2012年12月2日日曜日

ニッポン「滅び」産業のほうへ

  ―2012年衆議院選挙を控えての極私的メモ



とりどりの哲学が廻らなくなってひさしい
きつい露にぬれている南の小屋
魚の肌した木をみてくらす男 おれは
爪と髪でちいさな琴をつくろう
谷川雁『水車番の日記』

                                                                                                                                      



 原発へのスタンスの基本は「廃止」ということに決まっている。原発で用いた後の使用済み核燃料などを、安全ですみやかに処理できる方法が人知で得られない以上、他の選択肢はない。議論の余地もない論理的な結論である。ここまで存続してきた地球環境を未来にむけてなおも存続させ、現在存在する生物種を今のままになるべく近く存続させるための至上の選択であって、種の継続の過程で発生してきた中継ランナーに過ぎない現在の人間が、これに傲慢にも異を唱えるような権利はない。
こうした「廃止」によって、人類の産業上の停滞や退行が生じるというのなら、ここではあえて覚悟して、そうした「停滞」や「退行」を惹き起こさねばならない。賭けられているのは、エネルギーの種類の近視眼的な選択なのではなく、太陽の滅亡によって消滅するまでの間の地球環境の最低限の維持ということであるのをよくよく認識しておかなければならない。

 ただ、どのように「廃止」の方向に持っていくか、どの程度の時間尺で遂行していくかについては、人間の現在知でさまざまな案の出る余地があり、当然、意見が分かれる。この点では、原子力の専門知識や原子力工学や周辺設備に関わる工学知識が物を言うことになろうし、アジアにおける外交や軍事の実態と将来予想をシビアに踏まえた上での検討が要求されるだろう。交渉と友好と平和を第一義としてつねに諸問題に対処する善意ある専門家たちにこそ任せるべき分野と思われる。もちろん、原発事故後に百出した御用教授たちに任せるわけにはいかず、核武装を安易に主張するようなジリノフスキー型の劣等知性政治屋に任せるわけにもいかず、市長職を放り出して総選挙運動に興じたり最低賃金撤廃を平然と持ち出してくるようなヴァラエティー型芸人に任せるわけにもいかない。ここには一般市民の批評能力と批判実践がおおいに有効に機能する領野が拓ける。

 どのように原発を「廃止」していくかという問題において、「どのように」「どの時間尺で」という点での差異にあまり拘らないようにして、2012年末の衆議院選挙には望むべきだろう。「即時撤廃」を主張しようにも、原子力発電の構造の実情を考えれば、即時の停止はできても、即時の「撤廃」となると技術的にも経済的にもできない。稼働もしていない《もんじゅ》ひとつとっても、行くにも戻るにもどうにもならないでいる体たらくである。「即時」を主張する政治勢力は、「即時」を希求し、少しでもはやく廃止したいという気持ちを表現したいがために詩的に「即時」と謳いこんでいるわけで、そこのレトリックに謳いこまれた叫びを理解しておけばよく、そうした末節の表現について上げ足を取りあったりしてもしかたがない。

 個々の主張を見ていくと思考の混乱や見落としが各様に散りばめられていて、正直なところ、対立しあういずれの立場も理屈上は問題があるのではないか、と思わされる。

 原発推進派は多くの場合、国防推進の考えを伴っている。しかし、国防上、もっとも危険きわまりないのは、どうぞ、いつでも攻撃してください、とばかりに日本海側に並んだ原子力発電所であるのは論を待たない。『新世紀エヴァンゲリオン』でもないが、ATフィールドばりのよほど堅固なヴァリヤーをかけるのでもなければ、無思慮きわまりない原発推進は、そのまま、国防ならぬ国亡に直結し、亡国に到ってゲームオーバーとなる。どのように原子力発電所を防衛するのか、それを現段階で明瞭完璧に説明できなければ、原発推進+国防のセットは非現実の極みであり、そのような主張は無責任としか言いようがない。
もちろん、原子力発電所を稼働させれば確実に発生し続ける核のゴミをどう処理するのか、原発推進派はこれについてもあらかじめ答えを出しておかなければならない。先にも書いたように、核廃棄物の完全な処理法は、現在の人類の知と技術のレベルでは克服できない。将来の人類知がこれを発見するということはあり得るかもしれないが、それは夢想的な蓋然性の範疇に属することであって、共時的にも時間的にも全地球的影響を及ぼし得る多大の危険を伴うプロジェクトの可否が問われている場合には、もとより、期待できるカードとして見なすことは許されない。こういう思考の状況下にあっては、原子力発電所の使用を継続していくことは、地球環境の従来通りのバランス維持を生命根拠としている人類にとって、将来的な確実な滅亡を準備していくということになる。

