2012年12月24日月曜日

不求甚解(甚だしくは解することを求めず)

―陶淵明がいてくれる、ということ 





 陶淵明がいるから、なおも生きていける。
 あまりに当たり前のことなので、詩文好きの誰もが言わないでいるだけだが、たまには思い出しておいてもよいだろう。四世紀から五世紀にかけて中国に生きた彼は、二十一世紀の詩文好きたちをも励まし続け、救済し続けている。

少無適俗韻  
性本愛邱山  
誤落塵網中   
一去三十年   
羈鳥恋旧林   
池魚思故淵   
開荒南野際   
守拙帰園田   
 …

少くして俗に適する韻無く
性 本 邱山を愛す
誤って塵網の中に落ち
一去 三十年
羈鳥 旧林を恋い
池魚 故淵を思う
荒を開く 南野の際
拙を守って園田に帰る
 …

『帰園田居(園田の居に帰りて)』其一のこの冒頭を、ふと思い出して呟かないような者はいまい。陶淵明の個人的な感慨であったとしても、書かれるやいなや万人の感慨となった全人類的な詩句であり、人間の条件と自己救済の可能性と実践までを一挙に収めてしまう強く大きな詩業である。

子どもの頃から世の中には合わなかった。
生まれつき丘や山を愛する性質だったのに
まちがって世の中の塵網に陥り
あっという間の三十年。
それでも、旅する鳥はむかしの林を恋い
池の魚はかつて居た淵を思うもの。
よし、南野のあたりに荒地でも拓いて、
不器用なりにも生きのびよう、と
この田園に帰ってきたわけ。
 …

こんな訳を試みてみたくもなるが、そんな必要もないほどに日本では人口に膾炙している。外交や経済の面で日中間に問題がある時にも、古い中国の文化が日本文化の礎の大きな一部になっていることに変わりはなく、陶淵明の有名な幾つもの詩への愛情と信頼を心に持ち続けぬ者がいれば、日本人として信じるに足りない。

四、五世紀の作品だというのに、ここでは、個人と社会、時代というものの根源的な不調和が指摘されており、個人が生きのびるためには、社会や時代に対して個人がどのような姿勢をとるべきかが検討されている。その際の慨嘆や検討や決意、行動が結びあわされて詩となっていくところに陶淵明の詩法がある。一個人というものは、どのような時代にも、自分の置かれた文化や自然や時代によって翻弄され続けていく他ないので、その部分を詩の発生点として握り締めた陶淵明の基本的な方法論は、今後も世界各地の一個人たちと強く結びつき続けるだろう。詩文は、太平の時代において、ときに抽象化やナンセンスの道を進んだり、他の土地や文化や時代の人間たちからは理解されづらい個別的な流行感情や価値観、さらにはその場所だけの商品や狭い常識を歌い続けるサイクルに陥ることがあるが、そうした平穏な倦怠詩を可能にする太平というものは数十年以上続くことはなく、詩文に関わる者たちは必ず、時代や政治や環境や人心の変化に詩心を以て直面し直すことを強いられる。そういう時に模範として人が再発見し直すうちのひとりが陶淵明だということになる。

