやまない詩人。
そのように見えた。
言ってもわからない者たちのうち、もっとも手ごわい者たちは、じつは、彼女自身の中にこそいた。だから、彼女の詩はみんな、彼女の内面に向けて書かれていた。
第二詩集『夏の墓』のノートに記された「このひとりぼっちの相聞歌を、誰でもなく、誰であってもよい〈あなた〉に捧げる。そうして別れを告げる」という言葉も、もちろん彼女自身に向けられている。「別れ」ても「別れ」ても、「わたしは わたしの青い墓」(『愛』)だから、離れることはできない。体や心は死んで消えても、「わたしの墓」という自己認識のゆえに、「わたし」を捨て去ることはついにできない。死に切ったところで、果てにあるのが「墓」だからだ。

 彼女を「恋愛の詩人」(飯島耕一)と呼ぶのは定説となったが、吉原幸子が書き続けたのは恋愛の甘美さや幸福ではなく、一貫して、愛の不可能性やその不在だった。
 石原吉郎はこう書く。
「彼女が『愛』と呼ぶとき、それは、愛を除いたその他の一切をいみすることがある。すべてがある。ただ、愛だけが『愛』において不在なのだ。そのときたぶん、彼女は愛ということばによって愛そのものの不在へ賭けている」。
正確な読解というべきだろう。「恋愛の詩人」としての吉原幸子を考える際、出発点とすべき認識である。

傷のない愛などある筈はない だが
愛はないのだから 傷もある筈がない
ない空にない風船をとばした罪
ない恋人を抱いた罪
半分が終った
さうして残る半分は
わたしがそこにゐないことを
証明するための時間だ
とどかなかったナイフは ない
傷はないのだから わたしは ない
(「独房」)

 彼女のこのような恋愛方程式において、つねに「わたし」が重要な要素をなしていることも、もちろん忘れられてはならない。
「病的な〈嘘アレルギー〉」(『愛の終止符』)だったという石原吉郎にとっては、「純粋」というものも、吉原幸子のもうひとつの核心をなしていた。
「わたし」と「純粋」のふたつの極のあいだに彼女の「恋愛」は発生し、両極を焼きつつ、詩として刻印されていったのだ。

彼女にとっては、自分の外に位置する男たちよりもよほど、「わたし」と「純粋」のほうが危険な愛人たちだった。
「純粋とはこの世でひとつの病気です」(『オンディーヌ』)とはわかっていても、どうにもならない。

ハンスたちはあなたを抱きながら
いつもよそ見をする
ゆるさないのが あなたの純粋
もっとやさしくなって
ゆるさうとさへしたのが
あなたの堕落
あなたの愛
(「オンディーヌ」)

こう彼女が書く時、ここでは「あなた」は「わたし」のことを指しているが、問われているのが、じつは自らの「純粋」の去就のみであって、男たち全般を意味する「ハンスたち」など、内なる「純粋」の振舞いを照らし出すための反射板となっているに過ぎない。

わたしの小さな光のために
わたしには わたしがみえない
(「蝋燭」)

そうであったからこそ、必要とされたに過ぎない反射板。

「あなたの純粋」と「あなたの愛」は反射板からの照射の中に拮抗し続け、容易なことでは折り合ったりしない。融合したりはしない。
「純」と「愛」を安易に結びつけるのは吉原幸子の詩学ではなかった。
そもそも、このふたつの概念の本義からして、共立などありえないはずでもあった。

「愛」についてはもちろん、「純」についても、その他のすべての概念についても、なんでも緩く緩く受けとめることに慣れ切ってしまった後続の人間に、吉原幸子は、いつも、鋭い。痛い。
 彼女のほうへ、戻らねばならないか…
 進む時代は、もう、永遠に去ってしまったのでもあるし…



    他人(ひと)にも傷がある そのことで
    救われるときがある たしかにある

    でも 
    わたしの傷が 誰を救ふだらうか
(「非力」) 