 他方、性急な反原発、全原発の即時「撤廃」ばかりか、稼働可能性の「撤廃」をも主張する者たちの側の論理が完璧であるわけでもない。
現時点での代替エネルギーの中心である石油や天然ガスなどが、国際情勢によって大きく左右され続ける危険をどのように避けうるのかを、彼らは明らかにしていない。十年後や数十年後の話ではなく、明日にも原発全廃止を決めるというような場合に、安定したエネルギー資源輸入をどのように確保するのか、確保されうるのか、という問題である。中東の不安定さは誰の目にも明らかだが、いまや日本に向けてはっきりと敵対的態度をとるようになった中国が、日本近海で輸送船の航行を妨害したり破壊したりする危険も今後は大きい。それにどう対処するのか、原発撤廃を主張する人たちは有効で現実的な方法論をはっきりと提示しなければならない。太陽光発電や風力発電、地熱発電等など、どれも有効な電力を生みだすほどには敷設されておらず、大量のエネルギーを供給するにはどうしても石油や石炭、天然ガス、そして原子力発電などに頼らざるを得ない現状での実効ある方法論が問われているのである。

 反原発派、脱原発派、卒原発派らは、軍備放棄や平和憲法護持の立場を伴っている場合も多いが、正直なところ、やはり彼らに聞きたく思うのは、あのような出方をしてきた中国への対応をどのようにするのかということである。
外交で解決すべきだという答えは意味をなさない。日本外交がいかにダメかは火を見るより明らかであり、だからこその中国との衝突でもあったではないか。石原慎太郎が勝手な勇み足をしたからだ、と言っても意味をなさない。石原ひとりを抑えられない国が、中国とうまく交渉できるはずもないからだ。
十分な軍備を持たず、国防の観念と修練が国民に欠けていた場合になにが起こるか、皮肉なことながらも、帝国日本に蹂躙された中国や朝鮮の二十世紀史を見ればよいだろう。中国や朝鮮に、もし当時、十二分の国防軍備があり、国民に国防意識が行きわたっていれば、帝国日本にあのような好き勝手はさせなかったにちがいない。確実に、日本の戦争犯罪を少なくする一助となったはずである。適切な質量の国防は、周辺国の戦争犯罪を抑制する効果を持つものであり、これは長期的に見て周辺国との友好に寄与するばかりか、ナチスや帝国日本のような過度の不条理な軍事行動への転落を人類的規模で抑制する効果を持つ。
あるいは、これもまた皮肉なことながら、『星の王子さま』で有名なアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの『戦う操縦士』を読み直せばよい。国防の観念を十分持たず、軍備もろくにせずに、ナチスにやすやすと国土を明け渡すことになった当時のフランス国民たちへの批判に満ちたあの苦い書物を、ほかならぬサン=テグジュペリが書いたことをよくよく思っておくべきだ。