*

 こういう陶淵明には『五柳先生伝』という作品もあり、彼の虚構の自叙伝と目されてもいるが、そこに面白い部分がある。

間靖少言、   
不慕栄利。   
好読書、    
不求甚解、   
毎有会意、   
便欣然忘食。  

間靖にして言少なく、
栄利を慕わず。
書を読むことを好むも、
甚だしくは解することを求めず、
意に会すること有る毎に、
便ち欣然として食を忘る

 このように訳せばいいだろうか。
「静かで言葉少なく、名誉や利欲は望まない。読書を好むが、細かいところまで解釈しようとはせず、自分の思いにかなうところがあると、うれしくなって食べることも忘れる」。
面白いのは「不求甚解(甚だしくは解することを求めず)」という部分である。自叙伝に近いものである以上、ここには事実と理想とが混在していようから、陶淵明の読書態度が実際にこのようであったか、それとも、このようであればよい、こうあるべきだ、と思って記されたかはわからない。しかし、わざわざこう記すというのは、ここに読書態度の理想を見ていたからだと考えて、そう間違いではないだろう。
 これは、非常に詩人らしい読書態度と思える。
そもそも解釈というものは、深めたり多層化させたり、さらにはさまざまな視点から多様化させたりしようとすればキリがない行為である。文学テキストは本来そのような行為に読者を引き込むようにできており、そうした解釈行為への泥酔を推進させる装置として創造される。
いっぽう、詩人は、そうした文学装置をみずから創り出す性向を持った人間であり、彼にとって先行する時代のすべての文学テキストは、自分の創る文学装置のための素材やモデル以上のものではない。先行テキストへの没入や陶酔は厳禁されねばならず、もし先行テキストを濫りに称揚したり、そのテキストのもたらす解釈の森の深みへの迷い込みに至上の快楽を覚えるようになれば、それは如何に快楽そのものであっても、そのまま彼にとっては死を意味する。いかに多量の先行テキストに触れ続けていても、あたかもなにも読んでなどいないかのように振る舞うのが詩人には理想的であり、すべてが彼の心と思いから湧き出してきたかのように作品を作り出していくのが、いわば嗜みでもあれば、ダンディズムでもある。少なくとも、必要かくべからざるものとして詩人に要求される演技ではある。「不求甚解(甚だしくは解することを求めず)」と記した陶淵明は、このあたりのことをよく認識していたと思われ、二十世紀に文芸の世界を大がかりに汚した解釈優越主義の悪弊を、その根本姿勢において、よく避け得ていたと感じられる。
もちろん、これは、字句の穿鑿や解釈を否定し去るものではない。学者ならそれらに埋没して死んでもよい。しかし、詩文の快楽を求める者や詩人は、それらの行為だけに時間を労するわけにいかない。要は、言語記号の起動や言語装置のための言語配列にあたって、どの部分を強調重視するか、各自の立場と欲望にしたがって臨機応変に対応すべし、目的・価値観・欲望・行為をたえず厳しく編集し続けるべし、ということである。
陶淵明のこうした認識は、彼が、自分の時代までの中国での詩文テキストの扱われ方の歴史を知っていたことから来るのかもしれない。『飲酒二十首』を見ればよくわかる。自分に到るまでの中国の歴史が、たとえば儒学の文書にどんなさんざんな経験をさせてきたか、陶淵明はよく見ていた。其二十にこうある。

鳳鳥雖不至   
礼楽暫得新   
洙泗輟微響   
漂流逮狂秦   
詩書復何罪   
一朝成灰塵   
区区諸老翁   
為事誠慇懃   
如何絶世下   
六籍無一親   

鳳鳥 至らずと雖も
礼楽 暫く新しきを得たり
洙泗 微響を輟め
漂流して狂秦に逮ぶ
詩書 復た何の罪かある
一朝にして灰塵と成る
区区たる諸老翁
事を為すに誠に慇懃たり
如何ぞ 絶世の下
六籍 一の親しむ無し
 
鳳鳥が来るまでには至らなかったが
礼や楽はしばらく新鮮さを得たものだった。
ところが洙水や泗水の微かな響きが途絶え、
狂った秦の時代に漂流してしまった。
詩経や尚書になんの罪があっただろう、
焼かれて一朝にして灰塵に帰したのだ。
漢代に入ると老学者たちがこせこせと
まことに丁寧な仕事をするようになった。
どうしたものか、遠く下った現代では、
六経に親しむ者などひとりもいない始末。

秦代の焚書坑儒が終わったかと思えば、漢代には学者による微細すぎる儒学解釈学の時代を迎え、「章句の学」と呼ばれる枝葉末節への過度のこだわり方が、文芸の息の根を止める。そうかと思えば、今度は六経に誰も見向きもしなくなる時代が到来する。テキストに次々襲いかかるこうした時代の変遷の中で、たまたま今という一時期に生を受け、テキストの受け渡しと創造とを担うことになった詩人はどう振る舞えばいいのか。先行テキストを尊重し、それらをつねづね多量に自分の意識に晒しつつ、自然に発生する解釈や訓古の精神活動をある程度までは運動させつつ、しかし、それらに溺れ過ぎないように自制をかけ、人類の今と自分という独異存在の今との交差点に詩文を構成しようとする、――こんな詩人の《現場》というものを、陶淵明はつよく認識していた。

*

人類は、彼の時代より長足の進歩を遂げたかのように見えがちでもあるが、一個人と世の中の関わり方の現実や、一個人が被る心的印象においては、なんら根本的な変化があったわけでもなく、そこによい意味での進歩があったわけでもなく、彼を取り巻いていた人間の条件も、それについての陶淵明の認識も、依然として《現代》であり続けている。世の中や時代はあいかわらず一個人を翻弄し続け、その個人の自己を、独異性を希薄化させ消滅させようとし続けており、そんな中で少しでも一個人が心の生のほうへ強く戻ろうとする時には、『帰去来兮辞』のこんな詩句は、やはり強く響いてくる。