2012年10月21日日曜日

悲しささえもが観念である

―藤枝静男『悲しいだけ』について



三十五年間にわたって病魔に侵され続けた妻が、全身衰弱の後、とうとう息を引き取る。その葬儀の後で、こんなふうに書く男がいる。

〈「妻の死が悲しいだけ」という感覚が塊となって、物質のように実際に存在している。これまでの私の理性的または感覚的の想像とか、死一般についての考えとかが変わったわけではない。理屈が変わったわけではない。こんなものはただの現象に過ぎないという、それはそれで確信としてある。今はひとつの埒もない感覚が、消えるべき苦痛として心中にあるのである。〉                       
(『悲しいだけ』)

 藤枝静男である。
 三十九年間にわたる結婚生活のうち、彼は妻の病(肺結核、乳癌、癌性腹膜炎)に三十五年間付きあい続けた。
そればかりでなく、療養所に入院している妻の見舞いを描いた一九四七年の処女作『路』以来、一九七九年の『悲しいだけ』でその死を描くまでの三十二年間、つねに作品の中心テーマとしたわけでなくとも、ずっと妻の存在を創作行為の底に抱えてきた。
ついでに添えておけば、この眼科医は、家族の貧困、結核、淫蕩な血、「漠然たる正義感」の問題や妻の病を引き受けつつ、リアルで明晰な幻想性を確立した作家として記憶されている。一九〇七年、静岡県藤枝生。一九九三年没。
妻の病に添い続けた長い労苦の時間にたいして、ことさら「純愛」などという名を冠してみる必要はないにしても、世間一般の「純愛」をして顔色なからしめる性質が、藤枝静男の人生と作品にあるのは確かだろう。

 生きていく上でも、創作上も、性欲というものが彼にとって大きな問題だったことはよく知られているが、この点でも藤枝は、世間の「純愛」に対してはるかに優越している。というのも、性欲の凝視を経ていない「純愛」など、もとより滑稽な思い込みに過ぎないはずだろうから。
恋愛対象への意識の傾きが、「純愛」と呼ぶほどのものなのか、それとも単に性欲と呼んでおけば済むものか、あるいは気晴らしなのか。
一見、「純愛」という言葉ほど藤枝静男から遠いものはないのだが、それは、「純愛」が最後の最後に来る言葉だということを彼がよく知っていたからである。「性欲」や「執着」や「遊び」や「気まぐれ」、あるいは「血」。たいていの恋愛感情は、これらで説明がついてしまうのではないか。彼の厳格この上ない凝視は、いいかげんな観念が内心に揺曳するのを許さなかったのである。

しかも彼は、そうした内的な検討に留まらず、追求が、生活や身体へと現われ出るのを求めた。
『木と虫と山』で、主人公に仮託して藤枝はこう書いている。
〈ある人の思想というのは、その人が変節や転向をどういう恰好でやったか、やらなかったか、または病苦や肉親の死や飢えをどういう身振りで通過したか、その肉体精神運動の総和だと思っている。そして古い木にはそれが見事に表現されてマギレがないと考えているのである〉。
「肉体精神運動の総和」として「思想」を捉える以上、時間の長さは当然重要なものとなるし、時間の中での行為や思いや逡巡や思索ももちろん重要だろう。あらゆる観念を呵責なく凝視し、粉砕してきた彼が、「純愛」という観念だけを特別扱いしたはずもないのである。

『悲しいだけ』では、もちろん、妻の死が描かれているように見え、ひいては妻のことが描かれているように見える。
しかし、注意してみれば、彼が言及するのは妻やその死そのものではなく、妻の「死」という観念であったり、死の時の「光景」であったり、妻が「わたしはこのお墓に入るのはいやです」と言った「瞬間」であったりしている。
おそらく「光景」や「瞬間」も、観念として見直すべきなのだろう。
〈『妻の死が悲しいだけ』という感覚が塊となって、物質のように実際に存在している〉。
そう彼が書く時、悲しささえも観念として捉えられている。

彼が行っているのは、おそらく、単なる哲学的な戯れではない。
出来事の生起、経験、生、それらの認識、記憶、想起、さらには「思想」へのそれらの練り上げ過程の実相への執拗な観入が、藤枝静男という「運動」だったのである。