 もちろん、軍備増強派にも問い質したいことは多い。原発という絶好の攻撃対象の防衛については、ほかならぬ対アメリカ政策、アジアの世論への対応などをどのようにするのか、やはり明瞭かつ有効な方法論を聞きたいと思う。有効な方法論というのは、多くの誤差や不測の出来事に見舞われ続ける現場において、最低限以上のレベルの作戦遂行ができる方法論ということであり、また、それが明瞭に提示される必要があるのは、必要訓練を受けた人物ならば誰が担当しても同等の成果が出せるようなシステムである必要があるからだ。
 対アメリカ政策というのは、とりわけ、武器開発・生産とその輸出に関してである。
軍備増強をする以上、あらゆる周辺国は当然仮想敵国となる。未来永劫に友好関係を維持できる国などないとの基本認識に立つのでない限り、国防思想など机上の空論にすぎない。アメリカが友好国であるのは、わずかこの六十余年であり、それまでは中国以上の最大の敵国であったのは歴史上の事実である。武力を背景にして江戸幕府に開国を強いたのも忘れるわけにはいかないし、日本人の誰もが痛感しているように、現在は経済的政治的に強力な縛りで日本を締めつけ続けている。
こういう国から主な兵器を購入し、軍艦も新兵器も実際にはアメリカ軍が鍵を保持しているというような状況下に置かれ、しかも、新たな強力な兵器開発をアメリカからは妨害され続けているという事態を、はたして軍備増強派はどこまで撤回させる意思があるのか、どこまでこの不平等な体制を改める意思を持つのか、ということが問題の焦点である。武器開発と輸出という、この点での独立が達成されないかぎり、「日本は核兵器を持ったらいい」などという石原慎太郎の戯言は、いつまで経っても本当に戯言に留まり続ける。彼の主張が、どこまでもアメリカの軍産複合体を利するためのものとしか受け取れないのは、こうした兵器におけるアメリカからの完全独立を主張しないからである。
かりに、アメリカから兵器開発・製造において独立する路線を採る決定をしたところで、アメリカは、はい、そうですか、と簡単に日本を手放しはしない。兵器開発・製造をさまざまなかたちでかならず妨害してくる。その場合に、表面的であれ「友好的」という看板を下ろさぬまま、国交も貿易も損なわずに巧妙に妨害をかわしていく術や算段が、はたして日本にあるのか、ありうるのか、と考えれば、全く絶望的なのがわかるだろう。ふたたびハングリー精神を持てば未来はいくらでも開ける、などという世迷いごとを言うのはやめて、戦後の六十余年に決定的な日米間の覇権能力格差が生まれ、もはや如何ともしがたい状態であるのを虚心に見れば、アメリカの下請け兵器工場としてしか、この国の兵器開発・製造はありえないのがわかる。
そういう日本が、せいぜい自衛に必要十分な程度の軍備整備から踏み出し、「戦争のできる国」たるべくいっそうの軍備増強や「国防軍」設置に向かって乗り出したところで、要するに、アメリカの軍需産業にとっての今以上のお得意さんになるだけのことである。金はアメリカへと吸い上げられ、売りつけられる兵器は、アメリカがけっして手放さぬ最新鋭兵器ではなく、一時代も二時代も前の型落ち品ばかりとなる。中国との戦闘でも始まれば、それら型落ち品は戦場でどんどんと壊れ、(古いものなのだから、人民解放軍は当然研究済みである)、さあ困ったというところで、またもや「トモダチ作戦」よろしく、高金利の後払いという条件でのアメリカ軍出動となるわけで、ここでも売り手優先で金をアメリカに絞り取られ続ける。

こういった諸条件の、あまり麗しくもない網の目の中に漠然とかたちを保っているのがわれらのニッポンであって、正直なところ、どちらに向かっていっても碌な国にはもう成り得ようがないようだから、思い切って意図的な没落をし、のんびりした老人国たらんとするのも、かえって巧妙な安全保障策であるかもしれない。ニッポン全国が姥捨て場所のようなものであるという認識を全国民が共有できれば、進んで即身成仏する人々も出てくるだろうし、未開社会の知をふたたび身を以て研究し直そうという人々も出てくるのではないか。
もともとニッポンは、「滅び」ということにかけては多大の文化的概念やイメージを産出して人類に寄与してきた場所でもあったわけで、ふたたびその原点に戻って文化的な産業を練り直すというのは、存外、正しい方法論かもしれない。対外的には「滅び」と「廃墟」を売りにし、さらに津々浦々に「廃人」を行きわたらせば、人類史上でもなかなかにユニークな世界が現出しそうである。
こういう路線を積極的に採れるには、もちろん「廃」ならぬ「俳」のセンスと精神がたくましく通っていなければならず、人間にとってはなかなかに高度な生き方であるに違いはない。吉本隆明が生きていれば、「俳イメージ論」でも書いて称揚これ努めたかもしれない。



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