帰去来兮     
請息交以絶游   
世与我而相違   
復駕言兮焉求   
 …

帰りなん いざ
請う 交わりをやめて以て游を絶たん
世と我と相違う
また駕して言(ここ)に焉(なに)をか求めん
 …

さあ、帰ろう、
世間との交遊など断ち切ろう。
世の中と私とはたがいにそりが合わない。
もう一度仕官して、なにを求めようというのか。
 …

 現代の詩人たちが書くことを怠けている叫びがここにはあり、驚くべき現代性がある。陶淵明の時代とは比較にならないほどに、誰もが「仕官」を強いられる「世」が巨大に張りめぐらされた現代にあっては、今のどの詩人の詩よりも切実に求められるべき詩といえる。こういう詩が四世紀、五世紀の中国で陶淵明によって書かれてしまっていたというところに、全人類にとっての道具箱としての、世界の文化の諸々の面白さと不思議さ、尽きせぬ貴重さが表われ出ているのだ。
 彼の絶唱をもうひとつ思い出しておこう。

雑詩 其一

人生無根蔕 
飄如陌上塵 
分散遂風転  
此已非常身 
落地為兄弟  
何必骨肉親 
得歓当作楽 
斗酒聚此隣 
盛年不重来  
一日難再晨 
及時当勉励 
歳月不待人

人生 根蔕なく
飄たること陌上の塵のごとし
分散し風を遂うて転ず
此れすでに常身にあらず
地に落ちては兄弟となる
何ぞ必ずしも骨肉の親のみならんや
歓を得ては当に楽しみをなすべし
斗酒もて此隣を聚めん
盛年 重ねては来たらず
一日 ふたたびは晨なりがたし
時に及んでまさに勉励すべし
歳月 人を待たず

人間の生には、繋ぎとめておいてくれる根や蔕などなく
路上の塵のようにさまよい、漂っていく。
風に散っては、ただただ転がって行くばかり。
この世に来たら、体はもう、不変のものではないよ。
生まれ落ちれば、存在物はみな兄弟。
肉親だけが同類というわけではないのさ。
いいことがあった時には楽しまなければだめだぞ。
少しの酒しかなくても近隣を集めてな。
若い時代は二度とは来ないんだ、
一日に二度朝が来ることがないように。
だから、しかるべき時に楽しんでおけよ。
歳月は人を待ってくれないからな。

 遠く、フランソワ・ヴィヨンを思い出させる人生詩で、美だの芸術だの精神だのという世迷いごとの安酒などに悪酔いさせられていない、健康な言葉の並び具合である。
あるべき詩とはどういうものか、迷った時には、このように陶淵明がいる。
というより、そんな迷いを抱く暇があるなら、書くのはやめておけと、彼は言うかもしれない。心と頭があり、それがごく普通に動いていて、そうして、「不求甚解(甚だしくは解することを求めず)」という態度に支えられつつ、過去の先行する詩文のテキストとの日常的なつき合いが継続されているならば、その個人からはおのずと詩文が生まれ、書き落されて、それは広まったり忘れられたりしていくだろう。詩文はそういうものであって、むりに書かれるべきでもないし、むりに残そうとされるべきでもないし、強すぎる価値判断の作業に晒され続けるべきものでもない。
ちなみに、この詩の終わりの「及時当勉励(時に及んでまさに勉励すべし) 歳月不待人(歳月人を待たず)」は、しばしば、「しかるべき時に勉強しておけ。歳月は人を待ってくれないから」と読まれがちだったが、本意はそのような勉学の励ましにあるのではなく、ただ、「しかるべき時に楽しんでおけよ。歳月は人を待ってくれないからな」と解すべきだというのが中国文学研究の一般的な見解のようである。もちろん、勉学が楽しみであり逸楽であるような人たちにおいては、「しかるべき時に勉強しておけ」との解釈でいっこう差支えはないのでもある。
ついでにもうひとつ加えれば、「斗酒」というのは陶淵明の頃、二リットル弱の酒のことで、少量の酒、と受け取っておくべきらしい。この表現は他の詩にも出て来るもので、ひとりで「斗酒」を飲む場面も描かれている。二リットルというと、そう少ないわけでもないそれなりの量に思えるが、どぶろくのようであった当時の酒はアルコール度も低く、この程度では十分には酔わないという事情があったらしい。
多少の字句についてこんなふうに検討してみるのは、けっして「区区たる」訓古の学者ふうの悪弊ではなく、こちらの想像を広げる材料の拾い出しというべきだろう。「不求甚解(甚だしくは解することを求めず)、毎有会意(意に会すること有る毎に)、便欣然忘食(便ち欣然として食を忘る)」に当たることとして、陶淵明先生の意にしっかりと添う読み方と思われる。





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